憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その3)――憲法前文とその意義
2017年10月19日

回も、憲法学と憲法研究者に対する執拗な難癖を行っている篠田英朗氏に対する批判を行う。第1回は「9条加憲」の問題と、立憲主義の基本的な理解をめぐる問題第2回は「国家の三要素」をめぐる問題を扱った。今回は憲法前文をめぐる問題である。専門的な議論が中心になるが、必要な批判なのでご了承いただきたいと思う。

Ⅴ 憲法前文とその意義
1 内閣法制局が前文の「正義(justice)」を「公正」に変更?
「憲法前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ことが宣言されている。ここで信頼する諸国民の「公正と信義」とは、「justice and faith」である。もともとのGHQの憲法草案のときから、「justice」の語が使われていた。・・・

それではなぜ前文の「justice」は「公正」になってしまったのだろうか。実は当初のGHQ草案の外務省仮訳では、前文の「justice」は「正義」と訳されていた。その後、内閣法制局で正式な日本語の草案が作られた際に、「公正」にされてしまった。・・・

なぜ前文に「正義」があってはいけなかったのか。その理由は、アメリカ合衆国憲法にあると言える。アメリカ合衆国憲法の前文は、「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義(justice)を確立し・・・」という文章で始まっている。日本国憲法の前文に「正義」があると、アメリカ人が起草したことが明らかになるため、意図的に訳し変えたのだろうと推察せざるをえない

これを受けて憲法学者たちは、合衆国憲法との類似性を語ることを避けた。内閣法制局が「正義」を「公正」と書き換え、憲法学者がそれを「中立の立場からの平和外交」を求める規定だ、などと講釈する陰謀めいた連携プレーを見せてきた。「正義」の語の回避は、日本の官僚や法学者たちによるアメリカ回避という政治目的にしたがって進められた。」(『ほんとうの憲法』35、36頁)。

この主張には、実証的な論拠が全く述べられておらず、「推察」としているが、篠田氏は、「外務省仮訳時まで「正義」だった「justice」を故意に「公正」としたのは当時の内閣法制局の役人だ」(ブログ2017年05月17日)と断言までしている。

篠田氏の主張は、歴史上の事実に反するのではないか。たしかに、外務省仮訳は、「世界ノ平和愛好諸国民ノ正義ト信義トニ信倚センコトニ意ヲ固メタリ」としていた。しかし、外務省仮訳の「正義」が「公正」に変わった理由は、法制局次長として憲法起草に関与した入江俊郎が書いた『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題――入江俊郎論集』(第一法規出版、1976年)に書かれている。該当箇所を引用する。

三月六日、「前文はことにむずかしいので、五日の閣議の際よく文章を練ることを申し合わせたが、安倍文相も一案を練ることを約されました。そこで法制局もまた一案を起し、六日の午後は、安倍文相が一夜慎重に研究して来られた案と、法制局案との双方について閣議において検討し、結局法制局案と安倍案とを適宜にとつて一案にまとめました(資料9)・・・前文は英文は全然アメリカ側の交付案通りで、一字一句変更がなかつたから、日本文だけを了解してもらえればよかつたのでありました。かくして、午後五時、楢橋書記官長より新聞発表を行い、総理談話を発表、勅語及び改正案要綱の全文を発表したのであります。」(220頁)

(資料 9)憲法前文訳文案二つ(安倍能成氏案と法制局案)

(1) 安倍能成氏案
  ・・・平和を愛好する世界諸国民の公正と信義とに依頼して・・・

(2) 法制局案
  ・・・世界の平和愛好諸国民の正義と信義とに信倚せんことを決意したり・・・

(254、255頁)

司令部交付案と三月六日の要綱との異同について、「前文は英文においては一字一句変化がない。日本文はただその表現をかえただけである。しかしこの表現については、閣議においても相当苦労をしたことは上述した。併し英文は一字一句も変更することを司令部側は、がえんじなかつたので、結局なるべく日本文らしく且つ判りやすい訳文としようとして努力したに止まつている。」(226頁)

これによれば、事実は、次の通りである。法制局は外務省仮訳通りに「正義」としていたのであるが、安倍能成文相が「公正」と訳し、閣議で検討し、安倍案の「公正」が採用された。なるべく日本文らしくかつ分かりやすい訳文としようとした。

したがって、「内閣法制局が「正義」を「公正」と書き換え」とか、「外務省仮訳時まで「正義」だった「justice」を故意に「公正」としたのは当時の内閣法制局の役人だ」とか、「内閣法制局が「正義」の語を嫌った理由は、アメリカ合衆国憲法にあるのだろう。」」といった篠田氏の主張は誤りではないのか。

「「・・・勉強不足の国際政治学者は黙っていてください」、といった「知性主義」的な態度をとる方々が、日本には多数いる。」(ブログ2017年05月01日)

「綺麗な議論のように見えるが、論理的・実証的な説明は、施されていない。」(ブログ2017年07月30日)

これらの発言から、篠田氏は、勉強を十分にし、「実証的な説明」を旨とされるはずであるから、『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題-入江俊郎論集-』を読んでいないということはないだろう。だが、篠田氏が自らの主張を支える理由として提示するのは、「推察」だけで、実証的な証拠は何一つ示さず、自身の主張を断定的に、決めつけ的に行っている。

ただ、入江氏の証言と資料が間違っている可能性もなくはないから、反論があるならば、入江氏の証言と資料を覆す実証的な証拠を提示の上、反論されたい。

2 憲法前文の「公正」は合衆国憲法前文の「正義」か

「憲法9条の目的は、「正義と秩序を基調とする国際平和」だが、それはGHQ起草の前文と結びついている。前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意が表明されている。つまり日本国民は、「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信義に信頼」をして、自らの安全と生存を保持することを決め、9条を定めた。・・・

しかも「正義の確立」は、アメリカ人民が、合衆国憲法を制定した「目的」の一つとして、特筆しているものだ。日本国憲法が「信頼」する「平和を愛する諸国民」の筆頭国が、アメリカ合衆国である。合衆国憲法が確立する「正義」を、日本国憲法が「信頼」する、という論理構成が、そこに厳然と存在している

これは何ら特異な解釈ではないはずだ。憲法制定当時、日本を占領していたのは、アメリカ合衆国である。憲法草案を起草したのは、アメリカ人たちである。そもそも憲法制定に至る太平洋戦争の終結は、300万余の日本人、10万余のアメリカ人の犠牲によって、もたらされたものである。いったい誰が、アメリカの「正義」を「信頼」することなくして、日本が自国の安全を確保できる、と夢想できただろうか

合衆国憲法が、「正義を確立」する。日本国憲法が、「諸国の正義を信頼」し、自国の安全を保持する。これはアメリカ合衆国が主導して作成された国連憲章の論理構成であり、やはりアメリカ合衆国が主導し、日本の政策当局者が同意した、日米安全保障条約の論理構成でもある

日本は、アメリカ合衆国などの諸国の「正義」を信頼して、自国の安全を確保していく。憲法は、アメリカによる占領統治下でそのように宣言し、実際に日本はその後70年間、アメリカ合衆国の「正義」を信頼して、自国の安全を確保してきた。これは今や解釈の問題ですらない。世代を超えて継承されてきた一つの現実である。・・・

私は、戦後の日本で行われた平和構築の政策の体系を見れば、日本国憲法に「国際契約」の論理が内包されるようになったことは、当然だと思っている。憲法起草に携わったアメリカ人たちが、自国が国際社会を代表して「国際契約」をまとめ上げていると考えていたことは、自明だと思っている日本国憲法前文に「諸国の正義を信頼して自国の安全を保持する」という論理を挿入したアメリカ人たちが、自分たちの国アメリカ合衆国の憲法が前文の冒頭で「正義の確立」を掲げていることを、つまりアメリカ合衆国こそが日本に信頼されるべき「諸国の正義」を代表する国だと考えていたことは、自明だと思っている。あとは日本人が、それを「信頼」するかどうかである。・・・

今日のほとんどの日本人の間では、日米同盟体制の運用の方法をめぐる議論はありえても、同盟を「信頼」すべきか否かの議論はないように思う。「正義への信頼」こそが、日本国憲法の命である。従属ではない。相手が信義則に反する行為をとるならば、指摘すればいい。しかしそれも「信頼」があればこその話だ。」(ブログ2017年05月17日)

篠田氏は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という前文を「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信義に信頼をして」と勝手に引用符まで付けて読み替えてしまう。そして、篠田氏は、前文の「正義」とは、「アメリカの正義」であるというのであるが、肝心の「アメリカの正義」の内容は全く説明されないまま、突如、「あとは日本人が、それを「信頼」するかどうかである」と言い放ち、「アメリカの正義への信頼」こそが「日本国憲法の命」と話が飛ぶ。そのように主張する客観な論拠の提示がなく、「当然」と「自明」と「信頼せよ」の連発である。アメリカの「正義」という「自明」を「信頼」せよ、と実証的な論証抜きにひたすら信じることを求める。

3 合衆国憲法前文の「to establish Justice」の意味

「史実の問題として、憲法を起草したアメリカ人たちが、自国の憲法の冒頭に登場する重要概念について、全員が完全に失念していた、などということがあるはずがない。アメリカ人たちは、十二分に自国の憲法の文言を想起したうえで日本国憲法を起草したはずである。」(『ほんとうの憲法』36頁)

この箇所が前文の「公正」を「正義」と読み替えてしまう篠田氏の主張の理由らしいが、「はずがない」と「はずである」と言うだけで、実証的な証拠は何も提示されていない。

「アメリカ人たちは、十二分に自国の憲法の文言を想起したうえで日本国憲法を起草したはずである」というならば、そもそも合衆国憲法前文の「Justice」についてどのように解釈されているのかを調査し、それを踏まえた上の判断でなければならないはずである。しかし、篠田氏は、合衆国憲法前文の「to establish Justice」の意味について全く論じていないばかりか、あろうことか、合衆国憲法前文の文言は英語の「Justice」であるのに、それを「正義」という日本語訳で固定的に考えてしまっている。

結論的に、日米の専門家の文献は、合衆国憲法前文の「to establish Justice」の意味については、司法制度の確立を中心として理解されている。したがって、安全保障の文脈での「アメリカの正義」という篠田氏の主張は、的外れである。以下、専門家の見解を紹介する。

まず、日本側の専門家の理解として、英米法学者の一倉氏の見解が端的である。

「「正義の確立」

合衆国内をつうじて「正義を確立する」ということは、新憲法前文に定められた第二の目的である。この第二の目的は、端的にいえば司法部体制を確立することを意味する。それゆえに、もっと具体的にいえば、司法裁判所の確立をとおして正義の確立は実現される。本来的に司法制度の存在理由というものは、国内における紛争の平和的解決のために活用できる機関が必要とされる、というところにある。じっさい、国家に司法制度が存在するのは、少なくともそのために他ならない。」

*一倉重美津『アメリカ憲法要説〔第2版〕』(成文堂、1999年)35頁

次の塚本氏は、最高裁判事でもあった英米法学者である。長内氏は、英米法学者である。「州相互間にまたがる事項を取扱う機関」の問題として説明されており、「正義の確立」がアメリカの国内問題を念頭に置いていることが分かる。

「正義を確立し、国内の平穏を保障し」とあるのは一三州相互間において、あるいは境界に関し、あるいは営業上の競争に関し、紛争がたえず、また、治安も必ずしも平穏ではなかったにもかかわらず、従来、州相互間にまたがる事項を取扱う機関を欠いていたために、円満を欠き、かつ、事態の解決にも不自由を感じていたので、その欠陥を除去しようとしたものである。」

*塚本重頼・長内了『註解アメリカ憲法〔第3版〕』(酒井書店、1986年)14、15頁

アメリカ側の専門家の議論であるが、アメリカの保守派のヘリテージ財団のウェブサイトに掲載されている歴史学者Forrest McDonald氏による合衆国憲法前文の「to establish Justice」の解説でも、司法制度の問題として説明されている。

Preamble
In the second stated objective, to "establish Justice," the key word is "establish," clearly implying that justice, unlike union, was previously nonexistent. On the face of it, that implication seems hyperbolic, for the American states and local governments had functioning court systems with independent judges, and trial by jury was the norm. But Gouverneur Morris chose the word carefully and meant what he wrote; he and many other Framers thought that the states had run amok and had trampled individual liberties in a variety of ways. The solution was twofold: the establishment of an independent Supreme Court and the provision for a federal judiciary superior to those of the states; and outright prohibition of egregious state practices.
The Heritage Guide to the Constitution

また、アメリカ連邦最高裁判所判事ジョセフ・ストーリー(Joseph Story)のCommentaries on the Constitution of the United Statesの見解もみておこう。篠田氏は、「1833年に、おそらくは当時の憲法学で最大の権威を持った書を残した合衆国最高裁判所判事ストーリー」(191頁)とし、この注釈書については次のようにいう。

「私個人は、ストーリーの大著『Commentaries on the Constitution of the United States』(1833年)には思い入れがある。この19世紀における最重要の合衆国憲法に関する注釈書は、・・・LSEの国際関係学部の博士課程学生だった私に、ある種の衝撃を与え、博士論文の構想を固めてくれたものだった。」(ブログ2017年02月06日)。

そのストーリー判事の見解も、司法について語っている。

§ 482. But not to dwell farther on these important inducements "to form a more perfect union," let us pass to the next object, which is to "establish justice." This must for ever be one of the great ends of every wise government; and even in arbitrary governments it must, to a great extent, be practised, at least in respect to private persons, as the only security against rebellion, private vengeance, and popular cruelty. But in a free government it lies at the very basis of all its institutions. Without justice being freely, fully, and impartially administered, neither our persons, nor our rights, nor our property, can be protected. And if these, or either of them, are regulated by no certain laws, and are subject to no certain principles, and are held by no certain tenure, and are redressed, when violated, by no certain remedies, society fails of all its value; and men may as well return to a state of savage and barbarous independence. No one can doubt, therefore, that the establishment of justice must be one main object of all our state governments. Why, then, may it be asked, should it form so prominent a motive in the establishment of the national government?

§ 483. This is now proposed to be shown in a concise manner. In the administration of justice, foreign nations, and foreign individuals, as well as citizens, have a deep stake; but the former have not always as complete means of redress as the latter; for it may be presumed, that the state laws will always provide adequate tribunals to redress the grievances and sustain the rights of their own citizens. But this would be a very imperfect view of the subject. Citizens of contiguous states have a very deep interest in the administration of justice in each state; and even those, which are most distant, but belonging to the same confederacy, cannot but be affected by every inequality in the provisions, or the actual operations of the laws of each other. While every state remains at full liberty to legislate upon the subject of rights, preferences, contracts, and remedies, as it may please, it is scarcely to be expected, that they will all concur in the same general system of policy. The natural tendency of every government is to favour its own citizens; and unjust preferences, not only in the administration of justice, but in the very structure of the laws, may reasonably be expected to arise. Popular prejudices, or passions, supposed or real injuries, the predominance of home pursuits and feelings over the comprehensive views of a liberal jurisprudence, will readily achieve the most mischievous projects for this purpose. And these, again, by a natural reaction, will introduce correspondent regulations, and retaliatory measures in other states.

*Joseph Story, 1 Commentaries on the Constitution of the United States 463-464 §482-483 (1833) available at http://www.constitution.org/js/js_306.htm

国際法学者のAbram Chayesハーバード大学ロースクール元教授の論文How Does the Constitution Establish Justice も、合衆国憲法前文の「to establish Justice」をアメリカの司法との関係で論じている。重要な箇所は訳出した。

What does the Constitution do to “establish justice”?【合衆国憲法はいかにして「to establish justice」するのか?】 Here is a deceptively simple answer【それに対する答えは、驚くほど簡単である。】: The Constitution provides for “[t]he judicial Power of the United States”  to be exercised by “one supreme Court, and…such inferior Courts as the Congress may…ordain and establish.”【合衆国憲法は、「合衆国の司法権は、1つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定し設立する下位裁判所により行使される」と規定する。】The federal judiciary thus established is the institutional custodian of justice in our system. I do not mean to denigrate the other departments of government in which the founders vested powers of the new republic. Nor do I mean to say that Congress and the Executive are never concerned with justice【私は、議会と執行権がjusticeに全く関係していないと言うつもりもない。】. Compared with providing for the common defense or promoting the general welfare, however, establishing justice requires a longer term institutional perspective, one that responds to values and considerations both less tangible and more transcendent than those commonly emphasized by elected political leaders【しかしながら、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進することに比べて、establishing justiceには、より長期の制度的な見通しが必要であり、それは、選挙された政治指導者達が一般に強調する価値や考慮すべき事柄より、形がはっきりとしておらず、漠然としている価値や考慮に応答するものである。】.」

*Abrahm Chayes, How Does the Constitution Establish Justice?, 101 Harvard L. Rev. 1026 (1988) (citation omitted.)

Abram Chayes氏は、「establishing justice」を「共同の防衛」つまり安全保障の場合と比較し、安全保障において選挙により選ばれた政治指導者達が一般に強調する価値と考慮と、establishing justiceに要求される価値と考慮の違いを述べている。「establishing justice」は、安全保障の場合とは切り離されて議論されていることに注目してほしい。これは、篠田氏の主張と全く異なる点である。

さて、こうなると、合衆国憲法前文の「Justice」を「正義」と翻訳する日本の学界の伝統の当否の問題にもなる。多数の学者が「正義」と翻訳するなか、ブリティッシュコロンビア大学教授(阪大名誉教授)の松井茂記『アメリカ憲法入門[第7版]』(有斐閣、2012年)433頁では、前文の「to establish Justice」を「正義に基づく法秩序を樹立することと翻訳されており、単純に「正義」とすることには慎重な姿勢が示されている。松井氏の『アメリカ憲法入門』の第1版1989年、第2版1992年、第3版1995年までは、「正義を樹立し」と訳されているが、「正義に基づく法秩序を樹立すること」となるのは、2000年の第4版からである。この転換期には、英文学者の飛田茂雄氏による合衆国憲法前文の「Justice」の和訳に関する重要な作品が発表されている。

飛田氏は、「ここの“Justice”を「正義」と訳すことに、私は賛成しかねる。」という見解を示されている(飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(中央公論社、1998年)37頁)。飛田氏は英文学者だが、アメリカの専門書も参照しており、アメリカ憲法の専門家によれば、同書はアメリカ憲法研究者にとって必読書であり、アメリカ憲法の邦訳を確認するときには、最低限目を通すべきものであるとされている。飛田氏の見解を見ておこう。

「“establish Justice”はほとんどすべての邦訳憲法で「正義を確立〔樹立〕し」と訳されてきたが、あまりにも抽象的で、具体的なイメージが浮かばない。この前文で他に並列された目的がすべて具体的な内容を持っているのと同じく、establish Justiceも「(公正な法律の制定や裁判所の創設など)法制度を確立し」という具体的な内容を含んでいる。」
*飛田茂雄『英米法律情報辞典』(研究社、2002年)517頁

「1. Justiceの訳は「正義」でよいか

・・・〔斎藤眞訳、宮沢俊義編『世界憲法集』(岩波書店、第4版・1983年、〔初版・1960年〕)〕に付された注記によれば、米国の憲法学者の一部はこの“Justice”が「抽象的な正義」を意味していると解釈しているそうだ。しかし、“Justice”が日本語の「(抽象的な)正義」と等価であるかどうかは、かなり疑問である。

・・・日本とロシアの首脳は、北方領土問題を「法と正義に基づいて解決する」と約束したいう。その場合の「正義」とはどんな意味だと思いますか、と同僚や学生にたずねてみたけれども、だれもが首を捻(ひね)って、「さあ」と答えるだけだった。「正義」には、どうもつかみどころがないのである。ところが、ロシア語の「正義」に当たる言葉は、英語のjusticeと同じで、「公正(の原理)」という意味を含んでいる。したがって、ロシア人は「法と正義」に当たる語「ザコン・イ・スプラヴェドリヴォスティ」を聞いたとき、「国際法に従い、公正の原理にのっとって解決する」という意味をただちに汲み取ったことだろう。そして、この場合、公正とは、「武力によらず、双方の対等で理性的な議論を積み重ねながら、利害得失が一方に偏らない解決法を模索すること」だということも理解したことであろう。

米国に話を戻そう。1776年の「独立宣言」の最後のほうに、英国人が生来持っていたはずの”justice”への言及がある。これは単に抽象的な「正義」ではなく、「法秩序」、あるいは「順法精神」と訳せる概念であろう。同年の「バージニア権利宣言」にも、1780年の「マサチューセッツ権利宣言」にも、自由な政府、および個人の権利や自由の基本として、”a firm adherence to justice”や”administration of justice”が必要だと書いてある。その”justice”の根本的な意味も、抽象的な正義ではなく、具体的な内容を持つ「公正の原理」と「法秩序」である。もし、justiceのこういう根本義が文脈によって明らかであるならば、「正義」という訳語を使ってもいっこうに差し支えない。しかし、この憲法前文では不適当な訳語だと私は思う。

くどいようだが、米国憲法が確立しようとしていたのは、単に「正義」と呼ばれる精神ではなくて、(共同の防衛や公共の福祉と同様に、実質的な内容を持つ)「法秩序」、具体的には「法体系」と「司法制度」であった。実際、条文に規定されているのは、具体的な法体系と司法組織との整備である。したがって、私はここを「法秩序を確立すること」、あるいはせめて「法に基づく正義を確立すること」と訳したい。」

  飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(中央公論社、1998年)13-16頁

飛田氏の解説は既存の翻訳に鋭く問題を提起するとともに、アメリカ憲法前文の「正義」が少なくとも、「国際社会における安全保障の文脈」で語られる正義とは同視できそうもないことだけははっきりと示している。

もっとも、篠田氏も「司法」を全く意識していなかったわけではないが、「司法」という意味を「含意」にとどめてしまっている。

「英語の「justice」が、「司法」も意味する語であることは、言うまでもない。・・・前文において「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信念を信頼」する場合、国際的な法秩序を信頼する、という含意があることは、当然だ。」(ブログ2017年05月14日)

だが、アメリカ合衆国憲法前文の文脈で「Justice」を確立するのは、独立が保障された公平中立な裁判官である。他方で、篠田氏は「アメリカの正義」を国際社会における安全保障の文脈で語っている。アメリカにおいて安全保障の文脈で「アメリカの正義」を語るのは、大統領や議会である。それにもかかわらず、篠田氏は、国内司法の文脈で語られている合衆国憲法前文の「Justice」について、何の説明もなく、突如として、国際社会における対外的な安全保障の文脈での「アメリカの正義」を意味するものと読み込んでいる。「Justice」に「国際的な法秩序」を読み込むとしても、それを語るのは、司法の文脈では裁判官であり、国際社会における対外的な安全保障の文脈では大統領や議会である。この点は、前述のAbram Chayes氏が指摘していたとおりである。

篠田氏は、合衆国憲法前文の「Jusitice」の意味について、単純に「正義」と言っているが、なぜ「Justice」を司法制度の文脈で説明している多くの文献の存在にもかかわらず、国際政治における「アメリカの正義」の問題にしてしまうのか。

「自分の政治的立場を補強する時だけつまみ食いし、しかし気が向かないときは隠ぺいしたりするような態度は、よくない。」(ブログ2017年08月20日)

この自信に満ちあふれた発言からすれば、篠田氏による「つまみ食い」や「隠ぺい」はあり得ないので、別の理由があるのだろう。

なお、篠田氏にあらかじめ言っておくが、本「直言」を読んだ後に、今さら合衆国憲法前文の「Justice」について篠田氏と同じ主張をする学者の文献をどこからか引っ張り出してきても遅い。ここでは、篠田氏が、自身の「解釈」を正しい解釈であるかのごとく一方的に決めつけていることを問題視しているだけである。『ほんとうの憲法』には、詳細な専門論文を並べた引用文献一覧を末尾につけているのだから、「一般読者向けの新書だから省略した」は理由にならない。省略したのなら、その理由について十分に「プロの学者」としての説明責任を果たさなければならない。

《この項続く》

連載第1回:「9条加憲」と立憲主義

連載第2回:「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか

連載第3回(今回):憲法前文とその意義

連載第4回(完):憲法9条をめぐって

補遺:立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』にみるデタラメな主張への論駁

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