韓国憲法裁判所による大統領弾劾審判――立憲主義と民主主義の相剋
2017年3月13日

写真1

写真1

写真2

国公法学会で招待講演をしたのが12年前である。その2年前の2003年10月、韓国大法院(日本の最高裁にあたる)と大検察庁(最高検察庁にあたる)を訪問して、判事や検事長の話を聞いたことがある(直言「踊る大検察庁」)。だが、残念ながら韓国憲法裁判所(ドイツ連邦憲法裁判所の影響を受けている)を訪問する機会はなかった。

韓国では日本の映画や文化に接する機会が制限されてきたが、1996年10月4日、憲法裁判所は、映画振興法12条に定める「公演倫理委員会」による映画の上映前審議が事前検閲にあたるとして違憲と判断したことがある。また、2001年8月30日にも、映画振興法の違憲判決を出している。この判決後、同制度は廃止された。日本映画をはじめ、日本文化が韓国の人々、特に若者たちに親しまれていく上で、憲法裁判所の果たしてきた役割は小さくない。

ところで、韓国においては、検察の役割が異様に目立つ時がある。「韓国で一番の権力者は大統領ではなく、大検察庁中央捜査部長だ」という言葉があるほどだ。1987年の民主化以来、6代の大統領が就任したが、そのすべてが身内や側近を中央捜査部に逮捕されている。特別検察官による大統領とその周辺に対する捜査も、韓国政治の「日常風景」のようである。私の研究室には、14年前に韓国大検察庁の検事長からお土産にもらった木製の鉛筆立てがあるが、これは「メイド・イン・プリズン」、受刑者の手作りである。韓国は死刑をめぐっても10年前に大きな動きがあり(韓国は事実上の死刑廃止国に)、韓国の憲法政治の動きに私は注目してきたが、現在の朴槿恵大統領の「崔順実ゲート事件」による弾劾訴追をめぐる状況は実に複雑である。「検察ファッショ」という言葉があるように、検察への過大な期待は危うい。市民・学生たちのデモが検察に対して大統領逮捕を求める状況が現出したが、これを複雑な思いで注視していた。憲法裁判所が弾劾訴追にどう応えるか。結果が注目されてきたところである。1987年の民主化から30年。「立憲主義と民主主義」という視点から韓国の状況を診てみると、いろいろと興味深い論点が見えてくる。

写真3

写真4

3月10日、韓国憲法裁判所は、朴槿恵大統領に対する弾劾審判において認容(罷免)の決定を出した。これについて私が書くよりも、専門家の意見を掲載することにしたい。「直言」では、これまでも、「シャルリー・エブド」事件や、人質殺害事件における「最高責任者」の責任の問題などで専門家に登場をお願いしている。今回は、若手の韓国憲法研究者の水島玲央氏(早稲田大学比較法研究所助手)にこの「直言」のために一文を書き下ろしていただいた。水島氏は、慶応大学の小林節教授のゼミに所属していたが、大学院は私の研究室を選び、2006年に修士論文を書き上げた。その後ソウル大学の博士課程に入り、法学博士号を取得している。なお、「水島」という姓だが、私と親戚関係にはない(笑)。

冒頭の写真は大法院の玄関を入った正面少し上に鎮座する「正義の女神」像である。韓国『法律新聞』2009年9月9日付によれば、「世界のどこにも座った正義の女神像はない」としながらも、剣ではなく法典を持っていることが、理論に偏り、法の峻厳な執行を行えない韓国の司法府を象徴しているという皮肉もあるという。



韓国憲法裁判所による大統領弾劾審判
――立憲主義と民主主義の相剋――
水島玲央(早稲田大学比較法研究所助手、韓国法)

2017年3月10日、韓国の憲法裁判所は朴槿恵大統領に対する弾劾審判において認容(罷免)決定を下した(韓国では憲法裁判所の判決のことを「決定」と呼ぶ)。 韓国では1987年の民主化以降、憲法裁判所が翌年に設置され、韓国の憲法裁判所は民主化と人権向上に大きな貢献を果たしてきた。

「憲法裁判所」というと一般的にはドイツの制度がイメージされるが、韓国の憲法裁判所は以下の点においてドイツの制度とは異なっている。第一に法院(通常の裁判所)の判決内容に対しては憲法訴願を行えない点、第二に具体的な事件が存在しなくても訴訟ができる抽象的規範統制を認めていない点、第三に法院が憲法裁判所に法律の違憲審査の提請(ドイツでいう「移送」)を行わない場合、訴訟当事者自らが憲法裁判所に直接憲法訴願を請求できる点などである。

韓国の憲法裁判所は5つの権限(法律の違憲審査、弾劾審判、政党解散、権限争議、憲法訴願)を有しており、弾劾審判については2004年の盧武鉉大統領に対する事件以来、2件目となるが、罷免となったのは初めてのケースである。

大統領の弾劾訴追を行うにあたっては、まず国会在籍議員3分の1以上の発議を経て、国会在籍議員の3分の2以上の賛成がなければならない(大韓民国憲法第65条第2項)。今回の朴槿恵大統領の弾劾訴追についての国会での議決の内訳をみると、国会在籍議員300名のうち、賛成234、反対56、棄権2、無効7、不参加1となっており(「朴大統領弾劾案が可決 賛成234人・反対56人」『連合ニュース』2016年12月9日)、与党のセヌリ党の多くの議員も賛成票を投じたとみられている。

前回の盧武鉉大統領に対する弾劾審判事件の争点は、特定の政党を支持する発言をして公職選挙法違反を行うなどの国政秩序紊乱、側近の収賄などの権力型不正腐敗、経済の悪化などの国政破綻の3点が主な争点となった(盧武鉉大統領の弾劾審判については、金鍾鐵「韓国の大統領弾劾制度―盧武鉉大統領弾劾審判事件を中心に―」『立命館法学』297号(2004年)191-197頁参照)。だが憲法裁判所は、盧武鉉大統領の選挙での中立義務等に対する違反を認めたものの、罷免とするほど重大ではないとして、弾劾については棄却した (2004年5月14日)。

今回の朴槿恵大統領に対する弾劾審判と盧武鉉大統領に対するそれとの違いとして次の点が指摘できるだろう。まず、5つの憲法違反と8つの法律違反、合計13点という非常に多くの違反が挙げられたことである。また、盧武鉉大統領が弾劾訴追をされたときにはソウル市民による弾劾反対デモが行われたのに対して、今回は市民による大規模な大統領退陣デモが繰り返し行われたことである。さらに、前回のときは棄却決定前に国会議員選挙が行われ、盧武鉉大統領の与党「開かれたウリ党」が第一党となったのに対して、今回は与党がすでに第一党ではないということである。ここから、盧武鉉大統領のときよりも厳しい内容になることが予想されていた。

朴槿恵大統領のケースでは、当初の13の憲法および法律違反について、裁判の過程において争点が5つに集約された。具体的には、崔順実氏の国政関与に伴う国民主権主義の違反、大統領としての権限濫用、収賄などの刑事法違反、セウォル号事件における国民の生命権の保護義務違反、言論の自由の侵害が挙げられている(「朴大統領の弾劾審判始まる 争点を5つに整理」KBS World Radio 2016年12月23日)。このうち、前の3点がいわゆる「崔順實ゲート」とよばれる崔順實氏の国政介入事件と関連したものとなっている。

憲法裁判所の決定では、セウォル号事件については却下、言論の自由の侵害については棄却、権限濫用については公務員任命に関しては棄却したものの、崔順實氏の国政介入において崔氏の利益のために権限濫用があったと認定された(「‘崔順實 国政弄談’5個の争点中‘朴弾劾認容’の核心根拠」SBS CNBC(韓国語)2017年3月10日)。そして憲法と国家公務員法違反、企業の財産権と経営自律権の侵害、マスコミによる疑惑提起への非難、捜査への拒否など国民の信任に背いたとして、罷免することで得られる憲法守護の利益が大きいとし、8人の裁判官全員一致で認容決定を下している(SBS CNBC、 同上)。なお収賄等の刑事法違反については、憲法裁判所は特に言及しなかったが、朴槿恵大統領が企業から資金を要求して企業の財産権と経営自律権を侵害したとしていることから収賄ではなく強要罪になるのではないかとする見方もある(SBS CNBC、同上)。

一国の大統領の政治生命について司法府が判断をするという今回の決定は、一見すると司法府が社会のダイナミックな変革に大きく貢献しているかのようにもみえる。だが司法府による政治的な問題に対する積極的な判断とは、実は、国家の統治のあり方を憲法に基づいて行うとする「立憲主義」と、国民の意思決定によって統治をおこなう「民主主義」という、二つの概念が大きく衝突しうる場面でもある。つまり、国民が選出したわけではない憲法裁判所裁判官が、国民によって選出された国会が決定したことや、本件のように国民が選出した大統領本人について判断を下すことは、果たして民主的な正当性があるのかどうか問題となる。とりわけ、司法府が本来守らなければならない憲法に基づく統治のあり方と、国民の考えが大きく異なるような場合にこうした問題は顕著となり、立憲主義と民主主義のどちらをより守護すべきなのか懸案事項となる。

韓国の憲法裁判所の裁判官は、国会が3名、大統領が3名、大法院が3名ずつ計9名選出することで、立法・行政・司法の均衡を保つよう工夫されている。だが、日本における最高裁判所裁判官国民審査のような制度がないため、憲法裁判所裁判官に対する民主的正当性を直接確認する手立てがない。そのため韓国の憲法裁判所裁判官は、立憲主義を守護するあまり「民意」とかけ離れた判断を下しては、国民からの信頼を得ることができないため、「民意」を意識することで立憲主義と民主主義の「調和」を試みてきたようにみえる。実際に憲法裁判所のサイトの朴漢澈所長(1月で退任)の挨拶文では「我が憲法裁判所は常に国民の側に立って…」と言及していることからも、常に国民を意識していることがうかがえる。またそもそも韓国では1987年の民主化により、立憲主義と民主主義が同時に成立したため、立憲主義とは民主主義を支えるものと認識され、両者の相剋の問題はさほど議論されなかったのではないかという指摘もある(國分典子「韓国憲法における民主主義と立憲主義」全国憲法研究会編『憲法問題』11号(2000年)90-91頁)。

だがこうした韓国の憲法裁判所の姿勢は、まかり間違えると「民意」を意識するあまり「ポピュリズム」に陥り、本来憲法裁判所が守護しなくてはならない立憲主義がなおざりになるだけでなく、少数者の人権もが見落とされる危険性を孕んでいる。とりわけ、時の政権が「社会的正義の実現」のような「大義」を掲げる場合にこうした状況がしばしばみられる。具体的には、民主化デモを武力鎮圧した光州事件を引き起こした全斗煥・盧泰愚元大統領を裁判にかけるため、事後的に時効を停止すると定めた「5・18民主化運動等に関する特別法」や、日本による植民地時代に日本に協力的であった者の子孫から財産の没収を定めた「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」等の事後法に対して、それぞれ合憲決定を下した例(前者:1996年2月16日、後者:2011年3月31日)がこれに該当するといえよう。

韓国の憲法裁判所は、時の政権(もしくは多数党)と「民意」が同じ方向を向いている場合には迅速な判断を行うことができるものの、2000年代以降になると、政治的な問題が憲法裁判所に持ち込まれる事例がしばしばみられるようになる。こうした事例では、司法の場において政争が繰り広げられるため、「民意」を把握するのが困難なだけでなく、国民による選出部門である立法府の問題について司法府が判断することの正当性が問題となる。具体的には、2004年の新行政首都移転違憲決定において、ソウルが首都であることは「慣習憲法」であるとして「新行政首都の建設のための特別措置法」が違憲であるとした事例(2004年10月21日)や、2014年の統合進歩党解散決定において、いわゆる「たたかう民主主義」の理論に基づいて統合進歩党を解散させた事例(2014年12月19日)などが挙げられる。これらの事例では、憲法裁判所が他の権力機関から独立して判断を行っているようにはみえないばかりでなく、「国民の側」に立っているようにもみえない政治的な判断となってしまっている。

そうしたなか、今回の憲法裁判所の決定では、一国の大統領の政治生命について判断を下すという極めて政治的な内容の問題であったことに加え、多くの国民が退陣を求めて大規模なデモを連日展開していたなかで、政治とポピュリズムからいかに距離を置いて判断するかという、司法の独立性が試されるきわめて重要な事案であったことがわかる。 憲法裁判所の今回の決定における、「国民の信任に背いた」という指摘と「罷免することで得られる憲法守護の利益」という二つの言葉からは、やはり「民主主義あっての立憲主義」という韓国の憲法裁判所の従来のスタンスが反映されていることを再確認することができるであろう。

今回の弾劾審判を振り返ると、そもそも弾劾訴追が、世論に押されるような形で、国会で真摯な議論を経ることなく訴追に踏み切ったとして、「世論裁判」もしくは「政治裁判」になってはならないと指摘する声もあった(「憲法学者“無知も弾劾事由”vs“憲裁圧迫はいけない”」『東亜日報』(韓国語版)2016年12月23日の記事における李仁晧中央大学教授の意見)。また朴槿恵大統領自身が主張するように崔順實氏の刑事裁判がまだ確定しておらず、また特別検察官による捜査も2月末に終了し数日前に最終報告が行われた状況で直ちに弾劾罷免の決定を下すことは、近代法治国家における「無罪推定の原則」の観点から疑問が残る。

韓国の大統領は内乱又は外患の罪以外では在職中に刑事上の訴追をされないため(韓国憲法第84条)、大統領本人を刑事訴追するにはまず大統領がその職を辞さなくてはならない。こうした制度下では大統領の有罪を確認する前に弾劾罷免するかどうか判断せざるを得ず、かといって関係者の裁判の確定を待っていては大統領の任期が終了してしまい弾劾制度が形骸化するという、制度的なジレンマを抱えている。そのため大統領の弾劾訴追は本来多用されてはならず、直近3代の大統領(朴槿恵、李明博、盧武鉉)のうち2人も弾劾訴追をされたのをみると、やや頻度が高いように思われる。

もし朴槿恵大統領に法令違反が認められるのであれば、これまでの多くの歴代大統領がそうであったように、退任後にその責任を追及していくことも可能であるため、大きな政権空白と混乱をもたらし(特に日本からすればこの空白期間中に日韓関係が悪化してしまったことは残念でならない)性急に弾劾審判を行うのは、たとえ「民意」に沿うものであったとしても、安定的な憲政秩序の維持という点において、本当に望ましいことだったのだろうか。

韓国の憲法裁判所は、民主化以降大きな役割を果たしてきたことは間違いないが、憲法裁判所本来の役割として立憲主義と民主主義のどちらをより守護すべきなのか、国民に選出されない憲法裁判所裁判官が国民の名の下に、国民が選出した国会や大統領について判断を行うことが果たして構造的に妥当なことなのかどうか、今回の事件を契機にあらためて考えてみる必要があるだろう。


《付記》韓国憲法裁判所の写真は水島玲央氏が撮影した(2005年)。その他の写真は水島朝穂が2003年10月に訪韓したときに撮影したものである。
トップページへ