

「関税ハンマー」が日本に
ラッキーな数字(777)と、日本人しか通用しない元号でカウントして喜ぶ牧歌的風景を流したTBS news23が終了して1時間4分後の8日午前1時(米国東部時間7日正午)、トランプは日本に対し、8月1日から輸入品に25%の関税を課すという書簡を送付したと発表した。“777”は暗転した。私は4月24日の直言「トランプの反憲法的国家改造―「チェンソー政治」と「関税ハンマー」」で、イーロン・マスクとMAGA帽をかぶる赤沢亮正(経済再生担当相)の「結末」を予想していた。ちょうど5カ月前の日米首脳会談で石破茂首相は、「関税を引き上げた場合、日本は報復措置をとるのか」という記者の質問を、「仮定のご質問にはお答えできません」と突き放し、トランプに大いに受けていたことが思い出される(直言「トランプへの「朝貢」―日米首脳会談という茶番」参照)。「事実上の政権選択選挙」とされる第27回参議院選挙の真っ只中での「関税ハンマー」とその影響についてはまた論ずることにして、今回は、2カ月前の直言「トランプ政権に迎合せずに言うべきこと―沖縄少女暴行事件から30年」に続く、沖縄に関わる重要な問題について書くことにしよう。
「慰霊紙」―「命の証し 刻む24万余」
80年目の「沖縄慰霊の日」。糸満市にある平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」にはたくさんの家族や個人が訪れて、そこに刻まれた身近な人々を偲ぶ。例年の風景である。私も、ゼミの沖縄合宿や講演の際に何度か訪れ、膨大な石碑の間を歩きながら、いかにたくさんの人が亡くなったのかを感じてきたつもりだった。2003年の「慰霊の日」にここを訪れた際には、韓国人遺族が慰霊するのを見たことがある。
「慰霊の日」の『沖縄タイムス』6月23日付号外は、1面から4面まで「礎」の前で手を合わせる家族や、氏名を紙に鉛筆で写し取る女性の姿などをカラー写真で伝える(1~8面は冒頭の写真、2~7面はここから)。
ここまでならいつもの紙面と同じである。だが、今年の『沖縄タイムス』はこの日に向けて、異例の紙面づくりを行った。「平和の礎」建立から30年の節目。鉛筆で氏名を写し取る人が少なくないなかで、だったら紙面に掲載して手元においてもらおう。そんなアイデアを思いついたのは、新垣綾子・社会部「戦後80年」担当デスクだった。「礎」に刻まれている24万2567人の氏名を、1文字2ミリ四方で、6月10日付から22日付まで、それぞれ13面から16面まで4頁を使って連日掲載したのである。13日間かけて全52頁! 冒頭の写真の一番下は1頁目と4頁目。その裏側が2頁目と3頁目となる。毎日、4頁を使って約18500人以上の氏名が掲載されている。デジタル版6月22日には、表裏をすべて並べた写真が掲載されており、ゲットウ(月桃)の花と平和祈念公園の写真が浮き上がるようになっている。
「平和の礎」は、118基の黒御影石の「刻銘碑」にびっしり氏名が刻まれている。「県民の4人に1人が死んだ」という表現や、数字や率(軍隊の場合は「損耗率」)といったものからは見えてこない、一人ひとりが生きた人間であり、家族や愛する人のいる個人であるという証である。だから、一つの文字もおろそかにできない。「礎」の刻銘には、パソコンに変換できない旧漢字や、実在するか分からない漢字が多く含まれている。システム技術部の仲宗根誠らは、「新聞製作のシステムにそのまま落とし込めば文字化けする。一文字ずつ、イラストレーターというソフトを使って手作業で漢字を作り、とても時間がかかった」と語る。手作業の文字は574文字になったという(その文字の一部はここから)。
今回の『沖縄タイムス』の試みは、沖縄戦で亡くなった人々を、一人ひとりの個人として紙面で見ることができるようにしたわけである。まさに「慰霊紙」といえる。ネットで検索できるものも増えたが、ここまで徹底して紙媒体にこだわった手法は過去に例がなく、大変意義深いものといえよう。
紙面から見えてくるもの
紙面への掲載の仕方は「平和の礎」を再現するもので、刻銘の方法は、それぞれの母国語で表記し、国別、都道府県別となっている。出身地別の内訳は、沖縄県14万9674人、県外(北海道が一番多い)7万8303人である。国籍別では、米国1万4011人、英国82人、台湾34人、北朝鮮82人、韓国381人と続く。
県民は、現在の行政区画に基づいて配列され、さらに「字」(あざ)ごとに区分され、家族ごとにをまとめて並べてある。なお、那覇市の場合は「首里」「小禄」、町村合併前の「真和志」などを独立させている。
植民地下の台湾や朝鮮の人々も亡くなっているが、紙面では「平和の礎」に準じて、北朝鮮と韓国に区分して掲載している。
沖縄県以外の戦死者では北海道出身が1万805人と、2番目に多い福岡県の4030人、3番目の東京都の3521人を大きく上回っている(『北海道新聞』サイト)。第24師団の主力(歩兵89連隊など)が旭川で編成されたことなどによる。鹿児島県出身者のなかには、6月23日に自決して、県民を泥沼の戦闘に巻き込み、多くの犠牲を出した張本人、牛島満中将の名もある。
「平和の礎」に刻銘された米軍人1万4011人のうち、最も戦死者を出したのは陸軍で5522人、次が海軍で5194人。これは特攻機の攻撃で駆逐艦や輸送艦が多く損害を受けたためとされている。そして海兵隊3265人。「その他」(OTHER)というのが30人いるが、所属は不明である。米国陸軍省編『沖縄
日米最後の戦闘』(光文社、2006年)によれば、米軍の戦死者は1万2281人。Copilotに聞いてみると1万2520人と出てくるから、「平和の礎」に刻銘されているのは1500人前後多いことになる。
米軍では、沖縄作戦の最高指揮官たる第10軍司令官のサイモン・B・バックナー Jr.中将が戦死している。「礎」のなかでは、陸軍の兵士・下士官らとまったく同じ扱いをされている。バックナーは、第二次世界大戦で戦死した米軍将校のなかで最上級者である。
「一家全滅」の地区―米須、国吉・真栄里
バックナー中将の戦死は6月18日である。戦死の場所に近い国吉・真栄里地区では、その翌日から、米軍による無差別攻撃が始まり、住民が多数死亡した。中将を失った米軍が戦闘員・非戦闘員を問わず無差別に報復殺戮を行っていったといわれているほどに、激しい戦闘の末、「一家全滅」の家が増えていった。米須地区では257戸のうち62戸が「一家全滅」になったという。これらの地区を抜き出したのがこの写真である。山城や久保田といった同じ名字がズラッと並ぶ。この地区には一家全滅の屋敷が残っていて、私も訪れたことがある。
根こそぎ動員と地域の戦場化は、「軍官民共生共死」が徹底されるなかで「一家全滅」をもたらしたとされている(『沖縄タイムス』6月8日付社説「[沖縄戦80年]一家全滅 地域の戦場化の果てに」参照)。4年前の直言「「8.15」、沖縄からの視点」で、沖縄戦の悲劇の本質を「軍民共生共死」の思想と実践にあることを詳しく論じたので参照されたい。
6月23日付(特別号)の紙面には、他にも注目すべきところがある。特集面は「鉄の暴風吹かせない」という大見だしで、星の動きを30秒ごとに撮影した115枚の写真を合成して見開き1頁にしている(写真はここから)。この写真をコンパクトにして重ねたのが左の紙面である。1945年4月28日の読谷飛行場に夜間飛来した日本軍機に対する対空機関砲の弾幕(曳光弾)の写真と対比している。
なお、星空の撮影場所は、前述した一家全滅の家屋がいまも残る糸満市米須。「魂魄」という慰霊碑が見える。その裏面は見開き1頁を使って「平和の礎」30年の総括と刻銘者の分析が行われている。グラフを使って、刻銘者が亡くなった時期と場所が示されている。そこからいろいろなことがわかる。とりわけ6月23日に日本軍の組織的戦闘が終わったあとに南部での死者が突出して多い。北部では7月以降も死者が出ている。そこに年齢別の死者を重ねると、1歳と18歳が多いことがわかる。それぞれ4000人と他の年齢層を圧倒している。北部では幼い子どもの割合が高い。飢餓であろう。18歳は学徒隊や防衛隊に動員されて死亡したとみられる。「礎」は未完成で、さらに調査して情報を収集する必要性も説かれている。
「慰霊の日」の紙面で気づいたのは、広告面の活用である。一つは、「語り始める「弾丸」 語らなかった祖父」という見開きの企業広告で、「この手は弾丸を体に宿していた男性の子と孫です。中央の金属片は、男性の遺灰から出てきた弾丸(実寸)です。紙面を折ると手と手が重なり、「祈り」が生まれます」。
もう一つの広告は、不発弾探査の広告である。戦後80年、沖縄に1800トン超の不発弾がある。土地の不発弾探査を行う磁気探査協会の広告である。80年間に不発弾で死傷した人が1983人もいる。新たな犠牲者を出さないために、宅地開発や農地としての活用のための不発弾探査の費用は県が100%補助する事業という。不発弾探査の広告というのは初めてみた。不発弾問題は直言「不発弾の思想」で書いたが、この問題は陸自の活動に注目が集まるが、このような民間の活動はもっと知られていい。
6月23日は「慰霊の日」だが、沖縄戦が終わった日ではない。新聞協会賞を受賞した『沖縄戦新聞』(琉球新報社、2005年)の6月23日付は、2・3面で住民の惨状を生々しく描いている。これを受けて私はこう書いている。「司令官がいなくなって、敗残兵たちは山中に逃げ込み、時に住民を壕から追い出して抵抗を続けた。住民を巻き込んだ悲惨な状況が生まれたのは、むしろ6月23日以降の方が多かったとされている。守備軍司令官の自決の日は、指揮系統を失った軍隊が、勝手に戦闘を続ける裸の暴力装置となった日ということである。端的にいえば、「慰霊の日」とされた1945年6月23日から、沖縄戦におけるさらなる悲劇が始まったといえるだろう」。8月15日も沖縄の人々にとっては戦争の終わりを意味しない。沖縄での戦闘が終わったのは9月7日である(直言「「8.15」、沖縄からの視点」)と。
沖縄戦体験をいかに伝えるか。20年近く前に直言「「語り部の話は退屈だった」か―水島ゼミ沖縄2006夏」で提起したテーマは、私にとっても課題であり続けている。
参院選のなかでの論戦でも、安全保障問題は薄っぺらな議論に終始している。政治家たちには想像力の欠如が著しい。沖縄に基地を「押しつける」発想は、いまも昔も変わらない。南西諸島の軍事基地化は直ちに中止すべきであろう(直言「沖縄を切り捨て、誰の「国益」を守るのか」参照)。
《追記》 本稿で扱った『沖縄タイムス』の試みについては、この「直言」更新の3日後、『朝日新聞』7月12日付夕刊が1面トップで大きく扱った(紙面はここをクリック)。