核再処理施設を拒否した村、ヴァッカースドルフ再訪――中欧の旅(その4)
2017年10月9日

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サイルを抱きしめる金正恩の右手をトランプがしっかり支えている。「チキンゲーム」ではなく、実は「出来レース」(fixed game)ではないかと私は疑っているので、このキャンペーンに共感を覚えていた。実はこれは核兵器の非合法化と廃絶を目指す国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のメンバーによる北朝鮮核危機キャンペーンである(10月6日ZDF“heute”より)。北朝鮮に圧力をかけるといいながら、実は金正恩に腕を貸して助けているという構図もうまく描写している。

そのICANが10月6日、2017年のノーベル平和賞に決まった。この時期、このタイミングに驚いた。有志国とNGOが連携して成立させた対人地雷禁止条約(1997年)やクラスター弾禁止条約(2008年)をモデルに、核兵器非合法化の包括的条約をつくることを目指す団体の連合体だが、日本の被爆者の声を世界に広げる役割も果たしてきた。賛同団体は101カ国、468団体(10月1日現在)。日本からはNGO「ピースボート」など7団体が参加し、川崎哲氏が国際運営委員となっている(『朝日新聞』2017年10月7日付)。

ICANのイニシィアティヴにより、7月7日、122カ国・地域の賛成多数で「核兵器禁止条約」が採択された。「唯一の被爆国である日本」の政府は、「核抑止論」の呪縛と米国に対する忖度・迎合により反対した。この条約を推進したICANがノーベル賞を授賞したことは、条約の署名・批准を促進していく上で大変意義深い。ノーベル賞などの名誉系にやたらとコメントしたがる安倍首相の完全無視(10月8日現在)は実に象徴的である。

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さて、明日は衆議院選挙の公示日という緊迫した状況だが、これについては前回の「直言」で書いたので、今回は前々回に引き続き、「中欧の旅(その4)」をお届けする。8月23日、ザルツブルク音楽祭のチケットを偶然入手できて、モーツァルテウムにおける華麗なコンサートに参加した(本連載の6回目〔「雑談(115)音楽よもや話(23)」〕で触れる)。その前に市内を散策中、奇妙な形のモニュメントに引き寄せられるように近づいていった。ザルツブルクの反原発団体のものだった。何気なく碑文を見ると、「1985〜89年の「核国家」に対して国境を越え、党派を越えた市民イニシアティヴの成功した抵抗・・・バイエルン・ヴァッカースドルフ核燃料再処理施設(WAA)の阻止」とあり、これに関わった市民や政治家、牧師などに捧げられている。“WAA”という3文字に、私の頭は別モードになった。実は30年ほど前、私はその村に4日間滞在したことがある。街中が音楽祭の空気で華やいでいるなかで、「ヴァッカースドルフに行くぞ」と叫んだ。

人生は出会いの連鎖である。それが単なる偶然に基づくものか、「運命のいたずら」か、はたまた「神の差配」なのかは、特定の宗教を持たない私にはわからない。来年から「前期高齢者」(いやな言葉である)の仲間入りをするが、このところ不思議な出会いが増えている。「出会いの連鎖」のなかでの「めぐり会い」である。ここは行くしかないと思った。妻はすぐには理解できずにいたが、ハンガリーのショプロンから妻のお目当ての旧東ドイツ・クヴェートリンブルクまで900キロあるので、途中500キロのところにある村(Gemeinde)、ヴァッカースドルフに1泊することで納得してもらった。

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1988年4月〜5月、作家・小田実氏が主催する「日独平和フォーラム」への参加を求められ、16日間にわたり、ドイツ各地の平和・反核の市民運動の現場を訪れた。そのなかで、バイエルン州のヴァッカースドルフに民泊して、ここに建設されていたドイツ初の使用済み核燃料再処理施設(WAA)に反対する住民たちの運動を取材した。森と湖に囲まれた豊かな自然をもつヴァッカースドルフに、核燃料再処理施設が建設されることが決まったのは1985年2月のことだった。当時の州首相は、核武装論者で、連邦国防大臣当時、雑誌『シュピーゲル』の編集長を逮捕するという豪腕のフランツ・ヨゼフ・シュトラウスだった。森林が80万本も伐採されたため、森と自然を愛する住民は猛反発。その翌年4月にチェルノブイリ原発事故が起こり、反対運動に拍車をかけた。ドイツのみならず、放射能は国境を超えるとしてオーストリアなどからも支援の人々が駆け付け、建設阻止の激しい運動が展開された。一部過激な集団も参加して、警察機動隊との間で暴力的な対立に発展することもあったが、全体として見れば平和的な運動が粘り強く続けられた(Gemeinde Wackersdorf (Hrsg.), Chronik: Wackersdorf im Wandel der Zeit, 2009, S.156-178. 前リンクの写真は、S.171より)。

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30年前ここにきたとき、「日独平和フォーラム」には広島や長崎からの参加者もいたので、大歓迎された。当時私は35歳だった。 民泊したエンマ・ギートルさんとの話は、『信濃毎日新聞』1988年7月1〜5日付に連載した「『核』と平和――今日の西独 『チェルノブイリ』から2年」の2回目に出てくる(こちらを参照)。また、滞在中の日曜日、朝から住民とともに「日曜散歩」に参加した。バイエルン州警察がWAA建設現場周辺に施行された特別法に基づき、デモや集会を厳しく制限していたため、住民は「森の教会」のミサに行くという名目で、この施設周辺をゆっくり歩いた。「散歩」という名のデモである(連載第3回参照)。そこでハプニングが起きた。日本から一緒にきたメンバーが「核のない世界を」という横断幕を広げたところ、森のなかから州警察機動隊が飛び出してきて規制にかかったのである。日独平和フォーラムのコーディネーターが知恵を働かせ、この危機を見事に乗り切った。

実は私が滞在する1週間前の1988年4月24日、ドイツ全土から裁判官と検察官400人がここに集い、機動隊が監視するなか、「日曜散歩」をやっていたのである。「平和のための裁判官・検察官フォーラム」のメンバーで、「シュヴァンドルフ宣言」という反核宣言を出していた。当時、たまたまこれを入手して、日本の法律家雑誌に翻訳して公表した(拙著『ベルリンヒロシマ通り――平和憲法を考える旅』中国新聞社、1994年(絶版)117-135頁に収録)。裁判官や検察官もその職務を離れれば、一個人、一市民として自らの信念で行動する。「24時間裁判官」でないと「公正らしさ」が保たれないと考える日本との違いに驚かされた。

ヴァッカースドルフの住民の粘り強い反対運動のなか、1988年10月3日、建設推進の急先鋒だったシュトラウス・バイエルン州首相が急死するや、建設計画にかげりが出始める。1989年5月31日に建設工事は中止され、WAA計画は頓挫する。

この小さな村の無名な小さな人々の運動は、反核運動に大きな影響を与えた。例えば、「ヴァッカースドルフ反対運動は、使用済み核燃料再処理施設建設計画を中止に追い込み、連邦政府に国内での再処理を断念させ、ドイツの脱原子力政策を導く契機となった代表的な原子力施設反対運動である。」と位置づけられている。当初は外部に対して閉鎖的だったローカル市民の運動が、「対外的な開放性」をもつようになり、運動として大きな成功をおさめていくと分析されている(青木聡子「ローカル抗議運動における運動フレームと集合的アイデンティティの変容過程――ドイツ・ヴァッカースドルフ再処理施設建設反対運動の事例から」『環境社会学研究』11号(環境社会学会、2005年)174-187頁参照)。

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WAA建設予定地には自動車工場などが建設されたと聞いていたが、その後私もずっと忘れていた。今回、ザルツブルク市内のモニュメントに「成功した抵抗」という記述を見つけ、この8月29日、ハンガリーのショプロンから500キロ走って、夕方、ヴァッカースドルフに着いた。村役場前の駐車場に車を置いて、近くのホテルにチェックインした。レストランに行くと奥のビアガーデンに案内された。そこにはすでに何組もの家族がにぎやかにビールを飲んでいた。机に座って料理を注文する。挨拶にきたホテル・オーナーに、「私は30年前、WAAの件でここに来たことがあります。」と言った。オーナーの顔が変わった。“WAA”という言葉を私が使ったことで、周囲のテーブルの人々が耳をそばだてるのを感じた。「父や祖父たちが参加していました。私は第三世代です」とオーナーは言って、周囲のテーブルをまわって私のことを紹介しはじめた。隣のテーブルの女性が、私も当時のことはよく覚えているとすぐに反応。そのご主人は現在の副村長(助役)だった。向かいのテーブルの人は、跡地にできた「イノベーション・パーク」にあるBMWの工場の部長職とのことだった。オーナーは特に、サーキット場のことを強調した。欧州各国からもレーサーがやってくるそうだ。また、この地域の森と湖に囲まれた豊かな自然を活かして、釣りやヨットなども盛んだという。

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翌朝、村役場に寄った。30年前にきたことがあるというと、1階の職員全員が関心をもってくれて、いろいろなパンフレットを集めてくれた。WAAの歴史を書いた村史のような本(先に引用した)も入手することができた。かつて私も「日曜散歩」をやったWAA建設予定地に向かう。なるほどサーキット場には欧州各国の旗が立ち、5台ほどが轟音をあげて走っている。周辺は森なので、騒音の心配はない。そこから「イノベーション・パーク」への道に折れる。BMWなど20あまりの企業が並ぶ工場団地である。

かつてあったコンクリートと軍用鉄条網を張りめぐらした要塞のような雰囲気はまったくなく、工場にあるごく普通のフェンスで仕切られていた。外側から写真を撮っていると、警備員が近づいてきて撮影するなという手振りをした。30年前に来たことがあると話すと表情が変わり、「通常は(normalerweise)撮影は禁止だが」というだけで撮影を止めなかった。帰ろうとすると、わざわざ受付に行くようとすすめてくれて、受付でイノベーション・パークやBMW工場のパンフレットをもらうことができた。めくってみると、環境や自然との調和が随所で強調されていた。

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前夜のビアガーデンでの住民との交流でも感じたが、彼らは30年前のWAA反対運動を誇りにしている。当時、WAAに賛成すれば多額の補助金が村に落ちる。1600人の雇用も生まれるとさかんに言われた。高齢化が進む過疎の村には魅力的なフレーズである。しかし、住民はこれを拒否した。WAAを建設しなかったために、豊かな自然、森と湖を守ることができた。BMWをはじめさまざまな企業が進出して、1600人どころか、5600人の雇用が新たに生まれた(Wirtschaftszeitung Standortporträt Wackersdorf, Sonderbeilage, 2014, S.1, 3)。ホテルのオーナーは、WAA計画中止によって生まれた雇用のことも強調していた。

そして、2011年の「3.11」のあと、ドイツのメルケル首相は、「2022年に原発を全廃する」と宣言して、政府の決定となった。多額の補助金と雇用。「基地と原発」をめぐる日本の地方の問題にもつながる。「3.11」の直後の「直言」で私はこう書いた。「今後、福島をはじめとする各地の原発で作られる電力で暮らしてきた私たち一人ひとりが、「原発のない社会」へ舵を切る覚悟ができるかどうか。それは、自分の生活の中身を振り返り、暮らし方を考えていくことを不可避的に要求する」と。ヴァッカースドルフの森と湖と「イノベーション・パーク」を前にして、30年という時の経過を感じつつ、原発再稼働を進める日本のことを考えていた。

10月6日、「希望の党」の小池百合子代表は衆院選公約と政策集を発表した。「12のゼロ」をスローガンに掲げ、そのなかには「満員電車ゼロ」、「花粉症ゼロ」、「電柱ゼロ」などとともに、「原発ゼロ」が含まれている。花粉症と原発が同レヴェルで並んでいる。まじめさが問われる。それよりも、この小池新党は、安倍政権の別動隊ではなく、民進党の調略と解体も担当する「安倍政権の遊撃隊」であることに注意する必要がある。目的のためには手段を選ばず。「原発ゼロ」を言いながら、原発再稼働を容認した。小池代表にとって、公約も政策もすべて調略ということなのだろうか。加えて、小池新党には党内民主主義が絶望的にない。「都民ファーストの会」の運営を不満として2人の都議が離党したが、総選挙後、国政レヴェルで同じことが起こるだろう。「排除します」の論理で「党中央」たる小池代表に忠誠を誓わせる。まさに「非民主主義的中央集権制」である。まだ間に合う。あと2週間、国民の熟慮と賢慮が問われている。

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