ベルリン首都決定の25年――ライン川からシュプレー川へ
2016年6月20日

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々週ベルリンを訪れたとき、かつて住んでいたカール・リープクネヒト通り(Karl-Liebknechtstr.)9番地に行ってみた(写真)。建物はそのままだったが、外観や周辺は大きく変わっていた。私はドイツ統一の4カ月後の1991年2月から8月末まで、在外研究で旧東ベルリンの中心アレクサンダー広場(Alexanderplatz)前のこのアパート8階に滞在した。『舞姫』(森鴎外)に出てくるマリエン教会と旧東のテレビ塔の真向かいである。一党独裁体制の「ドイツ民主共和国」(先週、「6月17日事件」から63周年を迎えた)が「ベルリンの壁」崩壊により消滅し、「一つの国家、二つの社会」(拙稿「統一から半年・ベルリン発緊急レポート(連載第2回)」〔『法学セミナー』1991年7月号〕のサブタイトル)ともいうべき状況が生まれていた。国は統一したものの、つい半年前まで存在した東の仕組みや生活スタイル(意識)はそのまま。生活現場は混乱し、軋みをあげていた(例えば、Sバーン(環状線)に乗って東から西へ向かうのと、その逆とで運賃が違うなど、東の人々への「激変緩和措置」もとられたが、それぞれに不満が渦巻いていた)。

そんな25年前の今日、つまり6月20日は木曜日だった。この日、私は朝から夜まで11時間以上、この8階の部屋でテレビをつけっぱなしにしていた。600キロ離れたボンの連邦議会で、統一後の首都をボンにするのか、ベルリンにするのかをめぐる最終決定が行われることになっていたからである。日本のNHKにあたる第一放送(ARD)は当時コマーシャルなしだったので、ぶっ続けで「ボンかベルリンか」(Bonn oder Berlin)の議会中継を行った(冒頭の写真は連邦議会のパンフより)。私は飲み物やパンなどをテレビの前に置いてずっと見続けたが、疲れて途中で何度か眠ってしまった。

連邦議会のサイトで25年前のPlenarprotokoll Nr.2/34 vom 20.06.1991)を読むことができる(201頁のPDFファイル)。第34本会議。午前10時。議長のR・ジュスムート(キリスト教民主・社会同盟〔CDU/CSU〕、女性)が「これより会議を開きます」と宣言してから、この日ただ一つの議題15「議会と政府の所在地をめぐる議案」の審議に入った。首都問題の「連邦国家的解決」をめざす「ボン案」(提案者代表は長らく労働・社会相を務めたN・ブリューム〔CDU/CSU〕)と、「ドイツ統一の完成」をめざす「ベルリン案」(提案者代表は後に連邦議会議長となる旧東出身のW・ティールゼ〔社会民主党(SPD)〕)のほかに、H・ガイスラー(CDU/CSU)の妥協案(大統領と議会はベルリン、政府はボン)と、O・シリー(SPD)の案(「議会制民主主義の機能力の維持について」)、さらには旧東独政権党の末裔「民主社会主義党/左派リスト」(PDS/Linke Liste)のG・ギジ案の5つが提出されていた。しかし、議論は最初の2つ、「ボン案」と「ベルリン案」のいずれをとるのかが焦点となった。

「ボン案」のポイントは「連邦国家的な任務分配」にあり、大統領と参議院をベルリンに移し、議会と政府はボンに残るというものだった。理念的なものよりも、大規模な引っ越しによる職場減や膨大な財政負担といった現実的問題が押し出されている。他方、「ベルリン案」では、「ドイツの政治的、社会的、人間的統一」のために政治的信頼性や正当性、全ドイツ的な連帯といった歴史と理念が強調されている。「ボン案」がもっぱら与党とSPDからの拍手だったのに対して、「ベルリン案」には与野党を超えて(緑や左派まで)一致して大きな拍手が起きた。6月20日午前の段階で私はベルリンが優勢とみた。

議員の発言が始まった。党議拘束はない。持ち時間5分の範囲で、各党の議員がそれぞれの思いで「ボンかベルリンか」の意見表明を行った。テレビで見ているときはわからなかったが、議事録の拍手(Beifall)と野次の記載がおもしろい。一般にドイツ議会の議事録は「笑い声」(Heiterkeit)も記載され、拍手する党名、野次の内容、その議員名と党名まで記載されるからだ。「全く正しい」(〇〇党、〇〇議員)、「だが一体どうやってそれをやるのか」(同)、「我々はそれから学んだのだ」(同)等々の野次をみていると、丁々発止の関係になっている。「野次将軍」もいて、J・リュティガー(CDU/CSU)は「それでもナンセンスだ(Das ist doch Quatsch!)」などを連続して叫んでいることが議事録からわかる。それでも、日本の国会の低レベルの野次とは大違いである。

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発言のトップバッターは、統一時の西ドイツ内相(現在の財務相)のW・ショイブレ(CDU/CSU)である(同志社大学の浜矩子氏は「ショイブレおじさん」と呼ぶ)。精神を病んだ男に銃撃され脊髄損傷・下半身付随のため車椅子姿のショイブレの発言は格調高く、40年の東西分裂の歴史から説き起こし、統一が達成された時のドイツの首都はベルリンしかありえないことを語りつつ、「今日、ボンかベルリンが問われているのではない。我々すべての未来、統一ドイツの未来、そしてヨーロッパにおける我々の未来…が問われているのだ。それゆえ、私とともにベルリンに投票を」と結んだ。一瞬の間をおいて、与野党すべてからの長い拍手とスタンディングオベーション(写真)、そしてW・ブラント元首相(SPD)が演壇に歩み寄って握手を求めた。これはテレビで見ていて一番感動したシーンだったが、議事録には、元首相が演壇まできて祝福したとある。

合計104人の議員が党派を超えて、「ボン」か「ベルリン」かの態度表明を行った。それはすごい長丁場になった。所定の5分ももたずに短く発言を終える議員、堂々と3、4人分は話し続けた「大物」…。拍手は党派を超えて行われ、発言によっては「〇〇党から散発的な拍手(Vereinzelt Beifall)」といった記載があり、決定をめぐって党が割れていることを示唆していた。まさに議会は「ボン党」と「ベルリン党」の二党制と感を呈した。ドイツ議会史における空前絶後の場面だった。

議事録の終わりの方には「追加発言」もたくさん掲載されていて、どこを拾い読みしていても、面白くて先に進まなくなる。例えば、「ボンは愛らしい都市(liebenswerte Stadt)」である。「200メートルで本会議場、200メートルで〔議員〕事務所、200メートルで州代表部、200メートルで記者たちに会え、時に200メートルで友人に会える」というコンパクトな居心地のよさと快適さを指摘しつつも、「首都としてはいくぶん田舎である」といって、最終的にベルリン案を支持する議員(K・ヴェグナー〔SPD〕)。ボンを選ぶことは東ドイツ〔の人々〕にとってより小さな悪になりうるが、ライプチッヒやドレスデンなどにお金をまわせる。二重の住居と引っ越しは無意味な支出だ。「一つの国民となる行程にとって残念ながら正しくないかもしれないが、より小さな間違いという意識で、私はボンを支持する」などと現実的すぎる意見を述べる議員もいる(D・シュペルリング〔SPD〕)。さらに、「ベルリンには必要なキャパがない、東ドイツの発展に困難となる」などと書くチェコの新聞記事が、その結論として、「純粋に効率的(rationell)―合理的(rational)ではなく―に、いまあるようにしておくことがベストだ」としたことを引用して、「連邦国家的解決」、すなわちボン案を支持する議員もいる(S・シュヴァルツ〔CDU/CSU〕)。ボン派がけっこう巻き返して、これは「接戦」になるという感触に変わった。

討論の終わりの方で、旧東出身で、90年選挙で初当選後すぐに第4次コール政権の女性・青少年相に抜擢された37歳のA・メルケル(CDU/CSU)が登壇した。彼女は、自らが35年間独裁体制のもとで生きてきたと語り始めた。ボンが首都でなくなることへのボン地域の人々の不安を誰よりも理解できるのは、ドイツ統一を誰よりも望み、生活に苦しんできた自分たち新しい州の人間〔旧東ドイツ市民〕であるとして、ボン派への理解を示しつつ、その上で、「一つになったドイツは新しい顔を保持する」として、実質的にベルリン案を支持する。今はドイツ8人目の宰相(ドイツ語表記ではKanzlerin)として存在感を増している彼女の、当時はあまり目立たぬ短い発言だった。

それぞれの政党の内部も大きく割れて、途中の集計ではCDU/CSUがベルリン164対ボン154、SPDは126対110、自民党〔FDP〕が53対26、緑の党とPDSはほとんどベルリン支持だが、1ないし2人がボン支持だった。この日の本会議冒頭でジュスムート議長が、「投票は記名投票で、それが18時前に始まることはないでしょう」といって笑いをとったが、実際、討論は夜に食い込んでいった。私は夕食を食べたかどうかの記憶がない。とにかくテレビをダラダラと見ていた。

局面が変わったのは20時50分少し前だった。議長が討論の終結を宣言し、10分間の休憩の後、ただちに採決に入った。ガイスラーとシリーの提案を否決し、ギジが提案を撤回したため、「ボン案」と「ベルリン案」が採決に付された。投票総数660。無効票1、棄権1。ボン案320、ベルリン案338。18票差でベルリン首都が決まった。21時49分閉会。実に12時間にも及ぶ長い議会だった。私の部屋の真下のカール・リープクネヒト通りを、何台もの車がクラクションを鳴らしながら通りすぎて行った。「ベルリンっ子」たちが「首都ベルリン」決定の瞬間を喜んでいた。翌日のベルリン地元紙(TagesspiegelとBerliner Zeitung)は一面トップから政治・経済・社会まで「首都ベルリン」を伝えていた(その新聞切り抜きの束は25年間見ていないが、東京の自宅書庫のどこかにあるはず)。

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現実はしかし複雑である。「首都ベルリン」が実現するのはその8年後だった(ドイツからの直言「連邦議会、ベルリンへ」)。ベルリンに賛成した10人(悩んでいた議員がけっこういる)がボンに入れていたらまったく逆の結果になっていたわけで、この僅差がその後に影響を与えた。1994年4月26日に「ベルリン・ボン法」(Berlin/Bonn-Gesetz)が制定されて、各省庁の諸機関の配分が決められた。新たにボンに移ってくる官庁もあった(会計検査院とカルテル庁など)。環境、開発、文化、防衛などがボンに残ったが、政治や行政の機能という面からみるとさまざまな矛盾が生まれていく。表向きはボン所在でも、主な局はすべてベルリンという換骨奪胎型の省庁もある。結局、法律の明確な規定にもかかわらず、実質的には各省庁の機能(局など)の約64%がベルリンに移ったという(ボン市が属するノルトライン=ヴェストファレン州のH・クラフト首相の「首都決定25年」インタビューに出てきた数字〔General-Anzeiger vom 18/19.6.2016, S.23〕)。30万の小さな都市だが、「かつて首都だった都市」のプライドをいまも「連邦都市」(Bundesstadt Bonn)として表示している。

一方、首都と決まったベルリンはそのあとはずっと工事現場(immer Baustelle)状態になっている。かつて車でベルリンに行った時は「迂回路」(Umleitung)で迷走した。先日も随所で歩道の位置まで変わっていた。1995年6月にベルリンに行ったときは、偶然、歴史的一回性の場面に遭遇した。それが改装前の議会議事堂をすっぽり銀色の特殊繊維で包むという一大パフォーマンス(クリストの芸術)である。その繊維の断片は東京の研究室に飾ってある(直言「国会議事堂を覆う―日本とドイツ」)。

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首都決定から9年後の1999年9月1日、ついに連邦議会がボンからベルリンに移った。それを前に同年7月1日17時、ボンの中心部で「ドイツの民主主義50年・ボン祭り」が開催された(直言「「素晴らしき仮の宿」に別れ」)。主催は連邦議会と連邦参議院。1949年から半世紀にわたって「暫定首都」の役割を果してくれたボンに、議会が感謝するという企画だ。99年3月からボンに住んでいた私はこれに参加して、目の前にいる首相や両院議長らの演説を聞き、ビデオにおさめた。なかでも、連邦議会議長となったW・ティールゼの「ボンなくしてベルリンなし」(Ohne Bonn wäre kein Berlin!)という言葉に感動した。「ボン基本法」と「ボン民主制」の歴史的意味についてはまた別に書くことにしよう。

新旧議会の前を流れる川の名から、「ライン川からシュプレー川へ(Vom Rhein an die Spree)」と表現することがある。先々週、そのシュプレー川の遊覧船に乗った。議員会館と議会図書館の超近代的な建物を撮影するためだ(議会パンフの航空写真参照)。議員会館と図書館とは2本の橋でつながっていて、遊覧船から見たとき、ちょうど議員秘書らしき人が大きなスーツケースを引きながら図書館の方に向かって橋をわたっているところだった(シャッターチャンスを逃した!)。おそらく図書館から大量の文献・資料を借り出し、これを返却しにいくところだろうか。日本の国会議員のなかで、国会図書館を使って文献・資料にあたったり、秘書に調べさせたりしたことのある議員がどのくらいいるだろうか。

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ボンからたくさんの議会・政府関係者がベルリンに移り、それに関連する職場が消えた。しかし、いま、かつての政府機関の建物には、民間企業やUNV(国連ボランティア計画)本部をはじめ18の国連機関が所在し、1000人の国連職員が働いている(彼らの住民登録は簡易な手続きですみ、ボン大学客員研究員の私も便乗させてもらった)。先月、ノルトライン=ヴェストファレン州議会は「国連都市(UN-Stadt)ボン」の20周年を祝った(General-Anzeiger vom 11.5.2016, S.5)。かつての連邦議会議事堂は国際会議場となり、学会や国連の会議が開催されている(左側写真参照)。

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それにしても、一つの国で首都を移転するというのは大仕事である。実はボンが首都と決まるときにもいろいろな裏話がある。アメリカはフランクフルトを首都として準備を進めていた。それを見事に裏切ったのがK・アデナウアー初代首相である。ボン基本法と首都ボンの半世紀の意味についてはまた「直言」でも書くことにしよう。

日本はいま参議院選挙という、この国の将来を決めるきわめて重要な局面にある。争点隠しのみならず、スキャンダルや「事件」にメディアが集中することで、選挙から人々の関心をそらせる「話題隠し」も行われている。都知事辞任をめぐるメディアの動きは明らかにおかしい。政治資金の使われ方を正していくことが目的でなく、現職を追っ払うことだけが目的のようにみえてしまう。この都知事をいいとは思わないが、「せこい小悪」に報道が集中するのは海外から見ると異様にうつる。もっと「大悪」がいるだろう。それが隠されている。そして、人々の関心を向けさせまいとしているのが憲法改正である。この話題に入らずに、経済問題に特化して選挙を終える。そして憲法改正可能な3分の2以上になる議席を獲得する。日本の政治はここまで姑息になってしまった。

ドイツでは、冷戦が終わって、東西ドイツが統一するという歴史を踏んで、統一条約で首都ベルリンと決まってはいるものの、その中身をどうするか。政治が決めねばならない根本的な事柄について、あえて「ベルリンかボンか」という形で、一人ひとりの議員が何らかの発言をした上で決めるという、時間と労力をおしまない姿勢を貫いた。これにはただ驚くばかりである。日本で憲法改正をするというなら、それだけの突き詰めた議論が必要だろう。ドイツは60回も基本法(憲法)改正をしているが、連邦軍の海外出動や対テロ出動(「国内出動」)のための改正はしないで、連邦憲法裁判所の判決や法律改正で乗り切ってきた。これをやるには相当な議論が必要だからである。日本の国会では、いま、首相が理性と知性を欠いた「喧嘩言葉」を使った答弁を繰り返し、議論が成立していない。「熟議の府」、あるいは民主的多数で決めた衆議院の決定をもう一度考え直す「国権の再考機関」の参議院の選挙に、18・19歳の240万人をはじめとする有権者は、 (『18歳からはじめる憲法〔第2版〕』でも事前に読んで)是非とも、今後の自らの人生に大きく関わってくることとして捉え、投票という形で政治に参加していただきたい。長くなったが、これがちょうど25年(4分の1世紀)前の「ボンの6月20日」のことを詳しく書いた理由である。

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