先々週、急病で入院することになった。1997年1月3日以来、28年4カ月にわたって「毎週月曜更新」をほぼ絶やさず続けてきたが、昨年からの妻の病気や、今回の私自身の問題もあって、この機会に、更新は「原則として隔週」とさせていただきたい。毎週の更新を楽しみにしてこられた読者の皆さまにはお詫び申し上げる。なお、2007年以来、数千人の読者の方々にほぼ毎週お送りしてきた「直言ニュース」は、プロバイダーのBCCメール送信制限の復活の関係で、4月頃から送信が困難になっている。この機会に、このニュースも不定期とさせていただきたい。
今回は、5月3日の憲法記念日講演について病室で書いたものをアップする。
5月3日は徳島市で講演した(チラシ参照)。2001年の憲法記念日も徳島市で講演しているので、実に24年ぶりである。この講演はよく覚えている。冒頭に見せる旧ユーゴ紛争のグッズとして、セルビア軍の30ミリ機関砲弾の薬莢を持参した。少し前の広島講演の際に羽田空港の荷物検査で引っ掛かり、数人の検査官に取り囲まれたことがあったので(結局、説明して搭乗できたが)、徳島の時は最初から造花を入れて、「これは花瓶です」(この写真)といって通過できたことを覚えている。検査官の何ともいえない複雑な表情を思い出す。その後、ヨルダンの空港での毎日新聞記者事件があってからは、薬莢でも誤解を受けるので、この種の「歴史グッズ」は一切持ち込んでいない。今回の講演も、金属探知機に反応しない「繊維系のグッズ」を持参したわけである。
ちなみに、2008年の憲法記念日は高知市、2012年は香川県高松市、2018年は愛媛県松山市で講演しているので、四国はすべての県で憲法記念日講演をやったことになる。なお、2026年5月3日(日本国憲法施行79年)の講演をどこでやるかはまだ決まっていないので、オファーをいただければ幸いである(講演依頼はここから)。なお、日本国憲法公布79周年の講演(2025年11月3日)は京都市が予定されている(詳細後日)。
聴衆に「トランプ帽」を回覧する
今回私に与えられた演題は「戦後80年 憲法と平和を考える」で、「トランプ2.0といかに向き合うか」という副題を付けて90分話した。第2部は、日本被団協事務局次長の和田征子さんと、核兵器をなくす日本キャンペーンの倉本芽美さんとのシンポジウムである。被団協は昨年10月にノーベル平和賞を受賞している(直言「日本被団協にノーベル平和賞―「ヒロシマ・ナガサキ80年」を前に」参照)。
講演では冒頭、この写真にある各種「トランプ帽」を参加者に回覧して、直接手にとって見てもらった。現役時代はやらなかったことである。大規模な講演ではいろいろとリスクがあり、これまで回覧してこなかった。しかし、研究室も撤収したので、「歴史グッズ」をもっと一般に知ってほしいというのが狙いである。
2016年の第1次政権時のはレアものだ。2020年の赤帽には「アメリカをずっと偉大に」(“ KEEP AMERICA GREAT ! ”)とあるが、ジョー・バイデンに破れた。復活をかけて2023年の段階で、2024年ヴァージョンが登場した。「アメリカを再び救え! 」(“SAVE AMERICA AGAIN!”)とある。選挙戦に入ってからのものには、「また戻ってくる」( I'll BE BACK)とある。アーノルド・シュワルツェネッガーを想起させるド迫力で、「ハリス帽」を食っている。
ネットでは4月頃から、2028年版“ TRUMP 2028 ”(下の写真参照)が、トランプのオンライン・ストアーで売りに出ている。「未来は明るい!」で50ドル(約7300円)だが、これに関税がどれだけかかるかわからないのでやめた。
徳島の講演参加者の手元には、2016年から2024年までの「トランプ帽」と「ハリス帽」を5つ回覧して、2028年のものは正面のスクリーンに大写しにした。参加者は手の上で、2016年から2024年までの3回の大統領選挙とその後について思いを馳せたことだろう。なお、2020年の赤い「トランプ帽」と、選挙後半に(too
late!)日本でも入手できるようになった「ハリス帽」は、ともに中国製(Made in China)である。なお、病室でオークションサイトに入って落札した「トランプ・トイレブラシ」が自宅に届いた。使用せずに、トランプのトイレットペーパーとセットにして、「わが歴史グッズ」に加えることにしよう。
米国でも「壊憲」が始まっている
「トランプ帽」を回覧しながら、まだ入手していない“ TRUMP 2028 ”の意味について語った。米合衆国憲法修正22条は、「何人も、2回を超えて大統領の職に選出されてはならない。」と明確に規定している。第二次世界大戦という異常事態のもとで、フランクリン・ルーズベルト大統領がそれまで誰もやらなかった3選・4選を果たした。これに対抗して戦後に憲法修正条項として追加されたものである。もっとも、ルーズベルトの3期目の支持率は歴代最低となった。それがトランプの最近の支持率の低さを表現する際、「1945年ぶりに3割を切った」と持ち出されてくるのは何とも皮肉である。トランプと「懇意」のプーチンもまた、自らの大統領任期の延長を続け、ロシア憲法81条を改正して2036年まで「玉座」を維持し続けられるようにした。他方、ウクライナのゼレンスキーは戦争を引き延ばして、実質、任期を1年延長したことになる。ウクライナ戒厳令(2015年)11条3項は、「戒厳令中に大統領の任期が満了した場合、その権限は、戒厳令解除後に選出された新たな大統領が就任するまで延長される。」と定める。ウクライナ最高会議(議会)は4月16日、発令中の戒厳令をさらに8月まで延長し、トランプとプーチンが圧力をかけている選挙の時期を先送りすることを決めた(ロイター4月17日)。
最高権力者である大統領の3選禁止条項に手を着け、あるいは着けようとする動きはなくならない。3選禁止条項の背後には、権力の長期化が政治腐敗につながるという経験知がある(直言「権力の私物化と「生業としての政治」」参照)。その心は、「人気があっても任期で辞める」である。「人気がなくても任期で辞めない」という権力者が、世界のそこかしこにいるのは残念なことである。
定期購読している雑誌『選択』5月号の巻頭インタビュー(3頁)を紹介した。ヤシャ・モンク(ジョンズ・ホスキンス大学教授)。前日届いたばかりだったので、飛行機のなかで読んだものだが、タイトルは「トランプは米国憲法「破壊」を目指す」。現在進行形の「憲法危機」の諸相を具体的に指摘する。とりわけトランプが州兵を使って市民デモを鎮圧する事態への懸念は1期目の2020年5月の比ではないだろう(直言「トランプがワシントンを「天安門」に?―「狂犬マティス」の抵抗」参照)。
モンクは、トランプが3期目を目指してもおかしくないといいつつ、憲法上、手続上これを打ち破るのは非常に難しいが、「トランプ政権は権力者への制約をすべて破壊する「革命政府」かもしれない。革命には段階ごとの計画があるわけでなく、エネルギーのままに急進化してそれ自体が予想しなかった行動も取る」と危機感をあらわにする。他方で、米国の権力システムが広範に分散されており、トランプがこれを4年間で破壊し尽くすことは困難であるともいう。
トルベン・リュッツェン(フレンスブルク大学教授)「MAGA 権威主義国家への途上? 米国民主主義への脅威と自己主張」(Aus Politik und Zeitgeschichte 5月9日号)も後半で、米国の民主主義の「復元力」に期待をかける。米国の司法の強力な地位と各州の強い権限は失われておらず、非常に多様で潜在的に動員可能で、十分な資金をもつ「眠れる巨大な市民社会」の存在は軽視できないと指摘している。トランプによる壊憲がさまざまな抵抗に合うことは不可避だろう。2026年11月3日の中間選挙が一つの防波堤として機能するのではないか。


ここで、トランプ2.0が正面から壊しにかかっている憲法とは何かについて、改めて考えてほしいと参加者に問うた。この「改めて」が大事である。参加した一人ひとりが、これまでの自らの憲法観と向き合いながら考えてほしい、と。そして、憲法とは何かについての基本的な論点について、一通り説明した(『はじめの憲法教室』集英社新書参照)。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』の説明の時には、「リヴァイアサンとしてのトランプ」の絵を象徴的に使った(直言「「権威主義的立憲主義」の諸相」参照)。
逆走車が進入した東北道・黒磯板室ICでは、決して左折してはならない、右折のみが可能ということを示すために、比較的小さな矢印と進入禁止の標識だけだった。ドライバーが死亡しているため不明だが、雨のなか、標識を見落として左折した可能性もある。他方、山陰道・大田朝山ICでは、「×逆走×」の真っ赤な看板が64枚も並べられ、すごい迫力である。国家権力は人の思想や宗教などに「立ち入るな」というのを、一つ一つ「×」で示す。これが憲法の人権条項の一つの意味といえる。64枚も並べるのは、さすがに気づかないドライバーはいないだろうという「期待」も込めているのだろう。同様に、周到な人権条項の整備は、権力者に「気づき」の機会を増やすという意味もある。「立ち入るな」という強い意志を感じる大きな手のひらの標識は、いずこの国においても共通である(直言「逆走をいかに止めるか―憲法政治の「幽霊ドライバー」(その2)」の冒頭の写真参照)。
と、ここまで書いてきて、5月18日、三重県の新名神高速道路で、小型車が少なくとも14キロ逆走して、6台が絡む多重衝突事故を引き起こすという事件が発生した。ペルー人の男性が逮捕されたが、これは故意に反対車線に入って、高速で逆走を続けたことから、単なる道路交通法違反にとどまらない可能性もある(5月20日現在)。どんな「進入禁止」の標識も無視して入ってくるこのような車は、国際法も米国憲法も蹴散らして歴史的逆走を続けているトランプ政権そのものだろう。トランプは、まさに「♬もうどうにもとまらない♫」の世界である。
原爆投下と憲法9条2項の関係―和田征子・日本被団協事務局次長と
こうした状況のもとで、今回、私がいつもよりも強調したのは、9条2項の憲法史上際立った特質である。9条1項の戦争放棄は1928年のパリ不戦条約(「戦争抛棄条約」)、武力威嚇・武力行使の放棄は国連憲章2条4項を継受したものとされる。ただ、この3つを同時に憲法に書き込んだのは日本国憲法9条1項の特質といえる。もし1項だけだったならば、日本国憲法は「普通の平和憲法」の完成水準に到達していると評しうる。だが、日本国憲法はそれにとどまらない。2項において、「陸海空軍」という20世紀の典型的な軍事装置を明記した上で、周到に、「その他の戦力」の不保持も求め、加えて「交戦権」の否認まで明確に規定したのである。これにより、日本国憲法は「普通ではない平和憲法」となったのである。
ではなぜ、ここまで徹底した軍事的手段の否定に到達し得たか。それは、日本だけが、通常兵器による戦争の最終段階で、核兵器を使った戦争を体験したからにほかならない。通常兵器とは異なり、核兵器という手段は、その巨大な破壊力と放射能による幾世代にもわたる被害の持続によって、戦争の目的そのものを破壊してしまう。それゆえ、日本国憲法制定者は、明らかに核兵器の存在を意識して(占領下なので、原爆を使った米国を非難しないよう慎重に)、9条2項を最終的に採用したといえよう。
国連憲章は1945年6月26日に調印された。これは広島に原爆が投下される41日前だった。国連の軍事的強制措置(国連軍)は明らかに通常兵器を前提としている。25年前、朝日新聞社のAERA Mook『憲法がわかる。』(2000年5月)の巻頭論文を在外研究中のボンで執筆した。タイトルは、「平和主義:国際社会への「パスポート」から「国際的公共財」へ」(PDFファイルはここから)。そこに9条の2つの意味が書いてある。1つは、日本が国際社会に復帰するためのパスポートとしての役割、もう1つは、今日に至るまで世界の平和運動の目標となってきたという意味で、「国際的な公共財」としての役割である。ボンからベルリンにドイツの首都が移る時点で執筆したという意味で、いろいろと思い出の尽きない論稿である。その9頁に「国連憲章と日本国憲法―原爆投下の前と後の差」という小見出しを付けて、この論点に言及している。
徳島講演で上記のことを語ると、被団協の和田征子さんがシンポジウムでこれに強く同意してくださった。ノーベル賞の授賞式に参加した和田さんは、ノーベル賞委員会のヨルゲン・フリードネス委員長(1984年生まれ)が、日本被団協の授賞理由を説明するなかで、「核のタブー」という言葉を何度も使ったことについて言及した。「核兵器は二度と使われてはならないのだという規範を守るため、核兵器に対する「タブー」を維持する」と(前掲「直言」参照)。私は、ここでいわれている意味における「核のタブー」を憲法規範化したのが、9条2項であると考えている。
「体験」を若い世代にいかに継承するか
憲法記念日講演の翌日、5月4日、徳島大学で、「 被爆者ダイアログ徳島」という企画がもたれた。中学生も参加する会で、人数こそ少なかったが、徳島における「対話」の重要な出発点となるものだった。ここでも、まず被団協の和田さんが語り、徳島の被爆二世の方が語り、私も講演で触れられなかった論点について語った。それは、被爆体験、戦争体験をどのように若い世代に継承していくかという方法論に関わるものである。
被爆体験も、その被爆者個人の個人的体験である。体験者が他者に語るたびのその反応を無意識のうちに取り入れて、実際の体験との間に距離が生まれることもある。体験者はすでに生物学的な限界にきている。ならばどうするか。
1995年の被爆50年の際、中国新聞労働組合の若い記者たちの試み、『ヒロシマ新聞』を会場に回覧した。これは『中国新聞』1945年8月7日付が、記者や制作スタッフの多くが死亡して発行できなかったことから、あえて50年後に8月7日付を『ヒロシマ新聞』と題して発行したわけである。直言「わが歴史グッズの話(18)「その時」の新聞を読んで」で詳しく紹介している。もし当時の視点ならば「鬼畜米英による残虐な新型爆弾」といったトーンになってしまうため、日本国憲法で教育を受けた現代の記者が、原爆投下当日の広島市内を取材して記事にしたという形にしている。政治面では政府の反応、国際面ではトルーマン米大統領の談話まで掲載されている。社会面は市内の惨状を、いまの出来事として記事にしている。全体にわたり、きわめてリアルな記事になっている。新聞による追体験の試みといえる。
若い世代に訴えかける演劇という意味で成功したのが、2001年のつかこうへい「広島に原爆を落とす日」(稲垣吾郎主演)である。プロデューサーの岡村俊一氏と私の対談、「『伝え方』を考える―『広島に原爆を落とす日』をめぐって」(『世界』2001年9月号、PDFファイルはここから)では、ヒロシマ・ナガサキの体験が「空洞化」してきているという問題意識のもと、そこからの克服の課題と方法について語っている。この時、私は48歳。被爆56年(戦後56年)だった。
「ウクライナ戦争」やインド・パキスタンの紛争など、核保有国が戦術核を使うかもしれないという状況になって、核戦争への敷居が低くなってきている(直言「ヒロシマ・ナガサキ・ウクライナ―被爆78年から「被爆元年」へ?」参照)。一昨年の12月、私は、孫たちを連れてヒロシマを考える旅をやった。かつてゼミ学生たちとやった取材合宿とは違い、中学生と小学生の孫にどうヒロシマを考えてもらえるかに尽力した。それが、直言「「次世代」と広島を訪れ、ヒロシマを考える」である。身近な若い世代との体験継承へのささやかな試みとしてご覧いただきたい。
【文中敬称略】