憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その2)――「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか


2017年10月18日

選挙という重大事態のなかで、憲法の教科書に出てくるような概念をあれこれ論ずるというのはどうなのか、とお思いの読者の皆さんも少なくないだろう。だが、今回も、憲法学と憲法研究者に対する執拗な難癖を行っている篠田英朗氏に対する批判を行う。前回は「9条加憲」の問題と、立憲主義の基本的な理解をめぐる問題だった。今回はより教科書的な議論であるが、引き続き徹底批判を継続する。

W. 国家の三要素をめぐって
1 どこが「謎の和製ドイツ語概念」なのか
「芦部信喜『憲法』の冒頭部分を見てみよう。

一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力を持つ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。したがって、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた

実は、この芦部の基本書の冒頭に出てくる「統治権」や「国家の三要素」といった概念には、実定法上の裏付けがない。無意識のドイツ国法学の残滓の典型例である。国家の三要素は、1850年プロイセン憲法の規定が、それを模倣して明治憲法を作った日本に導入されて以来、定式化されているものにすぎない。・・・それなのに権威ある憲法学の基本書の冒頭で、これらの実定法の根拠がないドイツ国法学概念を振りかざされている現状は、極めて奇妙である。」(『ほんとうの憲法』198、199頁)


「芦部信喜が憲法学基本書の冒頭で書いている「統治権」「国家の三要素」とは何なのか?

ドイツ国法学を紹介して憲法学界に君臨した美濃部達吉の権威、芦部信喜ら美濃部の直系の弟子たちの権威が支える、謎の和製ドイツ語概念である。」(ブログ2017年05月01日)

篠田氏は、「国家の三要素」は、「実定法上の裏付けがない」「謎の和製ドイツ語概念」にすぎないという(後掲のように「実定法上の根拠がない」ともいう)。どの学問分野であっても、専門外の問題にコメントするときには抑制と謙虚さが最低限のたしなみとして求められるが、篠田氏のアグレッシヴな姿勢はとどまるところを知らない。「実定法上の根拠がない」などといって胸をはっているが、「国家の三要素」は、講学上の概念であり、明文規定があるわけではない。こんなことからいちいち指摘しなければならないほど、篠田氏の論難は憲法研究者の忍耐の限度を越している。

思えば、天皇機関説事件の時、美濃部達吉は、「憲法のどこに国家は法人と書いてあるんだ」と非難されていたのではないか。いわゆる「一身上の弁明」(貴族院本会議1935年2月25日)において美濃部は、「国家ヲ法人ト見ルト云フコトハ、勿論憲法ノ明文ニハ掲ゲテナイノデアリマスルガ、是ハ憲法ガ、法律学ノ教科書デハナイト云フコトカラ生ズル当然ノ事柄デアリマス」とあえて述べているからである(高見勝利編『美濃部達吉著作集』(慈学社、2007年)61頁、旧字改め)。篠田氏が憲法研究者に向かって、「国家の三要素は実定法上の根拠がない」と叫ぶのを見ると、まさに80年前を彷彿とさせる。それにしても、篠田氏による憲法学の教科書類への難癖はすさまじい。

「高橋和之東大名誉教授執筆の基本書『憲法』第1章は、絶対王政によって国家が確立されて「領域的支配権」が確立され、「領土、国民、統治権(主権)」の三要素を持つ国家が生み出されるようになった、と断言する。これらの要素について憲法典に記述がないのは、「憲法の前提ではあるが、憲法の中で確認するには必ずしも適さない」からだと注釈が施されている。根拠となる文献類は提示されない。「国家の三要素」は、憲法学者だけが知る「社会学的意味での国家」の「歴史的成立」の物語の産物であり、憲法学者だけが知る「憲法の条規を超えた『不文の憲法原理』」である。」(『ほんとうの憲法』205頁)

篠田氏は高橋和之氏に対してこのように論難する。「根拠となる文献類は提示されない」と論難の対象となっている高橋氏の教科書の「はしがき」には、「本書は、大学の講義用教科書として書かれたものである・・・。つとめて参照文献は表示したが、スペースの関係で省略せざるを得なかったものも多い。」(高橋和之ほか『憲法I〔第5版〕』(有斐閣、2012年)V頁)、「本来ならオリジナルな学説の主唱者を個々的に引用すべきところであるが、本書が初学者を対象としていることを考慮して、注記を一切省略した。先輩・同僚研究者のご寛恕を請う。」(高橋和之『立憲主義と日本国憲法〔第3版〕』(有斐閣、2013年)V頁)とある。篠田氏の主張は、「文献引用をしない」ことをネガティブに印象付ける非常に悪質な論法である。

国際法の基本的な主体である国家の要件は、@永久的住民、A明確な領域、B政府の3つである。つまり、国際法上、国家とは、永久的住民(国民)によって構成され、一定の領域、特に領土に基礎を置き、実効的な政府(統治組織)を有する団体のことである。」

*小寺彰・岩沢雄司・森田章夫『講義国際法〔第2版〕』(有斐閣、2010年)133頁

この国際法の教科書には国家の三要素が記載されているが、これは、「謎の和製ドイツ語概念」なのか。さらに、この教科書にも、国家の三要素の実定法上の根拠は書かれておらず、根拠となる文献も示されていない。何より、篠田氏は国家の三要素を「憲法学者だけが知る」と言っているが、「国際法学者も知っていた」。

「近代国家とは、領域・主権(sovereignty)・国民(民族)(nation)から成る存在である。」

*久米郁男・川出良枝・古城佳子・田中愛治・真渕勝『New Liberal Arts Selection 政治学〔補訂版〕』(有斐閣、2013年)91頁〔川出良枝〕

このように、大学生用の政治学の教科書にも国家の三要素は書かれている。政治学といえば、篠田氏の専門分野ではないか。しかも、上掲書は、篠田氏出身の早大政治経済学部の教授2名を含む。なお、篠田氏にあらかじめ言っておくが、ゲオルク・イェリネックが主張したドイツ語の国家の三要素は「Staatsgebiet」「Staatsvolk」「Staatsgewalt」である。領土、国民、統治権については、それぞれ節を設けて詳しく説明している(G. Jellinek, Allgemeine Staatslehre, 3. Aufl., 1960, S. 179f, 394ff.; 芦部信喜ほか訳『一般国家学』(学陽書房、1974年)144頁、323頁以下)。「Staatsgewalt」の外国語訳は、英語訳でも日本語訳でも一定しているわけではない。sovereignty(主権)もgovernmentもpublic authorityも統治権もある。訳語にけちをつけても無駄である。

2 EC旧ユーゴスラビア会議・仲裁委員会の意見

国家の三要素は、「EC旧ユーゴスラビア会議・仲裁委員会」(The Arbitration Commission of the European Conference on Yugoslavia)の意見にも採用されている。著名なイギリスの国際法学者であるMalcom N. Shaw教授の教科書の記述から確認する。

The Arbitration Commission of the European Conference on Yugoslavia in Opinion No. I declared that 'the state is commonly defined as a community which consists of a territory and a population subject to an organised political authority’ and that 'such a state is characterized by sovereignty’.
*Malcom N. Shaw, International Law 198 (6th ed. 2008)

これによれば、国家は、一般に、「a territory」「a population」「an organised political authority」という三要素からなると定義される。法学部で国際法を勉強する学生なら誰もが目を通す『国際法判例百選〔第2版〕』(有斐閣、2011年)には、このEC旧ユーゴスラビア会議・仲裁委員会の意見について、国際法学者の五十嵐正博氏の解説がある(26、27頁)。

国際法上、国家の要件として、永続的住民、明確な領域および政府の3要件が必要とされてきた。仲裁委員会は、意見1において、「ある実体が国家を構成する諸条件を定める国際法の諸原則に基づかなければならない」とし、「国家は、組織された政治的権威に服する領域と住民から構成される共同体であり、主権によって特徴付けられ」、・・・とした。上記3要件を確認したものといえよう。」

イェリネックによる国家三要素説と、各国の実行例や上述のEC旧ユーゴスラビア会議・仲裁委員会(次の論文では「The Badinter Commission」という呼称を用いている)の意見との関係については、Stefan Talmonオックスフォード大学教授(国際法)の見解がある。

(2) The classic criteria for statehood
(a) Jellinek’s doctrine of the three elements of statehood
In his Allgemeine Staatslehre (General Theory of the State) of 1900, Georg Jellinek developed the doctrine of the three elements of statehood, according to which a State exists if a population, on a certain territory, is organized under an effective public authority. Although some authors have criticized this definition as treating the State as a purely factual phenomenon, it is still the definition most commonly found in State practice. Thus, the German Foreign Office wrote on 10 February 1994: The Federal Republic of Yugoslavia’s statehood and personality in international law are not affected [by its non-recognition] [. . .]. The FRY meets the objective criteria for statehood (territory, population, public authority).

The Badinter Commission, in its Opinion No. 1 of 29 November 1991, also stated that ‘the State is commonly defined as a community which consists of a territory and a population subject to an organized political authority [. . .].’56 There are usually two requirements regarding the element of ‘public authority’: internally, it must exercise the highest authority, that is, it must possess the power to determine the constitution of the State (internal sovereignty); externally, it must be independent of other States (external sovereignty).


56 Opinion No. 1 [Disintegration of the SFRY] (1991), 92 ILR 162 at p. 165.This decision was confirmed and applied in Opinion No. 10 [Recognition of the FRY (Serbia and Montenegro)] (1992), 92 ILR 206 at p. 208.

Stefan Talmon, The Constitutive versus the Declaratory Theory of Recognition: Tertium Non Datur?, 75 British Yearbook of International Law 101 (2005) available at http://users.ox.ac.uk/~sann2029/BYBIL%2075%20(2004),%20101-181.pdf

Talmon教授によれば、イェリネックによる国家三要素説は、国家実行において依然として共通して見られる国家の定義であるとし、EC旧ユーゴスラビア会議・仲裁委員会(この論文では「The Badinter Commission」という呼称を用いている)の見解にも見られるとしている。

国家の三要素は国際法でも用いられており、断じて「謎の和製ドイツ語概念」ではない。

3 モンテビデオ条約の4要件と国家の三要素

「私は高校の教科書の執筆委員や一般職の公務員試験の試験委員などをやっている」(ブログ2017年07月07日)と得意気にいう篠田氏は、国家三要素説とモンテビデオ条約についての高校の教科書の記述が不満なようである。

「実定法として国家の成立要件を定めた根拠として参照されるのは、国際法の分野では一九三三年「モンテビデオ条約」である。そこには三つではなく、四つの要件が定められている。住民、領土、政府、そして他国と関係を持つ能力だ。ところが日本では、高校の教科書などから、堂々とモンテビデオ条約を脚注で参照しながら、「国家の三要素」が説明されていたりする。勝手に「政府」と「他国と関係を持つ能力」を合体させたうえで「主権」と言い換えて、四つを三つに作り替えてしまうのである。」(『集団的自衛権の思想史』42頁)

教科書が「勝手に言い換えて作り替えてしま」っているのであれば、そのようなでたらめが教科書検定を通ってしまったという重大事態であるから、高校の教科書の執筆委員をされている篠田氏は、文部科学省に早急に「誤り」を指摘すべきであろう。しかも、この指摘は、読売・吉野作造賞を受賞した『集団的自衛権の思想史』の記述である。ただ事ではない。

なお、篠田氏が当該教科書の記述を引用していないので何ともいえないが、高等学校の教科書を出版している二宮書店のウェブサイトに次のような記載がある。

「1934年に発効した「国家の権利及び義務に関する条約(モンテビデオ条約)」では,第1条で「国家の要件」を以下のように定めています。
a永久的住民 b明確な領域 c政府 d他国と関係を取り結ぶ能力
一般に云われる国家の3要素である「国民(人民)・領域・主権」のうち,主権に相当するのがcとdです。このうちdが「対外主権」に相当します。日本政府の立場としては,外交・防衛の最終的な責任を他の国に委ねている場合は,上のdを満たさないため独立国として承認しません。」
二宮書店のウェブサイト「世界の独立国の数はいくつ?」

篠田氏の主張に酷似した記述であるが、このような記述であれば何の問題もない。「相当する」としていて、「勝手に言い換えて作り替えてしまう」とはいえないし、次のような国際法の教科書の説明もある。

「国際法上の国家の要件とはどのようなものか。この点については、一九三三年の国家の権利義務に関する条約(モンテビデオ条約)一条が、a永続的住民、b一定の領域、c政府、および、d他の諸国と関係を結ぶ能力、の四点をあげていることがよく知られている。・・・dは、それ自体は国家の要件というよりその帰結だといったほうがよいが、cと結びつけてこれを理解するなら、政府が対内的に実効的支配を確立しており、対外的には他の国家から独立していることを意味すると考えられる。」
*松井芳郎・薬師寺公夫・田中則夫・佐分晴夫・松田竹男・岡田泉『有斐閣Sシリーズ国際法〔新版〕』(有斐閣、1993年)61、62頁
「国家の要件として、上記の3つに加えて、「他国と関係を取り結ぶ能力」(外交能力)(「国家の権利及び義務に関する条約」[米州]1条)や独立性・主権性を第4の要件に挙げ学説も多い。上記の定義では、これらの第4の要件は「政府」の中に1つの要素として含まれている。」
*小寺彰・岩沢雄司・森田章夫『講義国際法〔第2版〕』(有斐閣、2010年)133頁

いずれの教科書も、学生向けの国際法の教科書であり、要件を3つにした場合の考え方を整理している。読売・吉野作造賞を受けた『集団的自衛権の思想史』で「勝手に言い換えて作り替えてしまう」とまで断言されており、「選考委員会の厳正な審査」も経ているそうなので、まかり間違っても篠田氏の主張の方が間違っていたということはないのだろう。御自身の著作の正当性を示すためにも、ぜひ早急に当該教科書の記述を公開し、当該箇所について文部科学省に連絡したらいかがだろうか。

4 「統治権」概念をめぐる論難
「なぜ憲法学者は、旧時代の遺物として、もはや実定法上の根拠がない「統治権」概念を捨て去ることをせず、むしろ教科書の中で大々的に使用することによって、温存を画策しているのだろうか。・・・芦部ら憲法学者は、「統治権」にこだわり、「統治権」概念を憲法学において維持し続ける強い決意を示している。」(『ほんとうの憲法』202、203頁)

篠田氏の「統治権」概念への論難はとにかく執拗である。「教科書の中で大々的に使用」というが、芦部信喜『憲法〔第6版〕』(岩波書店、2015年)の索引をみると、日本国憲法の概念として「統治権」が記述に登場するのは、「主権」概念として「国家権力そのもの(国家の統治権)」を説明する1か所だけである。国家の三要素を説明する箇所と合わせれば2か所である(なお、ほかにあったとしても、数か所ということである)。それなのに、篠田氏が勝手にそう思い込んでいるがゆえに、濃厚な敵意に満ちた主観的な言葉(「旧時代の遺物」、「教科書の中で大々的に使用」、「温存を画策」、「強い決意」)を散りばめ、「統治権」に「こだわっている」と根拠も示さずに勝手に断定している。衝動が抑えきれず、事実関係を確認しないで感情論をすぐに吐き出してしまう篠田氏の習癖としかいいようがない。あまりにも篠田氏の主張が荒っぽいため、まずは「主権」概念について憲法学の通説の考え方を示しておく。

「主権」は、多義的な概念であり、憲法学では、@国家権力そのもの(統治権)、A国家権力の最高独立性、B国政についての最高の決定権(国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威)という3つの異なる意味に分けて整理されている。この3つの意味について、詳細な内容を示したのが次の図である。

講学上の概念 内容 憲法の規定
国家権力そのもの(統治権 立法・行政・司法に分けられる国家権力を総称した概念 「国会は国権の最高機関」(41条)
国家権力の最高独立性 国家権力が対外的に他のいかなる権力主体からも意思形成において制限されず独立であり、対内的には他のいかなる権力主体にも優越して最高であること。 「自国の主権を維持し」(前文3項)
国政についての最高の決定権 国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威 「ここに主権が国民に存することを宣言し」(前文1項) 「主権の存する日本国民の 総意」(1 条)

憲法学においては、この主権の3つの意味のうち「国家権力そのもの」を伝統的に「統治権」と呼んでいる。そして、「現在では、統治権と国権を同視し、その内容を国内法と国際法によって認められた諸権利と解するのが一般的」(渋谷秀樹「司法の概念についての覚書き」立教法務研究3号(2010年)35、36頁)である。要するに、統治権とは、「国家権力そのもの」の意味でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。実定法上は「国権」(憲法9条1項、41条)という文言が用いられているが、「統治権」は、この「国権」を学問的に説明する概念として用いられている。

「なぜ、芦部は「国権」という概念をそのまま使用することなく、あえてそれを「統治権」と言い換えて記述するのだろうか。」(『ほんとうの憲法』202、203頁)

「国権」という条文の文言を講学上の概念により説明すれば「統治権」であるというだけにすぎず、「あえて言い換えている」わけではない。学問上の用法と実定法上の用法とが必ずしも一致しないことは、法学部生のイロハである。例えば、行政法学では、法令によって一定の行為が一般的に禁止されている場合に、特定の場合にこれを解除し、適法にこれをすることができるようにする行為を講学上「許可」というが、実際の法律の条文上の文言としては、「許可」のほか、「認可」、「特許」などが用いられており、逆に条文上の文言が「許可」、「認可」、「特許」となっていても、それが講学上の「許可」、「認可」、「特許」と一致するかは、規定を解釈しなければわからない。その技術こそ、法学である。篠田氏は、文言の有無だけで考える傾向が強く、法学に対してもっと謙虚に向き合うべきだろう。冒頭に掲げたように、「・・・勿論憲法ノ明文ニハ掲ゲテナイノデアリマスルガ、是ハ憲法ガ、法律学ノ教科書デハナイト云フコトカラ生ズル当然ノ事柄デアリマス」(前掲『美濃部達吉著作集』61頁)というという美濃部達吉の指摘を受け止めるべきである。

「この芦部『憲法』の冒頭の最初のページの最初の記述で登場する「統治権」なる概念には、実定法上の根拠がない。つまり憲法典その他の国内法および国際法においても何も一切根拠がない。」(ブログ2017年05月01日)

憲法典に一切根拠がないというのは非常に乱暴な言い方であろう。篠田氏は、国際法においても「何も一切根拠がない」というが、篠田氏は本当に国際法の教科書を読んでいるのだろうか。

「主権には対内的と対外的の二つの側面がある。対内的には、国家権力が国内において最高絶対のものであること、あるいはそのような性質を有する国家権力そのものを意味する。つまり、国家がその領域内において原則として排他的な自由な統治を行いうる権能をもっていることを示すもので、この場合の主権は統治権とか領域権とか呼ばれるものと等しい。」

*香西茂・太寿堂鼎・高林秀雄・山手治之『国際法概説〔第四版〕』(有斐閣、2001年)57頁〔山手治之〕

京大法学部系の国際法研究者によるこの国際法の教科書の説明は、「統治権」の概念について、芦部氏の「国家権力そのもの(統治権)」という説明と同じである。「主権」の概念のうち、国家権力そのものは「統治権と呼ばれるものと等しい」のであるから、結局は、「国家権力そのもの」をどのようなネーミングで呼ぶかどうかの問題にすぎない。「東大法学部系憲法学者」ではないが、これを篠田氏はどう説明するのか。

憲法学として指摘すべき事柄は以上である。あとは、篠田氏の憲法学に対する論難のひどさをご鑑賞いただきたい。

「石川〔健治〕教授は、安倍首相の改憲論に反対した立憲デモクラシーの会の記者会見の中で、次のように述べた。

「軍事組織を持つことの正統性が常に問われ続けるということとの関係で、大幅な軍拡予算を組むことが難しくなっている、という側面です。予算編成を通じて、国の財政権の行使に実際上とりわけ大きな役割を果たしてきたのは、大蔵省、財務省だと思いますけれども、なぜそういう財務官庁が軍拡予算についてブレーキになることができたのかというと、彼らによる財政権の統制に憲法上の根拠があるからであるわけで、それが9条とりわけその2項ということになるはずなんですね。・・・これらの、現在、現実に機能している統治権のコントロールが、今回の改憲提案のような形で自衛隊を憲法上正統化してしまうと、一挙に消えてしまうということになるはずです。この「一挙に消えてしまう」という点において、これは最も危険な提案になっている、ということを申し上げておきたいと思います。」(2017年5月22日)

石川教授は、必ずしも自衛隊は違憲だとは言わない。しかし違憲であるかのような状態においておくことによって「統治権のコントロール」が果たされるので、改憲してはいけないのだという。そして9条があるので、財務省が財政コントロールをかけることができる、という独自の理論を披露することにも躊躇しない。

憲法学者(と司法試験・公務員試験受験者)だけが知る「統治権」という謎のガラパゴス概念については、拙著『ほんとうの憲法』参照していただきたい。いずれにせよ驚くべきことに、石川教授の頭の中では、財務省は「統治権」をコントロールする機関であるらしい。「統治権」は、もともと実定法上の根拠がないガラパゴス憲法学の「道具」でしかないので、使用方法は自由自在、憲法学者のお好みのまま、である。だが、ここまでくると論理的一貫性を見るのは、簡単ではない。」(ブログ2017年07月30日)

石川氏は、「統治権」を「国家権力そのもの」の意味で用いているにすぎない。現在の国際法学・政治学を含む学問の状況の把握すらできない篠田氏こそ、頭の中が「ガラパゴス」である。

憲法学は、「統治権」を欲しているのである。誰よりも憲法学者が、神秘的なまでに時代がかった様相で国家権力を象徴する名称を、戦前の「国体」のみならず神話の世界にまで通じている国家権力を象徴する名称を、求めているのである。なぜか。「抵抗」するためである。国家権力に対する「抵抗」こそが戦後日本の憲法学のアイデンティティの源泉なので、抵抗する対象には神秘的なまでに権力的であってほしいという密かな願望があるのだろう。「統治権」という謎の概念は、他のいかなる概念にも優って、抵抗する相手方の神秘性を高めてくれる。「統治権」がなくなってしまったら、いったい憲法学は何に対して「抵抗」すればいいのか。」(『ほんとうの憲法』203、204頁)

これが篠田氏の結論である。なんと、憲法学は、「抵抗」するため「統治権」を「欲している」のだそうだ。芦部『憲法』には2か所にしか登場しないのに。篠田氏は、自らの主張を支える実証的な証拠を全く挙げていない。研究者なら、実証的な証拠を提示すべきであろう。

「憲法学は、「国民主権」にこだわる。主権者である国民は、憲法学者の指導の下、国家権力に対して「抵抗」するために立ち上がることが期待されている。だがもし「主権」以外の権力を言い表す概念がない場合、「抵抗の憲法学」は困った状態に置かれてしまう。ともに国家権力に「抵抗」しているはずの国民こそが実は主権者なのだとすれば、国民こそが最高権力者である。主権者である国民が、なぜ「抵抗」などをするのか、語義矛盾のような状態が生まれる。そもそも「抵抗の憲法学」は、主権者たる国民に対して「抵抗」しないのか、という疑問も発生するだろう。しかし主権者である国民とは協力して、国家権力に「抵抗」したい。

そうだとすれば、「主権」以外に、国家権力を表現する概念が欲しい、ということになる。この欲求を満たすのに、「統治権」ほど便利な概念はない。「戦前の軍国主義」や「戦前の国体」や「超国家主義運動」や「天皇機関説事件」など、あらゆる類の戦後に否定された旧時代の権力関係の遺物を、総合的に表現するのに最適な概念が、「統治権」である。」
(『ほんとうの憲法』204、205頁)

妄想のオンパレードである。感想文の域を出ず、話にならない。意味不明の文章であるので、一般の方は理解できなくても大丈夫である。法学の専門家でも意味が分からない。

「おそらくは戦前に果たすべきであった革命を果たしきれなかった思いが、「抵抗」こそが憲法学だ、という特殊な理解を作り上げた。「統治権」を設定したうえで、それに対して憲法学者は「主権者・国民」とともに、「抵抗」を続ける。「統治権」を持つ「国家」に対して、「主権」を持つ「国民」が「抵抗」する。これが戦後日本の憲法学が求める基本的な構図である。この構図にしたがって、憲法学者は「主権」者である「国民」を助けて、「統治権」を保持する「国家」権力機構に対し、「抵抗」する。「抵抗の憲法学の物語」と呼ぶべき基盤的な概念図を提供するのが、「統治権」である。」(『ほんとうの憲法』206、207頁)

妄想はどこまでも続く。不透明な言葉の連続と論理の飛躍でぐしゃぐしゃな文章なため、全く意味が分からない。「プロの学者」である篠田氏に問うが、これの一体どこに客観的な学問的分析が施されているというのか。

「抵抗の憲法学」という言葉を取り上げて、これを憲法研究者論難のツールとして使うので、ここでしっかり篠田氏に言っておきたい。憲法学の分野で、どういうコンテクストでこの言葉が出てきたかを。

18年ほど前、高橋和之氏が「戦後憲法学」を、「抵抗の憲法学」と「制度の憲法学」という2つのスタンスに分けて整理したことがある(高橋和之「補論『戦後憲法学』雑感」『現代立憲主義の制度構想』(有斐閣、2006年)15-20頁、初出1999年)。「憲法学の中心的課題は、権力を厳格・効果的に制限し拘束することのできる理論の構築に求められる。権力のいかなる行動も、常に猜疑の目で見られなければならない。権力の濫用のほんの小さな可能性をも見逃すことなく鋭敏に嗅ぎつけ、迫りくる危険を国民に知らせ、いざとなれば国民を権力への抵抗へと動員することが肝要であり、日頃からその準備を怠ることがあってはならない。権力は永遠の敵であり、国民の権利は権力との不断の闘争によってしか確保できないのである。このような立場に立つ憲法学を、私は『抵抗の憲法学』と呼んで来た。」と。他方、「権力を外から観察しつつ、権力を他者とは見ずに、我々のものであり、我々がコントロールしうるものと考えるのである。・・・憲法学の最も重要な課題は、国民の権利がよく保障されるような制度の設計と運用に関する理論を構築することにある。このように考える憲法学の立場を、ここでは『制度の憲法学』と呼ぶ」と。そして、「もちろん、私は、戦後憲法学が「抵抗の憲法学」一色であったなどと言うつもりはない」として、「憲法50周年を経過した今日」、「制度の憲法学」も少しずつ前進してきており、それは、たとえば外国憲法の研究の仕方のなかに現れているとする。憲法学の「研究視角が抵抗の視点から制度の視点へと移行してきている」という認識が示される。しかし、高橋氏は、「「抵抗の憲法学」は、決して不要なものではない」としつつ、「より原理的には、「抵抗の憲法学」は、立憲主義憲法学にとって不可欠の構成要素」であるという。それは「制度と抵抗権の対立的統一として存在するのである。それをいずれか一方に解消することはできない。制度なき抵抗権は過大な犠牲を要求する。抵抗権なき制度は圧制に堕落する。いずれも立憲主義の否定と言わざるをえない。真の立憲主義は、抵抗権に訴える必要のない制度の設計と運用にある。それは、少数者の人権と抵抗権を意識した、成熟した市民が制度の運用を行うとき、初めて可能となる。立憲主義憲法学も、抵抗の視点と制度の視点を統合し、常に両者の視点相互の不断のフィードバックを行いつつ展開されねばならない」とする。

また、石川健治氏は、戦前(1935年)における清宮四郎氏の憲法学を原型にしつつ、「抵抗の憲法学」とも評される戦後日本の憲法学の特性がいかにして造形されたかに注目する(石川健治「統治のヒストーリク」奥平康弘・樋口陽一編『危機の憲法学』(弘文堂、2013年)15-58(55)頁)。

「抵抗」という言葉に引きずられ、これを政治主義的に曲解して、憲法学に負のイメージを与えようとする篠田氏の試みは成功しないだろう。篠田氏の文章には、ネトウヨ系のブログやツイートの世界と同様の荒野を感じる。

《この項続く》

連載第1回:「9条加憲」と立憲主義

連載第2回(今回):「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか

連載第3回:憲法前文とその意義

連載第4回(完):憲法9条をめぐって

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