変わったこと、変わらないこと――「ドイツからの直言」最終回
2016年9月26日

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イツから帰国して2週間たつが、体とパソコンが本調子でない。帰国の翌々日にゼミ合宿で沖縄に滞在したこともあり、時差ボケ的な体の不調が今になって出てきた。パソコンは、ドイツで最新型のランサムウェア(身代金要求型ウィルス)にやられたため、それを駆除する方法がみつかるまで、パソコンを数カ月間、「凍結保存」することにした。したがって、8月27日までの半年分の仕事(原稿、翻訳、「直言」の数回分の原稿、半年間の新しいメールアドレス)が見られない、使えない状態にある。それに加えて、帰国後、研究室に保存しておいたパソコン(データは渡独直前のものまで)をはじめ、予備機も、パソコン屋でデータを移した「代車」のパソコンまで、なぜかハードがダウンして修理にまわすことになった。ようやく予備機から取り出したディスクを新しい「代車」に入れて作業している次第である。「先生、運が悪すぎます」と、お世話になっている富士通「親指シフト」専門店の店主に言われるほど、ドイツで運を使い果たしてきたようだ。しばらくは、仕事面での「低空飛行」をお許しいただきたいと思う。「直言ニュース」も出せないため、読者の皆さまにご心配をおかけしていることをお詫びしたい。

外国に「滞在する」ということは、期間の長短にかかわらず、その国の社会と深い関わり合いをもつことを意味する。旅行者との違いである。17年前は1年あまり滞在したが、16歳の娘を軸に、「学校社会」との関わり合いが大きかった。

ボン滞在が二度目となる今回、この4月に出した第1回の「ドイツからの直言」は「17年間で変わったこと、変わらないこと」と題して、ボンで生活を始めて6日後という時点で書いたものである。今回の滞在は6カ月という短いものだったが、地域社会と「顔の見える」関係を築いたという意味では、17年前よりもドイツ社会と濃密に付き合ったという思いが強い。これは、いろいろな意味で今後の研究や人生にも活かされていくに違いない。すでに「さようなら、ボン(その2)―ドイツ基本法の「故郷」を歩く」で「ドイツからの直言」の最終回を書いたが、今回は生活面を含めた実質的な最終回となる。

半年とはいえ、客員研究員として、当然、受入れ大学のボン大学との関係が重要である。私のほか、たまたま早大から伊藤守教育学術院教授(メディア論)が同じ時期ボンで在外研究だったため、私たち2人を軸に「研究会」が組織され、私もそこで1度報告した(5月2日)。さらに、7月6日には、ボン大学主催の学生・市民向け講演会が開かれ、日本の憲法改正問題について所見を述べ、学生や市民の質問にも答えた(写真)。安倍首相がなぜ憲法を改正しようとしているのかといった質問や、平和問題に関心の強いというドイツ人男性からは、全欧安保協力機構(OSCE)のような枠組みをアジアにも考えたらどうかという質問が出て我が意を得たりだった。7月1日には、学生たちとともに、連邦憲法裁判所見学バスツアーにも参加した

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17年前の滞在と違い、今回は夫婦2人だけということもあって、地域社会との関係がいろいろと広がった。まず、拙宅のすぐ目の前に広がるのが小学校(Grundschule)というのも面白かった。登校時に、心配そうに見送る親たちの姿と低学年の子どもとの涙の別れまで、私の家の居間からよく見える。親同士の世間話まで聞こえてくる。登下校時の親の送り迎えを見ていると、外国人の親子が多いことがわかる。

休み時間に子どもたちが遊ぶ声はすごい迫力だ(写真)。元小学校教師の妻は、「子どもたちの声がする方が楽しい」と、サッカーで遊ぶ際の掛け声にまで関心を示していた。拙宅の反対側が小学校専用バス停なので、遠足やプールに行くときなど、子どもたちがにぎやかにスクールバス(普通のバスと同じ大きさ)に乗り込む姿を、妻は洗濯物を干しながら眺めて楽しんでいた。路上での交通教室も実に興味深く、拳銃を腰につけた女性警察官が、自転車に乗った生徒たちを一人ひとり道路に送り出していく。休日が続いて、子どもたちの姿を見ないと、むしろ静かすぎてさみしいくらいだった。かつては子どもの声にいらついた私も、高齢化によって「変化」したのかもしれない(笑)。

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自宅で原稿書きをしていると、同じマンションの住人たちの郵便物や宅配便の荷物を預かる機会が多い。というよりも、配達員がこいつは家にいると目星をつけて、不在の人の荷物を預けていくのだ。近くに国際機関が多いこともあり、住人は国籍が多様である。そんななかで、テレビの接続について詳しい住人に助けてもらったこともある。また、停車している灯油配達車の運転席に座る犬と目が合ったことも。住民になると、いろいろな「来客」があるものである。

住民登録と外国人登録に難渋したことはすでに詳しく書いた通りである。申請手続がインターネット中心になって、「ネット弱者」には本当に不便である。最後は直接並ぶしか手がないという状況を改善すべく、私の件以降、外国からくる客員研究員の手続については改善が進んだと聞いている。一方、外国人登録については、私の件がきっかけとなって、客員研究員とその家族の申請については、国際機関、NGOなどと同じく、一般とは区別して「ウェルカム」に対応してくれているようである。さまざまな手続を通じて感じたことは、外国人がドイツで生活を始めることに対するハードルが高くなったということだ。難民流入が急増した2015年に法律改正がされて、転入・転出の届けに家主(住宅提供者)のサインが必須となった。又貸しなどへの対処が想定されている。9月に日本に帰るときも、転出の手続が煩雑になったのを感じた。

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6月に自然災害も体験した。この地域では地震や台風がないかわりに、Hochwasser(水害・河川氾濫)が最大の災害である。雨が少し激しく降り続いたと思ったら、拙宅前の「小川」(Bach)が氾濫して、近所の地下室や半地下住宅が浸水した。6月6日「直言」の末尾の「注」のリンクをクリックしていただくと被害の様子がわかるだろう。この時期、ドイツ各地でも被害が拡大した。水害の後片付けなど、近隣の人々の助け合いも目の前で見ることができた。Hochwasserの被害は雨がやんだあと、しばらく時間をおいてやってくるので、住民が道路に出て心配そうに話している。いろいろと知り合いもできて、近所の焼き肉パーティに招待された。妻が手巻き寿司と梅干しをもっていくと、Japanische Kücheということで喜ばれた。近隣住民はいろいろな職業の人がいて、例えば、トルコ人のクリーニング屋さんとは、ブレザーやズボンなどをお願いする顧客(Kunde)の関係になった。

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トルコ人のような古くからの住民のほか、中東や北アフリカからのアラブ系住民が急速に増えた。シリア難民も街中で昼間からたむろしている。近所のモスクはあの独特の塔がなくて、壁に絵で描かれている。ドイツの国旗も立てて協調をうたっている。周辺にモスクはかなり増えている。

たまたま新聞を買いに行った帰りにブレザーをとりにクリーニング屋に寄ると、7月15日に起きたトルコの「クーデター未遂事件」について話題になった。私が「エルドアンの独裁」という言葉を使うや、彼は血相を変えて反論してきた。エルドアン大統領のおかげで所得も増え、病院の長い列もなくなった。エルドアンは国の発展のためにたたかっている、と独裁必要論を展開した。ちょうどケルンで、在独トルコ人が集まってエルドアン支持の集会を開いていた時期だったので、ピリピリした雰囲気になり、それ以上その話題にはお互い触れなくなった。

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5月7日(土)深夜、Uバーンの駅前のバス停留所の近くで、17歳の高校生(ギムナジウム生)Niklas K.君が意識不明の重体で発見され、その後死亡が確認された。近くに銀行もあり、私もよく通る場所である。事件後しばらく、Niklas君が倒れていた地面に赤いロウソクが立てられていた(写真)。近くの円形の植え込みには花やお供え物がたくさん並べられていた。1カ月くらいは、事件関係者や、新聞などで知った一般の人が遠方から花を供えにやってきていた。警察は殺人事件として捜査を開始。数日して、突然、容疑者はアラブ系の難民かもしれないというような記事が大衆紙に載った。すぐに極右団体がこの場所にあらわれ、事件を難民問題と結びつけ、「難民は出て行け」と主張する集会を開こうとした。被害者の関係者や近所の住民たちがスクラムを組んで対抗集会を行い、しばらくにらみあいの末、極右団体は姿を消した。警察が警戒にあたり、全国ネットのテレビ局も取材にきた。拙宅からほんのわずかな距離のところで人が死に、それが難民やアラブ系住民だという話にふくらんでいく。かつてのような落ち着いた街、Bad-Godesbergではなくなっていた。

警察は次々に容疑者らしき人物を挙げかかるのだが(ケルンの大衆紙『Express』が先触れ記事で煽る)、決め手を欠き、未だに容疑者を逮捕できないでいる。早くもネット上の「未解決事件」に並びはじめた。そうしたなか、Niklas君は頭の血管に病気をもっていて、もみあいで倒れたときにそれが切れた可能性があるという鑑定結果も出てきた。殺人ではなく傷害致死事件へ。5月の第3週くらいまでは全国紙やテレビにもこの事件のことが出ていたが、その後急速にさめていった。たくさん花が供えられていた「祭壇」も、私が帰国する頃には、枯れた花が何本か並んでいるだけになった。でも、人一人が亡くなっているわけで、この事件を風化させるなという投書が地元紙に出ていた。

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住民との関係という点では、キリスト教会の存在が大きい。ケルンのフィルハーモニーでコンサートが開かれるため、ケルンには何度も通った。その際、いつも大聖堂には圧倒された。でも、地元の小さな教会もいいものだ。カトリックもプロテスタント(Evangelisch)も教会共同体(Kirchengemeinschaft)をもっていて、語学教室(難民のためのドイツ語教室も)、料理教室(日本料理も)、健康教室、趣味の教室、音楽教室など実に多様なサークル活動を行っている。妻はプロテスタント教会のBlockflöte(リコーダー)のアンサンブルに参加した。年輩の女性たちのグループで、言葉がなかなか通じないといいながらも、音楽を一緒にやる楽しみを共有していた。6月に教会での演奏会があり、私も歌わされた。これも楽しい思い出である。

17年前にボンで運転免許証(Führerschein)をとり、中古車を買って運転していたので、当時はバスやUバーン(地下鉄)はほとんど使わなかった。だから、乗客としてのいろいろな問題があることに気づかなかった。ドイツの運転免許証は更新がないので、今回もそれを使ってレンタカーを運転し、計4190キロ走った。フランスのヴェルダンと、旧東ドイツ(ドレスデンなど)の取材は車なしにはできなかった。しかし、それ以外はもっぱら電車とバスを利用した。Uバーンの車内の「抜き打ち検札」は何度か体験したが、バスのそれは妻が今回初めて体験し、「不正乗車」を疑われるというとんでもない「冤罪事件」に巻き込まれた。その顛末は、直言「ドイツで「冤罪事件」に巻き込まれる―車内改札制度の盲点」に、怒りをこめて書き込んだので参照されたい。

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ここでは冒頭の不愉快な写真の説明から始めよう。「簡単にはあなたはお金を節約することができません。不正乗車(Schwarzfahrer)には60ユーロかかります。有効な乗車証明なしに公共交通機関を利用すると60ユーロかかります」。とにかく60ユーロは普通の人にとっては大金である。これを払いたくなければチケットを買えというポスターである。何と無礼なものいいだろう。一見、性善説的で、誰もがチケットを買って乗ることを前提にした仕組みとされるが、前述の「直言」でも書いたように、小銭がなくてチケットを買えなかった人、チケット販売機が不具合だったり、旅行者などで買い方がよくわからなくてとりあえず乗って、車内で買おうと思って乗った人など、これがすべて不正乗車として扱われるのである。この写真にあるように、自分の目的地までにどのチケットを買うかというのはすぐには理解しづらい(私も帰国直前になって、ようやくすべて理解できた)。日本人旅行者の体験事例がネットにある。試しに「ドイツ 検札」「ドイツ バス 検札」などで検索してみると、その叫びが出てくる。昨年まで40ユーロだったのがいまは60ユーロになっているので数字の違いこそあれ、似たようなケースは無数にある。「冤罪」を構造的に生む仕組みと言わざるを得ない。この抜き打ち検札の問題についてはすでに書いたので、今回はドイツ鉄道をはじめ、ドイツの公共交通機関の「サービス」の問題性について書く。

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8月31日から最後の旅をした。これは妻の希望を入れて、ライン川クルーズをのんびりやって、途中の駅から列車でマインツとハンバッハ(これは私の希望)に向かうという地味な旅である。

まず、朝早く駅にいって、クルーズやその他の割引切符(ラインラントチケットなど)を買おうとしたら、その日は8時にならないとプレハブ小屋のチケット売り場は開かないことがわかった。3月にここに着いた時から工事現場(スーツケースを両手にもって昇り降りする長い仮設階段のまま! )が続き、駅員がいるまともな駅舎ができていない(首都だった街の駅なのに)。自販機で買うが、釣り銭が出ないのである。仕方なしにカードで買って乗り込む。特別の割引切符は自販機の対象外なのであきらめることにした。そもそもチケット販売機は「お釣りはこの金額まで」と絵が出て、20ユーロでも買えないことがしばしばある。しかも、駅員がいる窓口が閉鎖されている。17年前と異なり、民営化したドイツ鉄道は人減らし合理化で、駅員がいるまともな駅は、よほどの大規模駅以外なくなった。

快適なライン川クルーズを切り上げて、Bacharachで下船した。ここからドイツ鉄道(DB)でマインツまで行こうと思ったのだ。この街はこじんまりして、きれいなところだが、人が歩いていない。駅はしばらく行くとあったが、観光地の駅なのに駅舎は閉鎖され、駅員がいない。マインツまでの片道を買おうと自販機を使うが、1枚は現金で買えたものの、もう1枚がお釣りなしのため買えない。仕方なしにクレジットカードを使う。しかし、何度やってもカードがもどってきてしまう。もう一つの自販機に試してみると、ようやくカードを受け付けた。気づくと、近くに若い男がニヤニヤ笑いながら立っていて、小額紙幣が入った自分のサイフをこれ見よがしにみせるではないか。両替詐欺の雰囲気をムンムンに漂わせていたので無視した。しばらくすると、4、5人のドイツ人女性のグループがやってきて、チケット販売機の前で小銭の件で話し合っている。その周辺でその男がウロウロしていた。

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そもそも観光地の駅なのに駅員がいない。これがドイツ国内の普通の風景である。半年の間、いろいろな場所にDBの電車で行ったが、駅員がいる駅に出会う方がまれだった。トイレもないから、ホームのすみや地下の通路は悲惨な状態になっている。これがドイツ鉄道の現実である。フランクフルトやケルンなど、大きな駅を渡り歩く旅行者なら気づかない、ローカル線のローカル駅の現実がここにある。日本のローカル線の駅はほんとうにきれいだとしみじみ思い出していた。何より田舎の駅にもきちんとトイレがあるからだ。ドイツでは中央駅でもトイレが少ない。ここの国のトイレ事情の深刻な問題についてはすでに書いたので繰り返さない。

マインツやハンバッハの旅を終えてボンにもどる列車のことについて書く。そもそもドイツの鉄道の不親切は37年前から慣れっこだったが、さすがに今回、高齢者の仲間入りをして、突然のGleis(番線)変更、行き先変更による急な乗り換え、小さな案内表示がよく見えないなど、いろいろと苦労した。駅員がいないから、聞くに聞けない。ドイツではスマホをやっていないから、若者がネット情報で移動するのについていけない。私たちはドイツでは、「外国人」「高齢者」「ネット弱者」の三拍子揃って旅をしていた。

コブレンツでは突然の列車変更が行われ、多くの乗客が戸惑っていた。よくみるとアラブ系の人たちが多い。列車の椅子で休んでいた車内検札係に聞くと、だるそうに「後ろの列車だ」と背後を指さすだけ。みると、後方に赤い列車が停車していて、今まさに発車するところだった。時刻表ではケルンまで行くとなっていたので安心して乗っていたのに、その列車がコブレンツで運転打ち切りと知って、他の乗客とともに後方の列車まで走った。ホームに駅員はいない。急いで乗り換えさせられたエンペル(Empel)行きのRE 。これに乗った乗客たちの多くは、自分たちの行き先の駅に行くのか不安でたまらない。よくみるとドイツ人は一人もいない。アラブ系が多い。近くに座ったトルコ人グループの一人が、後方の車両に行き先について知っている人がいないか聞きにいって、笑いながらもどってきた。「だめだ〜」と。そして、私に向かって、この列車はデューイスブルクに行くかと聞いてきた。私がドイツの新聞を読んでいたからだろう。打ち切りになった列車がもともとケルン行きだったから、これもケルンまでは行くだろう。そこで乗り換えたらいいといった。私もエンペルがどこにあるかを知らないので、そう答えた。やがて車内検札がきたので、そのトルコ人たちが私にした同じ質問をすると、「もちろん行くよ」との答え。なぜ「もちろん」なのか。あとで調べると、エンペルはデュッセルドルフやデューイスブルクのそのずっと先にある。電車に乗るとき、目的の駅の位置関係がすべてわかる人はいないだろう。それを教えてくれる駅員がほとんど見当たらない。まともに駅員に聞けるのは中央駅だけである。なお、この列車では2階席に座っていたのだが、1階に降りるとリュックを背負った難民がたくさん乗っていた。というよりも、ホームでみると、どの車両も子どもを連れた難民でいっぱいだった。トルコ人が「だめだ〜」といった意味がわかった。

さまざまな国からきた人たちに鉄道を快適に利用してもらうためのポスターがある。ケルン駅にあったので思わず撮影した。「私たちはあなたのためにそこにいる。あなたの鉄道チーム」とあるが、これは少なくともケルン駅でしか通用しない。私がつくり直せば、「私たちはそこにいない」(Wir sind nicht da!)である。DB がまっさきに改善すべきは、駅への駅員の配置、外国人や高齢者にきちんとやさしく説明できる態勢をつくること、これである。

ところで、サービスというものがわかっていないのは鉄道だけではない。

ドイツのみならず、ヨーロッパのスーパー・マーケットのレジは問題が多い。カゴから商品を取り出して、自分でベルトコンベアにのせる。レジ打ちの店員が商品をどんどんスキャンして、斜めになっている下の受け台に流していく。商品をポンと投げてよこすこともある。それを急いで自分のもってきた袋などに入れるのだが、同時に支払いもしなければならない。次の人の商品が流れてくるので大急ぎで入れなければならない…。このやり方は何十年前から同じである。客の視点が著しく欠けている。年寄りがゆっくりした動作で自分の買い物袋に入れていると、たちどころにラインは停滞する。ドイツのスーパーは品揃えこそよくなったが、レジの仕組みは最悪である。長い行列ができて、時間も日本の倍近くかかるのではないかと妻はいう。まれに感じのいい店員に出会うこともあるが、それは愛想がよい人だというだけで、レジの仕組みそれ自体は絶望的に進歩がない。帰国後日本のスーパーで、カゴのまま商品をあずけると、レジの店員が商品を袋につめることまでしてくれたので、妻は思わず「ご親切にどうもありがとう」と言ってしまったという。

と、ここまで書いてきて、これらがすべていい思い出であることに気づいた。なぜなら、あえて不便を承知でその問題とぶつかり、試行錯誤しながら自力で発見するというのが、私の海外滞在のモットーだからである。今回、さすがに妻に「付き合いきれない」と言われて、バスの件では徹底的にたたかった。ツアー客のように受け身で外国をまわるのと違って、海外に一定期間滞在すると、その国のよさと同時に問題の所在をリアルに知ることができる。外国について知識と経験を強行蓄積することになる。半年間はさまざまな意味で勉強になった。しかし、年齢上、すこし酷だったようではある。

いずれにしても、ドイツのすべてにありがとうと言いたい。これで「ドイツからの直言」を終える。(完)

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