スターリングラードの「ヒロシマ通り」――独ソ開戦75周年(1)
“Улица Хиросимы” в Сталинграде - 75 лет с начала советско-германской войны (1)
2016年7月25日


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イツに旅立つ1カ月ほど前に、たまたまモスクワ在住の教え子とメールする機会があり、そのなかで今回のロシア取材が決まった。ロシアを個人で訪れることが簡単ではないことをビザ取得のなかで知った。往復の航空券と宿泊するホテルからの「バウチャー」(予約確認書)が届いて初めてビザの申請手続きに入ることができる。17年前はボンのエジプト大使館に行ってビザをとってカイロに向かったが、ロシア旅行はそれが許されない。ヨーロッパはどこも自由に旅行できるので、この不自由さは、冷戦時代の1979年秋、ブレーメンからベルリンまで列車で行ったときの緊張感を思い出した(東西両ドイツの国境警備隊による2回のパスポート検査など)。

ロシアではモスクワに計3泊、ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)に2泊した。今回からそのロシア取材についてのレポートを連載する。その第1回は、第二次世界大戦の転換点となったスターリングラードの戦いで市街地のほとんどを破壊されたヴォルゴグラード、その中心部にある「ヒロシマ通り」についてである。

ベルリンの「ヒロシマ通り」については先月の直言で触れた。通りの実質的改名者であるハインツ・シュミットについては、『朝日新聞』でも報道され駐ドイツ大使日本大使が講演のなかで言及していることもすでに書いた。今回は、旧ソ連時代の1987年、ヴォルゴグラードのある通りが「ヒロシマ通り」に改名された経緯とその今日の状況について述べていこう。

この通りは、ヴォルゴグラード州ヴォルゴグラード市中央地区(ツェントラーリヌィー・ライオン)にある。ヴォルガ川(写真)を背に、片側2車線の「第7親衛隊通り」を西北西に進む。モスクワとヴォルゴグラードを結ぶ鉄道の陸橋をくぐると、左手にマクドナルドの店舗が見える。ここで第7親衛隊通りは、片側4車線に中央分離帯のある大通りへと姿を変え、通りの名称もまた変わる。ここが「ヒロシマ通り」の一方の起点である。ドイツ的にいえば、「通り」(Straße)よりも「大通り」(Allee)に近い。1番地から北西方向にゆるやかな坂になっている。坂を登り切るとロコソフスキー〔ソ連邦元帥〕記念通りにぶつかる。そこにT字路状に接続して「ヒロシマ通り」は終わる。約650メートル。徒歩で歩けば10分程度である。ロシアでは日本車と韓国車を多く見かけるが、ここは特に日本車が多い。日産、トヨタ、マツダ、ホンダ、スバル、スズキの車がこの通りに駐車していたのは壮観だった。両側にはソヴィエト時代に作られたと思われる古いアパートや、スーパーなどが立ち並ぶ。ごく普通の住宅地である。ママイの丘と中央駅の間に位置するこの通りは、スターリングラードの戦いの際のドイツ軍とソ連赤軍の移動経路に位置しており、同地でも激しい市街戦が行われたはずである。T字路の端からは、ママイの丘の「母なる祖国」像が見える(写真)。

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ロコソフスキー記念通りとの交差点の中央分離帯には「ヒロシマ通り」の碑文が掲げられている(左写真)。「この通りは姉妹都市広島にちなんで名付けられた。1987年5月」(УЛИЦА НАЗВАНА В ЧЕСТЬ ГОРОДА-ПОБРАТИМА ХИРОСИМЫ МАЙ 1987г)と、表記はベルリン「ヒロシマ通り」のそれよりシンプルである。これについては、『論拠と事実』ヴォルゴグラード版2014年8月6日付も、「ヴォルゴグラード市のヒロシマ通りの小さな分離帯には、控え目な石碑が建っている。…この場に、歴史上、原子爆弾の最初の犠牲者になった日本の都市を思い出せるものは、これ以外に何もない」と書いているように、意外に地味である。

碑文をバックに写真を撮ろうとしたその時だった。通りの向こう側から足早に近づいてきた老人が私の横にサッと立ったのである。ほんの一瞬のことで、写真を撮り終わると笑顔で去っていった(右写真)。もしかしたらこの通りの住民かもしれない。とてもあたたかい気持ちになった。では、どのような経緯で「ヒロシマ通り」となったのか。唐突に思いついて、市役所にアポなし取材を試みることにした。金曜日の午後なので、まだ市役所は開いている。

タクシーの運転手に市役所本庁舎まで行ってもらい、そこの守衛に「日本の広島大学の元助教授がヒロシマ通りについて話を聞きたいといっている」と、モスクワ在住の教え子に通訳してもらった。向かいの建物にある市民面会所を紹介され、そこの年輩の守衛に趣旨を伝えると、きわめて好意的に対応してくれて、こちらの意図を正確に市民課の担当職員につないでくれた。その女性職員は電話で担当部局に連絡をして、何と迎えの公用車がやってきた。5分ほどで国際・地域間交流局のある庁舎に到着。局長自ら庁舎の外で出迎えてくれた。

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ヴォルゴグラード市行政府国際・地域間交流局のセルゲイ・ラプシノフ局長と、広島市を含む関係市との交流を担当する職員マリヤ・デーエヴァさんに話をうかがった(写真)。なぜ「ヒロシマ通り」に改名されたのかという私の質問に対して局長は、「姉妹都市の関係にある都市にちなんだ名前の通りが市内にはいくつもあります。例えば、コヴェントリー(英国)、ポートサイド(エジプト)、リエージュ(ベルギー)などです。1972年にヴォルゴグラード市と広島市は、姉妹都市の協定に調印し、その15周年を記念して1987年5月に「ヒロシマ通り」が誕生しました。命名の際に、広島が最初に核兵器を落とされた都市であることは当然に考慮されました。広島市は原爆で破壊され70年は草木も生えないだろうと言われていましたが、その後、急速に発展しました。ヴォルゴグラードも市街地の96%が破壊されましたが、その後、復活を遂げました。両都市は工業都市という点でも共通点があります」と答えた。私が「ヒロシマ通りは市民にどのくらい知られているのか」というと、局員のデーエヴァさんは、「通りには碑文があり、平和の鐘が描かれています。市民はヒロシマ通りが存在することをよく知っていますよ」と、やや意外そうな表情で答えた。局長は、「毎年、8月6日にはヒロシマに関する追悼のセレモニーが行われ、広島市名誉市民となったヴォルゴグラード市元市長のユーリー・スタロヴァトィフさんも参加しています」とつけ加えた。私が広島の新聞社から『ベルリンヒロシマ通り』という本を出しているというと、デーエヴァさんは「チュウゴクシンブン」という日本語を口にしたのでびっくりした。広島の中国新聞のことを存じだったのである。

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なお、取材のなかで出てきた広島市名誉市民のスタロヴァトィフさんは、前掲『論拠と事実』ヴォルゴグラード版で次のように述べていた。「広島は、文字通り根こそぎ破壊されました。そして、このことが、広島をスターリングラードと近づけたのです。ヴォルガ河畔の我が町も、やはり8月に破壊されました。たしかに年は異なるし、一発ではなく、多くの爆弾によって破壊されたという違いはありますが」と。

また、この『論拠と事実』には、地元の歴史家エヴゲーニー・チェミャーキン氏のインタビューも掲載されている。それによると、この通りは1987年5月まではスヴィルスカヤ通りで、それより前は、プリアズョールナヤ通り〔湖岸通り〕だったという。「通りの改名を記念して、碑が設けられました。この通りは、ポートサイド通り、コヴェントリー通りと同時に、自らの新しい名前がつけられました。それらはすべて、第二次世界大戦の際に深刻な破壊を被った姉妹都市にちなんで名付けられたものです。ちょうどこの時期にそれらの都市との積極的な友好関係が形成されたのです」。

なお、市内で入手したチョコレートの包み紙には「母なる祖国像」写真の下に姉妹都市の名前が並び、右下に「ヒロシマ」(Хиросима)とある(写真)。

後日、案内をしてくれたモスクワの教え子からメールが届いた。取材したヴォルゴグラード市国際・地域間交流局マリヤ・デーエヴァさんからのもので、そのなかで、「ヴォルゴグラード・ヒロシマ友好協会」の公式サイトに短い記事を掲載すると書かれていた。その内容は次のようなものである。

「先週、我々の街に、東京の早稲田大学法学部教授水島朝穂氏が仕事上の目的で来訪した。彼は、広島大学に勤務したこともある憲法学者である。多くの著書を出しており、そのなかには、『ヒロシマと憲法』(第4版)や『ベルリンヒロシマ通り――平和憲法を考える旅』が含まれている。残念ながら、教授とその友人は、〔職員による〕同行および観光案内を丁重に断ったが、我々は、それでもなおヴォルゴグラードにおけるヒロシマ通りの歴史について、彼らに語ることができた。なお、水島教授は、インターネットに自分のサイトを開設しており、毎週月曜日に新しい文章が掲載されている。そこにはまもなく、我々の街への来訪についても掲載される予定である!」と。そして、この「直言」がその約束を果たすものとなった。

連載第1回:現在閲覧中
連載第2回:2016年8月1日付「ロシア大平原の戦地「塹壕のマドンナ」の現場 へ――独ソ開戦75周年(2)」
На землю, где была нарисована «Сталинградская Мадонна» - 75 лет с начала советско-германской войны (2)
連載第3回:「収容所群島」とグラーク歴史博物館――独ソ開戦75周年(3・完)
«Архипелаг ГУЛАГ» и Музей истории ГУЛАГа - 75 лет с начала советско-германской войны (3)


《付記》

ロシア取材で約1週間留守にしている間に、ドイツでは立て続けに殺傷事件が起きていた。出発前日にヴュルツブルクの電車内で斧とナイフを使った無差別傷害事件(17歳のアフガン難民)が起きていたが、ロシアに滞在中、ミュンヘンでの無差別発砲事件(18歳のイラン二重国籍者)、ロイトリンゲンでの殺傷事件(21歳のシリア難民申請者)、アンスバッハでの自爆攻撃(27歳のシリア難民申請者)と、ホテルのテレビには連日、ドイツからの生々しい映像が流れた。ドイツ語でAmoklaufないしAmokläuferと表記され、攻撃的精神錯乱ないし攻撃的精神錯乱者を指す言葉である。イスラム国との関係が疑われるものと、そうでないものとが混在している。6年前の秋葉原の事件と重なるものもある。

帰宅翌日の大衆紙には未成年の容疑者を含めて当事者の顔写真が大きく掲載された(Das Blid vom 26. 7.2016,S.3)。在デュッセルドルフ総領事館からは、ドイツ在住邦人への一斉メール(注意喚起)が何通も届いていた。悲惨な事件が短期間に続いたので、メディアもやや冷静さを失い、前掲の大衆紙は煽情的な見出しと文章で、「いかに難民を統制するか」、米国の州兵や英仏の予備役をモデルにして、連邦軍の予備役を国内投入するための議論が政府部内で始まったと書いた(連邦内務省は否定)。「対外的安全」(軍の任務)と「対内的安全」(警察などの任務)との分離をなくす提言も肯定的に載せている(S.4)。お決まりの俗論の展開だが、『南ドイツ新聞』の評論は、「誰が連邦軍を呼び出すのか」というタイトルで、「軍人は警察官の仕事をする訓練を受けていない」という冷静な議論で釘をさしている(Süddeutsche Zeitung vom 27. 7, S.4)。

そこへ、相模原市で重複障害者の大量殺傷事件が起きたという衝撃的なニュースが飛び込んできた(第一報を伝えるドイツ第1放送26日12時のニュース)。『南ドイツ新聞』は写真入りで「別の世界」という見出しで報じ、容疑者が「安楽死」(Euthanasie)という言葉が使ったことに、ナチス的過去を意識して敏感に反応している(Süddeutsche Zeigung vom 27. 7, S. 8)。また、容疑者が2月に衆議院議長宛に手紙を送り、「日本のために(für Japan)470人の障害者を抹殺する」と書いたことにも注目している(General-Anzeiger vom 27.7,S.31)。

なお、ミュンヘンの乱射事件で子どもを射殺した18歳は、自分の誕生日がヒトラーと同じ4月20日であることを「栄誉」(Auszeichnung)とする極右的傾向をもっていたという(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 28.7, S.1, 8)。相模原の大量殺人事件の 容疑者も、「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったという(NNN・ネット7月28日)。

日本のメディアをドイツで「体感」することはできないので(ドイツの「体温」になっている)、一体、東京都知事選挙はどうなっているのだろうか。

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