2つの「ドイツ統一の日」――欧州の揺らぎのなかで
2016年10月3日

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3カ月以上海外に滞在する場合には、外務省の「たびレジ」に登録するようにすすめられる。私はノルトライン=ヴェストファーレン(NRW)州のボン市に居住したため、当該地域を所管する在デュッセルドルフ日本国総領事館からメールがくるようになった。私に届いた最新のものが下記である。


NRW州にお住まいの皆様及び旅行者の皆様へ
在デュッセルドルフ日本国総領事館
(2016年9月30日23時40分)

10月3日(月・ドイツ統一記念日)、デュースブルク市内において外国人排斥などを訴えるグループによるデモ行進が行われる予定です。以下を参照し、不測の事態に巻き込まれることのないよう、最新の関連情報の入手に努めてください。

デュースブルク市警察及び報道によると、10月3日(月)午後7時より、デュースブルク中央駅前において、イスラム教徒や外国人排斥などを訴える「Pegida」グループによるデモ行進(参加者は500人との予想)が行われる予定です。また、同市内において複数のこれに反対する政治集会及びデモ行進も予定されています。

これらの影響で、同中央駅を発着する電車に遅れが生じる可能性があります。また、異なる勢力間で衝突が発生して、トラブルに巻き込まれる可能性もあり得ますので、同市内でデモ隊や集会と遭遇した際には興味本位で近寄ったりせず、ご自身の安全を確保するようお願いいたします。

今後、警察や報道機関等のホームページにおいて、デモに関する詳細な情報を掲載する可能性がありますので、下記のウェブサイトを参考に最新情報の入手に努めて下さい。

○デュースブルク市警察:http://www.presseportal.de/blaulicht/nr/50510
○ライニッシェポスト紙:http://www.rp-online.de

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ボン在住中は、近隣諸国でのテロや周辺地域での犯罪情報などがこのメールで届いた。基本は「近づくな」「情報を集めよ」というもので、6月初旬にデュッセルドルフ中心部でイスラム国(IS)と思われるテロが計画された時に「注意喚起」メールが頻繁に届いたのを思えば、落ち着いてきたという印象である。

ところで、このメールにいう10月3日が「ドイツ統一の日」(Tag der Deutschen Einheit)として祝日となったのは、いまから26年前の1990年のことである。それまでの旧西ドイツ時代は、旧東ドイツ地域での労働者の一斉蜂起の日、1953年6月17日を記念して、「6月17日」が「ドイツ統一の日」だった。左の写真はベルリンの「6月17日通り」である。普仏戦争の「戦勝記念塔」の真ん前、Großer Sternに隣接し、ブランデンブルク門までの数キロのまっすぐな大通りである。門を境にして、旧東ベルリンのウンター・デン・リンデン大通りに接続する。

右の写真はボンの「6月17日通り」である。ケネディ米大統領を記念した「ケネディ橋」に続く。交差しているのが「ベルリンの自由」通りで、ヒルトンホテルやオペラ劇場などが並ぶ交通量の多い通りである。右下にある写真は旧東ドイツのザクセン地方の古都、ライプツィヒの「6月17日通り」で、連邦行政裁判所などが並ぶ官庁街の通りが統一後に改名されたもので、上の2つよりは新しい。通りには、1953年に政治犯の釈放などを求めたデモ隊員が人民警察によって射殺された場所とある。1991年にここを訪れた時は東の政治家の名前だったと記憶しているので、統一後しばらくして改名されたようである。ちなみに、付近のライプツィヒ警察本部の前の通りはまだ「ディミトロフ通り」(ブルガリアの共産主義者、コミンテルン議長の名前)で、「東」的な通りの名称をことごとく排除したわけではないことがわかる。

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6月17日事件について詳しく立ち入らないが、この「直言」でも何度か触れている。特に「6月17日事件の60周年―立憲主義の定着に向けて(3)」を参照されたい。活字にはしなかったが、詳細な口頭報告「東ドイツ1953年6月17日事件の今日的解読」もある。

「6月17日」が「ドイツ統一の日」とされてきたのは、冷戦時代における政治的な対決のあらわれである。ドイツ民主共和国(DDR)が存在した時代は、西ドイツにおいても、共産党(DKP)系の人々は、「6月17日事件」を「反革命、反ソ暴動」「半ファシスト暴動」と見なしていた。それが、自由を求める、旧東側における最も早い労働者蜂起として評価されるようになったのは、「ベルリンの壁」崩壊以降のことである。私は、ハンガリー事件(1956年)、「チェコ事件」(1968年)、ポーランド「連帯」運動(1980年)などに先行する、スターリン死去後すぐに起きた、最も早い民主化運動と評価している。「6月17日事件」はいまやドイツにおいてもあまり注目されなくなったが、私は「ベルリンの壁」崩壊をもたらす遠因となった中国「天安門事件」と重ねてみている。いつか「天安門」前で声をあげ、そこで圧殺された人々も、「6月17日」の犠牲者と同じように通りの名前に刻まれる日が来るのだろうか。

さて、統一条約(正式名称は「ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国との間のドイツ統一の樹立に関する条約」〔Vertrag zwischen der Bundesrepublik Deutschland und der Deutschen Demokratischen Republik über die Herstellung der Einheit Deutschlands〕)2条には、10月3日を「ドイツ統一の日」として、ドイツ連邦共和国における法律上の祝日とすることが定められていた。これを具体化する連邦法律によって、10月3日が「ドイツ統一の日」となってから26年がたった。若い世代にとっては、「ドイツ統一の日」は10月3日しか知らないわけである。統一から26年。冷戦時代と「2つのドイツ」を実感として知っているのは40代以上の中高年だけということになる。隣近所の住民たちとの日常会話で、たまたま私が旧東ベルリンに住んだことがあるという話をすると、不思議な顔をされる。「日本人の変な年寄り」に間違いないと自覚した。

「ドイツ統一の日・26周年」を前にした10月1日、A・メルケル首相はビデオメッセージを発表した(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 1.10.2016, S.1)。「我々が人民だ」(Wir sind das Volk)というモットーを極右勢力の勝手にさせてはならない。この言葉は旧東ドイツでは非常に解放的なものだった。「今日、私たちは違った状況にいる。すなわち、今日私たちは何人も自由に意見を表明し、デモをする権利をもつ秩序のもとにある。それゆえ、こう言わなければならない。すべての人が人民である(Alle sind das Volk)」と。首相は、ドレスデンに始まる「Pegida」の運動を念頭に置きながら、極右の運動が1989年に始まる人民の運動を利用して、これを歪めていることに警鐘を鳴らす。メルケル首相は慎重に言葉を選びながら、1989年にライプツィヒをはじめ、この地域から「自由を求めるデモが巻き起こり、全土に拡大して、ベルリンの壁を崩壊させる起爆力となっていったことに着目して、「ドイツ統一の日」にあたり、ザクセン州について、「ドイツ統一の現実的な成果の歴史」をほめた。実は、保守的なバイエルン州とザクセン州が、難民問題をめぐって、メルケル首相の方針に批判的な姿勢を鮮明にしている。そのことを多分に意識した発言であることに間違いはない。

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ちょうど1年前の2015年9月4日、この日は「ドイツを変えた日」といわれている。9月4日深夜、メルケル首相は他の閣僚にはかることなく、ハンガリーからオーストリアを経由してドイツに向かう20000人の難民の受入れを表明した。官房長官すらびっくりする即決の政治的決断だった。彼女がその時に使った言葉、「我々はそれを成し遂げる」(Wir schaffen das)がこの1年間、メルケル攻撃の材料に使われてきた。左の写真は、シリア難民がメルケル首相と「自撮り」する写真で、これがSNSによりまたたく間に広まり、難民はドイツを目指すことになる。2015年に89万人、2016年にはすでに21万人がドイツに流入している。すでに100万人を超える難民がドイツ国内の各地に分散して生活している。

当初は「Welcome」の精神だったが、2016年「新年の夜」(Silvesternacht)に潮目が一気に変わった。ケルンのドーム前広場で、北アフリカ系の難民申請者によるドイツ人女性に対する「大量レイプ事件」である(「“ケルン”後のケルン」という固有名詞さえ生まれた〔General-Anzeiger vom 2./3.4.2016, S.5〕)。そして、私が滞在を始めた3月以降、ドイツ各地で、アフガン難民やイラク難民、シリア難民などの若者による殺人・傷害事件が多発した。ボンにも3300人以上の難民が生活していて、日常会話でも、体育館が難民の宿舎になっているので、運動会は別のところを借りなければならないというようなことを聞いた。前回の「直言」でも書いたように、私たちの住むBad-Godesbergの雰囲気も17年前とは一変し、ドイツ人とほとんど出会うことがない地区もある。この状況を嘆く地元の人々も少なくない。それが、メルケル首相の難民政策への批判になることもある。

政権与党内からもメルケル批判が高まってきた。しかし、メルケル首相は「難民政策では方針転換は行なわない」という態度を変えていない。ドレスデンの新聞とのインタビューで、「自分の政策を変えたことはなく、今後とも方針転換の必要もない。EUとともにその外側の国境をうまく防衛するとともに、難民発生の原因に対処し、難民の数を減らすことが重要である」と述べた(Sächsische Zeitung vom 1.10.2016)。姉妹政党であるキリスト教社会同盟(CSU)が要求する「難民申請者の受入れに上限を設ける」という方針に目下のところ直ちに賛同する気配もない。だが、この間の旧東ドイツ地域の州議会選挙やベルリン州議会選挙の結果からも、メルケル首相の立場はかなり苦しくなっている。

そうしたなか、10月2日、ハンガリーで国民投票が行われた。投票者の99.78%が、欧州連合(EU)が2015年に決めた加盟国による難民の分担受け入れに反対を表明した。ただ、投票率は39.9%ときわめて低く、国民投票成立に必要な「50%超」に届かなかった(Süddeutsche Zeitung vom 3.10.2016)。今後、メルケル首相の方針とは大きく異なる、難民排斥の方向はさらに強まるだろう。11月の米大統領選挙、12月のオーストリア大統領選挙の再選挙の結果もにらんで、2016年秋は激動が予想される。

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