第96代内閣総理大臣の「恥ずかしい」政治言語
2017年3月6日

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庫の奥の方でたまたま10年前の本を見つけた。ユタ大学教授・東照二氏の『言語学者が政治家を丸裸にする』(文藝春秋、2007年6月15日刊)である。あちこちに附箋が貼ってある。「小泉純一郎の魔術」「安倍晋三の馬脚」「小沢一郎の継承」「渡辺美智雄のポルノ」「田中角栄の革命」の5章から成る。今回、第2章を再読した(73-113頁)。おもしろかった。安倍晋三の国会演説は文節数が短いのが特徴とされる。小泉はワンフレーズ・ポリティクスと言われて最も短い。安倍はそれに続くという。文末表現の特徴としては、古い政治家は「〜であります」「〜でございます」という言い方をするが、安倍は小泉を除く他の政治家がほとんど使用しなかった「〜します」を多用する。これによって安倍は、「所信表明演説のことばの大革命をおこした」と評されている。

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安倍の演説の2つ目の特徴はカタカナ語の使用頻度が歴代1位という点にある。地名などの固有名詞を除くと、安倍はカタカナ語を78語も使っている。チャレンジ、イノベーション、リスク、子育てフレンドリー、グランド・デザイン、カントリー・アイデンティティ・・・。一般にはなじみのないものを多く使うだけではない。カントリー・アイデンティティに至っては、和製英語を超えて「安倍製英語」だと著者はいう(97頁)。政策名にカタカナ語を混ぜるのも安倍の特徴。「再チャレンジ支援総合プラン」、「新健康フロンティア戦略」等々。「戦後レジーム」に至っては、一般国民には何のことだかわからない。しかし、「イメージ戦略では確かに安倍は小泉を超えていた」という(99頁)。そして、「眼中に聴衆なし」というのも特徴。顔をあげた、聴衆を意識した演説ではないということである。

他方、原稿のない即興だと、答弁はガラリと変わる。委員会答弁などでは「あります」「ございます」が増えて、旧態依然とした政治家らしい言葉を使っているという(105-11頁)。

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この本の発刊は2007年6月である。その3カ月後の9月12日、安倍は内閣を投げ出した(直言「送別・安倍内閣(その1))。本書の賞味期限は短かったかに見えた。だが、歴史は一度目の喜劇どころから、二度目のいま、立憲主義や国民生活にとって惨劇となってあらわれている。このタイミングで本書に再会し、再読して、実に興味深いことに気づいた。

2012年12月の第2次安倍内閣発足以降の安倍的政治言語を診てみると、共通点と同時に相違点もある。文節が短いことやカタカナ語の多用は共通している。カタカナ語は気持ちが悪いくらい「進化」している。他方、「演説に聴衆なし」から、「みなさん、〇〇しようではありませんか」という形で、演壇から与党議員を煽って、スタンディングオベーションを求めるところまできている。ちなみに、これについて、衆議院職員(委員部長など)を長く経験した平野貞夫元参議院議員は、「総理大臣が『いまこの場所で』と言ったでしょ。いまというのは本会議の開会中です。この場といったら本会議場です。『いまこの場所で敬意を表しようじゃないか』と言うのは、あれは一種の動議の提出なんですよ。特定の人間に敬意を表するということを、与野党の議員に対して言っているわけですから、それは心の問題で、多数決の対象になんかしてはダメなのです。・・・これは安倍総理が議場内の品位と秩序をけがしているということです。本来なら懲罰の対象ですよ」と語っている(『野党協力の深層』講談社新書、2016年39-40頁)。重要な指摘である。

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さて、第1次内閣のときにはなかった特徴として、「驕(おご)りと昂(たかぶ)り」が指摘できる(昨年すでに「批判を慎んでもらいたい」という仰天の注文をつけている)。それを象徴する言葉で、かつ政治家が公には使わない言葉がある。それが「みっともない」と「恥ずかしい」である。改憲を党是とする自民党の首相であっても、自らも憲法尊重擁護義務(99条)を課せられていることを自覚すれば、およそ使えない感情的言葉が「みっともない憲法」という異様な表現である。「平和を愛する諸国民の・・・」という前文の文言を最も陳腐に解釈することによって、こういう表現が出てきている。その下りがこれである(YouTube)。なお、憲法前文のこの部分についての私の解釈は以下をお読みください

安倍の場合、「恥ずかしい」という言葉をよく使う点でも他に例をみない。試しに国会会議録検索システムを使って、「安倍晋三」「恥ずかしい」で調べてみると、出るわ出るわ。12回も使っている。ちなみに、小泉純一郎元首相は、1972年の初当選から引退までの37年間で3回しか使っておらず、しかも、選挙運動のなかでの候補者の姿勢など一般的な事柄に限った使い方である。これに対して、安倍は目の前の質問者や相手の意見、政府解釈そのものに対して「恥ずかしい」という表現をする。

安倍が「恥ずかしい」という言葉を初めて使ったのは、1999年4月1日の衆院ガイドライン特別委員会においてである(この時はまだ一議員だった)。

「例えば、朝鮮半島で有事が起こった際に、朝鮮半島にいる邦人を救出するために頑張って、しかし傷ついてしまった米兵を収容するための病院を日本の国内に探してくれ、そういう話であります。また、邦人を輸送するための米軍の飛行機が、日本の米軍の基地では足りなくなって民間の飛行場を使わなければいけない、そういうときの協力であるわけであります。そういう状況であるにもかかわらず、日本の安全に大きな影響があるかもしれないにもかかわらず、今までと同じような通常の生活をして、ビジネスをして、海外旅行もしよう、自分の既得権には指一本触れさせないぞという、もしそういう精神構造がこの戦後の五十四年間につくられてきてしまったとすれば私は大変残念なことであると思いますし、私はむしろ本当に、このように思うわけであります。」

新ガイドラインの具体化法である「周辺事態法」の審議のなかで、「朝鮮有事」の際における米軍への協力の議論のなかで実に感情的な議論を展開している。後に首相になってからの2014年5月、従来の政府解釈を強引に変更して集団的自衛権行使を可能にすることを明確にした記者会見で、日本海を航行する「お母さんと子どもたちを乗せた米艦」のパネルを使って感傷的に説明したことは記憶に新しい。同年7月1日の閣議決定の際にも、このパネルを使い回した。 次に「恥ずかしい」を使ったのは、2000年5月11日の衆議院憲法調査会においてである。

「そもそも、この集団的自衛権は、権利としてはあるけれども行使できないというのは極めておかしな理論であって、かつてあった禁治産者、今はありませんけれども、禁治産者の場合は、財産の権利はあるけれども行使できないということでありますから、まさに我が国が禁治産者であるということを宣言するような極めてではないか、このように私は思いますので、これは九条のいかんにかかわらず、集団的自衛権は、権利はあるし行使もできるんだろう、このように私は思います。」

「禁治産者」とは心神喪失にある者について家庭裁判所の宣告により制限的行為能力者とする制度で、1999年の民法改正でその呼称は廃止され、「成年被後見人」と呼ばれることになった。したがって、「我が国が禁治産者である」というような例え話をすることは二重の意味で不適切である。一つは精神を病んだ人々に対する差別的な心のありようがここに反映しているという点、もう一つは、民法改正で1年前に廃止が決まった言葉であるという点、である。集団的自衛権行使を違憲とする政府解釈(内閣法制局の解釈)を無視したり、ねじ曲げたりして実質的に貶める政治家はたくさんいるが、「恥ずかしい政府見解」という表現であっけらかんと貶める政治家は他にはいない。

2014年以降は次々に「恥ずかしい」を使っている。11月4日の衆院予算委員会では、社民党の党首に対して敵意むき出しで、次のように答弁している。

「内閣総理大臣(安倍晋三君)ただいまの質問は、私、見逃すことできませんよ。重大な名誉毀損ですよ。吉田さんは今その事実をどこで確かめたんですか。まさか週刊誌の記事だけではないでしょうね。週刊誌の記事だけですか。週刊誌の記事だけで私を誹謗中傷するというのは、議員として私はと思いますよ、はっきりと申し上げて。この予算委員会の時間を使って、テレビを使って、。自分で調べてくださいよ、それぐらいは。これは全くの捏造です。はっきりと申し上げておきます。当たり前じゃないですか。」

権力の不正が疑われることを報道するのはメディアの当然の役目である。そのメディアの情報をもとに議員が質問することに問題はなく、なぜそれが「恥ずかしい」ことなのか。首相には、嫌いな政党や議員からの質問でも、答える義務がある。歴代首相は心の内に敵意と不快感を秘めつつも、答弁としては「ご意見として受けたまっておきます」のような形で答弁する。なぜか。国会で質問する議員の向こうには国民がいる。それをテレビが中継する。それを見ている国民の目を首相も大臣も意識して、国民の代弁者たる議員の質問に答えるわけである。ところが、安倍首相は違う。質問に答えず、質問そのものを否定する。そして、「名誉毀損」「誹謗中傷」「捏造」「レッテル貼り」といった強い言葉で、議員を威嚇するような仕方で反応する。議員は国民を代表して国会であらゆることを質問できる。どんな小党の議員でも、無所属議員でも「全国民の代表者」(憲法43条)として平等である。安倍首相とはまともな「質疑」が成り立たない。

内閣が国会に提出した法案については、野党がどんな表現を使って反対しようと、首相は「よろしくご審議いただきたい」という立場を貫く。これまでの歴代首相はみなそうだった。しかし安倍晋三だけは違う。2015年5月26日の衆院本会議では、「戦争法案という批判は、全く根拠のない、無責任かつ典型的なレッテル貼りであり、と思います。」と言い切った。これは民主主義国における議会では考えられない言動である。

国会内における野党の抵抗戦術に対しても「恥ずかしい」という表現を使ったことがある。2015年6月17日の国家基本政策委員会合同審査会の冒頭で、別の委員会での採決をめぐる与野党の緊迫についてこう述べた。

「先週の金曜日の厚生労働委員会の質疑におきまして、渡辺委員長が入室することを物理的に、物理的にということは暴力を使ってということでありますが、入室をさせないように阻止をした、これはまさに言論の府である委員会での議論を抹殺するものであり、私は極めて行為であると思います。」

安倍首相は「行政府の長」であって、立法府での法案審議や採決をめぐる与野党の駆け引きについて論評する立場にない。あくまでも「ご審議いただいている」わけだから。それとも本気で自分が「立法府の長」だと思っているのだろうか。プーチン、トランプ、エルドアンの仲良しは、みんなメディア統制に熱心である。その安倍は2015年7月3日の安保特別委員会では、メディアに対しても「恥ずかしい」という言葉を使った。

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「報道機関が・・・本当に萎縮をしているということであれば、それはむしろ報道機関にとってことなのではないか、こう思うわけであります。・・・なぜ萎縮をするかということは、いわば権力におもねろうということになるわけでありまして、そもそも、そんな気持ちではなくて、常に権力の問題点に立ち向かっていくという姿勢こそ報道する側には求められているのではないだろうか」。

NHK会長人事にも介入し、日頃メディア幹部の「寿司友」たちと会食する安倍首相に、「メディアの威嚇をするつもり、したつもりはないから萎縮しないで」と言われてしまう日本のメディアは、トランプとたたかう米国メディアから学ぶべきだろう。

「恥ずかしい」という、政治家が「それを言っちゃあ、おしめえよ」という言葉を多用し、トランプとゴルフをやって世界中から顰蹙をかっている「みっともない首相」には、2月17日の衆議院予算委員会で断言した通り、「〔森友学園の国有地払い下げ問題に〕私や妻が関係していたということになれば、これはまさに私は間違いなく総理大臣も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」ということを実践してもらおうではないか

(文中敬称略)

《付記》冒頭の写真は、ネットオークションで入手した『ベースボールマガジン』誌のプレミアカードである。2013年5月5日、国民栄誉賞表彰式を始球式にして、長嶋、松井のほかに、原巨人監督、そして、何と安倍首相が審判役として登場した。背番号96番。この時、「憲法96条先行改正」に突き進んでいた

《付記2》本稿は2月25日に脱稿したものだが、先週、森友学園問題は大きく展開し、メディアの扱いもワイドショーまで含めて一変した。驕りと昂りの安倍政権の「終わりの始まり」になるか。なお、安倍首相が、共謀罪を「テロ等準備罪」としてオリンピック開催と強引に絡めて導入しようとしているが、これについては11年前の直言「共謀罪審議にみる国会の末期」を参照されたい。そこに登場する元・検察ナンバー3、大阪高検検事長の言葉(「戦前の特別高等警察のような特別の捜査機関も必要になってしまう」)がすべてを語っている。
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