ドイツ国旗はデモ隊の旗だった――「ハンバッハ祭」のこと
2017年5月8日

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日、ドイツは日本より3カ月と1週間早く、「戦後72年」を迎えた。同時に、「ボン基本法」が採択されて68周年の日である。ドイツは4カ国に分割統治されて、ソ連占領地区が東ドイツ、米英仏3カ国占領地区が西ドイツとなって、1949年にそれぞれ憲法を制定した。西ドイツは「憲法」という言葉を将来ドイツが統一した時までとっておくことにして、「基本法」(Grundgesetz)という名称の「暫定憲法」を制定した。68年前の今日、5月8日は日曜日だったが、午後3時16分に議会評議会(基本法制定会議)が開始され、基本法案が午後11時55分に可決された。日付が9日に変わるわずか5分前だった。アデナウアー議長(初代首相)は、8日中に可決することに全力を傾けた。なぜか。この日が、4年前にドイツが連合国に無条件降伏した日だったから。占領軍、特に日付にこだわる米国に対するメッセージ効果を狙ったとされている。基本法が可決されても、占領軍司令官(軍政長官)はまだ条件を付けた。5月21日になってようやく西側占領地区の州議会で審議され、バイエルンを除くすべてで承認され、5月23日に公布、翌日施行された。占領下という困難な事情のもとでの憲法の制定。占領権力の介入の仕方は、3人司令官がいたこともあって、目に見える形で行われ、かなり露骨だった(細かな条文の修正指示も)。このような状況下で制定された基本法を「押しつけ憲法」とする議論はいま、ドイツにはほとんどない。「占領下で制定された」という自明の事実をもって改憲の理由とする安倍晋三的「押しつけ憲法」論は、ドイツ人には到底理解されないだろう。

さて、68年前の今日生まれたボン基本法は、1990年のドイツ統一後も「憲法」ではなく、「基本法」という名称のままである。なぜそうなったかについてはここでは詳しく書かない。ただ、いま首都はベルリンだが、それが決まったのは26年前の連邦議会で、わずか18票差だった(ベルリン338対ボン320)。ボンが統一ドイツの首都となる可能性も実は十分にあったのである。首都はベルリンに移ったが、統一ドイツの「ベルリン憲法」を制定するという声はついぞ聞かない。ボン民主制を「第二民主制」というが、1991年以降「ベルリン民主制」ないし「第三共和制」という言い方はほとんどされない。ドイツ基本法はいまも「ボン基本法」と呼ばれることがある。

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ライン河畔の小さな町、ボンで二度にわたり在外研究をしたこともあって、ここで生まれたドイツの憲法、「ボン基本法」には特別の思い入れがある。私は、この基本法の源流には、ナチス体制を繰り返さないという痛烈な歴史的反省だけでなく、ヴァイマル憲法の「過ち」をも繰り返さないという憲法史的英知があると考えている。「ヴァイマル憲法の「民主主義の行き過ぎ」がヒトラー独裁を招いた(とされる)ことへの反省から、ドイツ基本法は「国民不信」の視点を一貫させ、さまざまなところに「民意の暴走」に対する安全装置を仕込んでいる」

この観点からすると、権力統制によりこだわり、自由主義を重視したという点では、1949年基本法と、その100年前の憲法、フランクフルト憲法(1849年)との歴史的接続性に注目する必要がある。ドイツ3月革命の結果生まれたフランクフルト憲法。これは施行されることなく、「未完のプロジェクト」に終わったが、従来の憲法にも、同時代の憲法にもない充実した基本権のカタログ(死刑廃止条項を含む)をもち、同時に君主の権限を強く制限した立憲君主制の制度設計が、明治憲法のモデルともなったコテコテの欽定憲法、プロイセン憲法(1850年)のいわば「反面憲法」(Gegenverfassung)の役割も果たした。このフランクフルト憲法へと流れ込む、ドイツ立憲主義、自由主義の潮流を考えるとき、1832年に西南ドイツのハンバッハで行われた一大イベントに行き着くのである。「ハンバッハ祭」(Hambacher Fest)である。その前に、フランス革命のドイツへの影響を見ておこう。

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18世紀以降、ドイツはフランスの革命の影響を受け続けてきた。特に西南ドイツ地域はその影響が強い。まず、1789年フランス革命のあと、1792年にフランス軍がライン左岸地域まで進出。そのもとで、「マインツ共和国」が1年間ほど存在した。フランス革命期の急進的なジャコバン派の影響を受けた「ドイツ・ジャコパン派」主導によるものだった。「自由な民衆」による初の議会選挙が行われ、それにより組織された「ライン左岸国民公会」では、神聖ローマ帝国からの離脱や、封建領主の統治権の否定も明確にされた。「共和国宣言」1条には「自由と平等に基づく法律に従う〔…〕国家」とある。女性参政権はなかったが、女性もジャコバン・クラブ(「自由・平等友の会」)に参加できた。「マインツ共和国」は、「ドイツの地における最初の民主的実験」と評される所以である。

ハンバッハに向かう途中、ラインラント=プファルツ州の州都マインツに立ち寄った。「マインツ共和国」の足跡を探すのが目的だったが、なかなか見つからなかった。州立博物館に行って職員に聞いても知らないという。州議会議事堂のある広場に行くと、そこに「共和国広場」というプレートを見つけた。マインツの人々は、ドイツ憲法史における稀有な出来事について学校で習わないのだろうか。私が聞いてみた3人(男性2人、女性1人)は博物館の関係者だが、ほとんど関心がなかったのは意外だった。

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「マインツ共和国」が短命に終わったあと、保守的な「ウィーン体制」の時期が続き、改革の動きは一時停滞する。だが、フランス7月革命(1830年)が起こり、その影響はヨーロッパ各地に広まり、ベルギーは立憲君主制に向かった。西南ドイツではいくつかの憲法が制定され、「ドイツ初期立憲主義」が高まりをみせる。専制君主を退位させて、温和で啓蒙的な君主の体制も生まれた。他方、プファルツ地方を支配するバイエルン王国は、特産品のワインに重税を課し、検閲を強化するなどの自由抑圧政策をとっていた。これに反発した民衆が行動を起こした。1832年5月27日(日曜)。ドイツ南西部、プファルツ地方のハンバッハで行われた「祭」(Fest)は、検閲の廃止などの要求を掲げた政治運動の実質をもっていた。

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この日、男性はモーニングにシルクハットという出で立ち、女性は日傘をもち、こぎれいな服を着ている。太鼓やラッパを鳴らしつつ、ワインを飲みながら、踊り、歌いながら山を登っていく。その数、3万人。およそ政治デモの雰囲気はなく、実際「お祭」として呼びかけられたが、これに呼応して、ドイツ各地から「統一」と「自由」を求めてたくさんの人々が集まってきた。憲法をもった国民国家の樹立を求め、出版の自由、集会・結社の自由、営業の自由などを要求した。ここに女性が参加している点も注目される。中心になったのは、印刷業者たちである。検閲の禁止を含む出版の自由を求め、彼らの結束は固かった。これに思想家や詩人、文学者たちも参加して、政治的な演説を行った。この「ハンバッハ祭」は、1848年のドイツ三月革命につながる「三月前期」(Vormärz)への前奏曲となり、1849年のフランクフルト憲法へと結実する。それは、1949年のボン基本法の「源流」となっていく(直言「ハンバッハと天安門」参照)。

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昨年9月1日、このハンバッハの城を再訪した。一度目は2000年3月21日、ドイツ滞在の最終週に、当時大学院生で、ボン大学に留学していた斎藤一久氏(現在、東京学芸大学准教授)を誘って、西南ドイツ一帯をドライブした際に訪れた。それ以来、実に16年ぶり。今回はボンから列車を乗り継いでやってきた。かつては車を使ってピンポイントで着いたので気づかなかったことがいろいろとあった。「ワイン街道」の町で知られるノイシュタットの駅で下車。タクシーで城に向かった。運転手に、少し誇張して、「ドイツ立憲主義の聖地」を見るために日本から来たというと、意外なことに、あまり驚かず、そういう人はけっこういますというのだ。やはりドイツの歴史を勉強している人が、この田舎の小さな町にやってきて、タクシーで城に向かうのだろう。そこで運転手に質問してみた。この「ハンバッハ祭」について、学校で習ったことはあるか、と。すると運転手は苦笑いしながら、学校では第一次世界大戦から第二次大戦までをやって、この19世紀のドイツ初期立憲主義の重要な出来事については扱っていないというのだ。まさに、「ハンバッハもとくらし」である。

城のなかは記念館になっているが、16年前よりもきれいになり、かつ展示が増えたように感じた。何よりも面白かったのは、レゴブロックを使って「ハンバッハ祭」を描いたジオラマである。楽しげな参加者の様子がよくわかる。ただ、よく見ると、彼らが持っている3色旗の順番が、「黒・赤・金(黄、以下同じ)」になっていることだ。これはいまのドイツ国旗と同じである。だが、冒頭の「ハッバッハ祭」の絵を見ていただきたい。「金・赤・黒」と色の配置が上下反対になっていることがわかるだろう。この「祭」で実際に使われた帽子についているリボンは、ちょっと見にくいが確かに「金・赤・黒」だった。「ハンバッハ祭」の際に「金・赤・黒」だったものが、1848年の3月革命の頃には、「黒・赤・金」となって定着したようである。実際、この「直言」の少し上の方にある絵、フランクフルト憲法を審議したパウロ教会内部の絵を見ると、議場正面上に掲げられている旗は「黒・赤・金」である。これはヴァイマル共和国の旗、そして今日のドイツ連邦共和国の旗と同じである。この色合いの説明はいろいろあるが、ドイツの隷属状態(黒)から赤(抵抗闘争)によって黄金(自由と解放)を得るという意味も3色旗にはあるようである。

「ハンバッハ」を再訪して改めて、自由と権利のための闘争が、その国の憲法の深層海流にあるということを感じた。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(日本国憲法97条)に誠実に向き合い、いまに活かしていくことが重要だろう。政治的集会やデモならば権力に禁止されるため、きれいに着飾り、鳴り物を使って楽しい「祭」の形をとって、政治要求を行う。このしたたかで、しなやかなハンバッハのたたかいは、1989年11月4日(土曜)、東ベルリンのアレクサンダー広場に集った50万とも100万とも言われる人々に受け継がれたかのようだ。俳優や芸術家が呼びかけ人となり、警察の集会許可をとって行った「ベルリン11.4デモ」。その5日後に「ベルリンの壁」は崩壊する。

(2017年5月2日脱稿)

《付記1》冒頭の写真は、Die Revolution von 1848, Der Spiegel Geschichte Nr.3 (2014), S.16f.より。なお、5月3日から週末まで東北に滞在するため、本稿は5月2日に脱稿したものを使用し、日本国憲法施行70年や安倍政権の改憲動向については、来週以降の「直言」で書く予定である。
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