「いくらなんでも」政権の終焉へ——首相の「責任」とは
2018年3月26日

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潟県弁護士会の講演(PDFファイル)の帰り、新潟駅で「まさかいくらなんでも寿司」を買って車内で食べた。いくらやカニが入っていておいしかった。新潟といえば、「くびきの押し寿司」を思い出す。ところで、安倍晋三首相の「無知の無知」の突破力に依拠してきたこの政権の綻(ほころ)びもいよいよ本格的なものになってきた。いわゆる「危険水域」と呼ばれる内閣支持率30%割れも近いのか。

先週、それを象徴する「まさか、いくらなんでも」という風景が国会で見られた。一つは3月19日の参議院予算委員会の集中審議でのこと。自民党の和田政宗議員が、太田充・財務省理財局長に対して、民主党政権時代に野田佳彦首相の秘書官だったことを取り上げ、「アベノミクスをつぶすために、安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているんじゃないですか」という仰天の「質問」をしたのである。太田氏は激しく首を振り続け、体を斜めに傾けながら、「私は公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えすることが仕事なので、それを言われるとさすがにいくらなんでも、・・・そんなつもりは全くありません。それはいくらなんでも、それはいくらなんでも・・・ご容赦ください」と顔をしかめて答弁した。「いくらなんでも」という言葉が3回も使われた。局長の背後に控える女性官僚が目をむいて、「ハァッ〜?」という表情をしたのが印象的だった。ちなみに、この質問は、負の記録として残されるべきだが、議事録から削除された。そもそも公務員(civil servant)は「お仕えした方」(政治家)にではなく市民に仕えることが仕事のはずである。与党にも顰蹙をかう質問をした和田議員は、党広報副本部長として、ネトウヨの培養と活用の実質責任者らしく、「陰謀論」と「フェイク」に長けている。だが、それが裏目に出て、安倍擁護の質問にならず、まったく逆効果になったのは皮肉であった。

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「いくらなんでも」のもう一つは、3月1日、文科省が、名古屋市内の公立中学校で開かれた前川喜平・前事務次官の総合学習の授業について、名古屋市教委にメールで15項目の詳細な質問を行ったことである。このメールには、前川氏が天下り問題で辞任したことや、出会い系バーを利用していたことまで書いてあり、「道徳教育が行われる学校にこうした背景のある氏をどのような判断で授業を依頼したのか」などの踏み込んだ質問が並んでいた。メールはまた、授業内容の録音まで提供するよう求めていた。さすがに市教委は録音の提供を拒否した。個々の学校の個別の授業について国が口出しをするというのは「あり得ない」ことであり、『毎日新聞』客員編集委員のコラムのタイトルは「いくら何でも」だった。

15項目の質問内容は執拗で妙に粘着質である(全文はここから)。およそ役人が書いて役所の名前で出すものではなかった。そう思っていたら、半日もしないうちに理由がわかった。メールを出させたのは自民党の赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員だった。赤池議員は党文部科学部会の部会長、池田議員は部会長代理を務めているが、典型的な「安倍チルドレン」として知られる。赤池議員は11年前に私が山梨県弁護士会で講演した際、その後のシンポジウムのパネラーだった(PDFファイル)。普通、こういう場で議論するとき、立場や見解が違っても、相手の意見を聞いてそれなりに議論をかみ合わせようとするものである。自民党の政治家たちともこの30年くらいの間いろいろな場で議論してきたが、さすが政治家だなと思うことはあっても、違和感はなかった。しかし、このときは妙な感覚が残った。「押しつけ憲法論」のような議論を一方的に語るだけで、余裕がない。アレッという印象をもったことを記憶している。その数年後にパネラーとして参加した日本会議系シンポジウムで語る人々にも共通するものを感じた(シンポジウムの詳報その1その2

池田議員はテレビのぶら下がり記者会見で質問は受けずに、一方的に語って去っていった。薄っぺらで紋切り型の右翼思考(思想とはあえていわない)に凝り固まった政治家のタイプである。この自分の内から出ない一方的なしゃべり方には既視感があった。そう、安倍首相の話し方によく似ているのである。前川氏が公立学校で授業をやると聞いて功をあせり、日頃呼びつけている文科省の役人に細かく指示して、あるいは自ら加筆してこういうメールを送ったのだろう。たまたまメールをチェックしたり「添削」したりするというレベルのものではない。本人はよかれと思ってやっているのだろうが、その思い入れが思い込みとなり、思い違いに進化し、壮大なる勘違いとなって迷惑をかけるタイプはままいるが、その典型が安倍首相とそのチルドレンたちであり、さらにその周辺に「いくらなんでも」的な人物の分厚い層が存在する(赤池氏の最近の活躍ぶり)。

教育の分野は非常にデリケートであり、学校や教育内容に対して介入とならないように細心の注意が必要なのだが、彼らには自らが大きな権力をもっているという自覚がない。実に困ったことである。そもそも文科省が学校の個別の授業内容を調査することは認められない。かつての教育勅語教育に対する反省から戦後教育は出発した。地方教育行政についても、学校教育に対して、指導や助言などができるのは教育委員会の仕事である。国は学習指導要領の作成など全国的な基準の設定や、教員給与の一部負担など教育条件の整備が主な役割となる。教育基本法は、国による学校教育への関与を制限してきた。それを突破したのが第一次安倍内閣における教育基本法の「改正」である(直言「これが「不当な支配」なのだ」)。

旧教育基本法10条は、教育行政について「不当な支配に服することなく」という枠をはめ、「不当な支配」の主体として国も想定していた。だが、第一次安倍内閣はそこに「法律の定めるところにより」を入れて、国家統制の回路を広げた(現教育基本法16条)。それでも、個々の授業内容に文科省が介入して、授業の録音の提出まで求めることは、現行の教育基本法16条によっても許されない、まさに「不当な支配」にあたるといえよう。メールで問い合わせただけだというのは認識が甘い。学校現場に萎縮効果を与えるだけで問題なのである。そのことを赤池氏らはまったく自覚していない。文教部会長といっても教育勅語礼賛派なので、安倍政権は末端まで病んでいるのがよくわかる事例である(直言「「教育勅語」に共鳴する政治—「安倍学校」の全国化?」)。

これだけ「いくらなんでも」の状況が続くのも、安倍政権がもともと「美しい国」を前面に押し立てるイデオロギー色が濃いことと無関係ではない。「安倍カラー」(アベ色)という、普通の首相には使わないに形容が行われた結果、この政権のもとでは、行政のさまざまなところに無理が出るのである(直言「「安倍色」に染まる日本」)。森友学園問題についても、日本会議の地方役員を自称していた籠池氏だから起きたといってもいいだろう。一学校法人にここまで中央官庁(財務省や国土交通省)が便宜をはかることはあり得ない。安倍昭恵氏に籠池氏が接近して、安倍首相も一時は支援する気持ちがあったからこそ、周辺が動いたのである。財務省の公文書改竄問題は、佐川前国税庁長官の証人喚問で今週大きく展開する。財務省のホームページで「書き換え」前後の文書が参照できるので、一度クリックすることをおすすめしたい(PDFファイル)。これが、「構造的忖度」と「構造的口利き」による「構造汚職」、最近の言葉で言えば「安倍ゲート」に発展するかどうか。日本の民主主義がいま正念場を迎えている。

3月25日の自民党大会で、安倍首相(党総裁)は、森友学園をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題について、「国民の行政への信頼を揺るがす事態となり、行政の長として責任を痛感している」と陳謝した(『毎日新聞』3月26日付)。ここで問われるのは「責任」という言葉である。首相はどんな責任を感じているのだろうか。直言「安倍首相の「責任」の意味を問う」で書いたように、「四段階責任論」というものがあり、森友学園問題では安倍首相のとるべき責任はその「責任を痛感している」というレベルではなく、内閣総辞職に値するものといわねばならない。その安倍首相が、この党大会で、「憲法改正について結果を出す」として、改憲への意欲を語ったという((『読売新聞』デジタル3月25日)。だが、森友学園問題をはじめとする「安倍ゲート」の中心人物に、およそ憲法改正や制度改革を語る資格があるのか。

そこで思い出すのは戦前における著名なく議会人、斎藤隆夫の演説である。斎藤は、「制度の改革というよりは、むしろこの制度を運用する人である。」と述べ、憲法に基づく政治制度の運用に人を得ていないから問題が起こるのだとして、「国務の統一が取れないというならば、それは制度の罪ではなくして、全く総理大臣その人の罪である」と断言。「不自然なる改革をすることについては、私共は断乎として反対するのであります。」と壇上から演説した。時は「2.26事件」の直後の国会演説である(大橋昭夫『斎藤隆夫:立憲政治家の誕生と軌跡』(明石書店、2013年)271-272頁)。「不自然なる憲法改正」に邁進する安倍首相にも妥当する批判だろう。その安倍首相の憲法に対する態度を見るにつけ、憲法学者・佐々木惣一の100年前の指摘がリアリティをもってくる。

佐々木はいう。「非立憲とは立憲主義の精神に違反することを謂う。違憲は固より非立憲であるが、然しながら、違憲ではなくとも非立憲であると云う場合があり得るのである。然れば苟くも政治家たる者は違憲と非立憲との区別を心得て、其の行動の、啻(ただ)に違憲たらざるのみならず、非立憲ならざるようにせねばならぬ。彼の違憲だ、違憲でないと云う点のみを以て攻撃し、弁護するが如きは、低級政治家の態度である。違憲でなくとも非立憲であることの避くべきは、国務大臣の行動及議会の行動に関して特に注意せねばならぬ。

先ず、国務大臣は、第一義として、自ら責任を明にすることを心がけねばならぬ。これは、前に述べた所の立憲主義から観た大臣責任の意味に徴して勿論であるが、特に弾劾制度の設なき我が国に於ては、一層必要なことであって、大臣が議会の弾劾に依って責任を問われないだけ、それだけ益自ら責任を明かにせねばならぬ。尤も、一般に責任を正するの手段には種々あるが、大臣が自ら責任を明かにするの手段としては、辞職するの外はない。」(佐々木惣一著・石川健治解説『立憲非立憲』(講談社学術文庫、2016年)63頁〔初版は1918年〕)。

憲法を粗末にしてきたこの政権の終末期にあたり、麻生太郎財務大臣は当然のこととして、安倍首相にもこの指摘は妥当する。安倍首相が11年前に国政から唐突に逃亡したとき、私は安倍氏に対して議員辞職を求めた(直言「安倍晋三氏は議員辞職すべし」)。彼はその後急速に「国政復帰」の動きを示し、何と、2012年9月に自民党総裁に返り咲いてしまったのである。その時、党大会で動いた票は10票。議員票でも地方票でも安倍氏は2位だった(議員票では石原氏、地方票では石破氏が1位)。決選投票で安倍108票、石破89票となり、この10票が安倍氏を総裁にして、今日を迎えているのである。10票で「まさかいくらなんでも」という事態が始まったといっていいだろう。

政治に美学を持ち込む怪しい首相のもとで、本当に「美しくない国」になってしまった。外国から見ると、森友学園問題はどう見えるか。「スキャンダルそのものより悪いのは、政府と官僚がスキャンダルを隠蔽しようとしたことだ。だがその隠蔽よりさらに悪いのは、隠蔽に対する国民の反応だ。ほかの国々から見ると、森友問題によって日本社会がどれほど政治に無関心になったかが示されたことになる。」(仏フィガロ紙東京特派員/レジス・アルノー「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ——森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」『週刊東洋経済』2018年3月25日)。最も問われているのは、「いくらなんでも」状態を放置し続ける国民である。

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