歴史改ざん主義に抗して— —映画「否定と肯定」と
2018年5月14日

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勤途上にある「下高井戸シネマ」で2年ほど前、大岡昇平原作の映画『野火』(原作:大岡昇平)をみた。以来、よく利用している。時間がとれない時は、授業と会議の合間に、大学との間を往復したこともある。ここで「ヒトラー」と名のつくものはほとんどみた。『顔のないヒトラーたち』(Im Labyrinth des Schweigens)、『ヒトラーへの285枚の葉書』(Alone in Berlin)、デンマーク映画『ヒトラーの忘れもの』(Under sandet)、ノルウェー映画『ヒトラーに屈しなかった国王』(The King’s Choice)・・・。さすがに『ハイドリヒを撃て!』(Anthropoid)は『ヒトラーの首切り役人』ではなかったが。原題にはない「ヒトラー」をタイトルに入れれば客がくるという判断だろうか。ここで3月に『否定と肯定』(Denial)をみた。ホロコースト(ユダヤ人虐殺)関係の一つという程度の認識で向かったのだが、これがどうして存外おもしろかった。左側の写真は、そこで買った『否定と肯定』のパンフレット(木村草太氏の論評を所収)などである。

アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件という、米国の大学教授とペンギン出版が、ホロコースト否定論者に名誉毀損で訴えられた実際の裁判をモデルにしている。英国の名誉毀損訴訟では被告側が立証責任を負う形になるので、ホロコースト専門家のリップシュタット教授の側が、否定論者のアーヴィングの嘘を立証する必要がある。この映画の最大のポイントは、誰もが「あった」と認めてきた当然の事実を「なかった」と否定する者に対してどう向き合うか、ということである。例えば、アーヴィングは、アウシュヴィッツにガス室が「なかった」証拠として、建物の屋根にチクロンBの注入口がないことを衝いてくる。大衆紙は、「穴がなければ、ホロコーストもない」("no holes, no holocaust")という大見出しで、アーヴィング有利に法廷の様子を報ずる。

怒ったリップシュタットは、ホロコースト専門家として自ら法廷で「あった」ことを主張したい、ホロコースト生還者にも、悲惨な事実が「あった」ことを法廷で証言してもらいたいと法廷弁護士(barrister)に激しく迫る。しかし、弁護士は、リップシュタットに対して、法廷では一切発言しないことを求める。生還者の証言もなしである。弁護士の法廷戦術は、「なかった」というアーヴィングの主張の前提に疑義があることを明らかにし、彼の著作に歪曲があることを指摘しつつ、その主張の信用度を下げ、「なかった」という主張を崩していくというものだ。「あった」のか「なかった」のかの論争にさせないという作戦である。

具体的なやりとりの妙については、6月にDVD発売予定なので直に観てほしい。この映画について言及した『朝日新聞』2018年1月11日付「私の視点」欄の武井彩佳「修正主義の危険性:歴史教育で「悪意」封じよ」の指摘を引用しておこう。武井氏はいう。

「・・・ホロコースト否定のように史実を意図的に矮小化したり、一側面を誇張したりする行為は歴史修正主義と呼ばれる。
・・・一般的に確立した歴史理解に対し、あたかも議論に値する別の解釈が存在するかのように思わせることで、同じ土俵にはい上がることが修正主義者の狙いだ。彼らは史実に反証できないため、発言に立証責任を負う意思はない。
意図的に「言いっ放し」をし、批判されると「個人的な見解」と言い逃れる。それでも声高な主張は、人の心に「火のない所に煙は立たぬ」と認識の揺らぎを呼び起こし、
人々は修正主義の主張にも一定の真実があるかもしれないと考え始める。結果、有罪立証までは無罪という推定無罪の原則で、修正主義は一つの「見解」の地位を手に入れる。
いったん土俵に上がった悪意ある言説は増殖し、社会的な合意を切り崩してゆく。」

まったく同感である。武井氏は、若い世代の歴史認識の欠如について指摘しつつ、次のように続ける。

「・・・日本の若い世代は、現代史教育がタブー視される中で育ち、深く学ぶ機会を与えられていない。政治的な意図はなくても、きちんとした歴史解釈に触れる機会が少ないため、
むしろまっとうな歴史像を「偏っている」と感じるようになっている。危惧すべきは、日本社会にじわじわと広がる、こうした「体験としての修正主義」だ。修正主義を社会が封じ込めることを怠ってきたがゆえに、
「もう一つの歴史解釈」として受け入れる人が増えているのだ。・・・修正主義を封じるのは第一に十分な歴史教育であり、悪意ある言説を許さないという一人ひとりの意思であるべきだ。」

「体験としての修正主義」というのは実にやっかいである。ドイツでも、歴史修正主義の動きが進行している。昨年の総選挙で連邦議会に進出した「ドイツのための選択肢」(AfD)の動きも活発である。最近ではインターネットの動画を利用して、ホロコースト否定の言説を広める高齢女性が注目されている(『東京新聞』1月31日付「大虐殺を否定する89歳」(垣見洋樹ベルリン特派員))。ベルリンの「ホロコースト記念碑」をめぐる複雑な問題状況についてはかつて書いたが、時の経過とともに、自明のような歴史的事実についても「忘れられていく」。私はポーランドのアウシュヴィッツ・ビルケナウをはじめ、ミュンヘン近郊のダッハウ、旧東ドイツ地域のザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、オーストリアのマウトハウゼンなど、ナチスの強制収容所はいくつかまわってきた。ユダヤ人虐殺をめぐる重要方針(「最終解決」)を決めたヴァンゼー会議の現場も訪れたが、どこでも若い世代の人々が真剣に見学して、そこで学んでいる姿を見てきた。武井氏もいうように、日本でも「十分な歴史教育」が求められる所以である。

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起きたことを忘れないようにするための地味な試みとして、「つまずきの石」(Stolpersteine)というのがある。私も偶然、落ち葉の間にそれを発見したときは驚いた。2年前のドイツ在外研究の際、私の住宅の通り一つ先にその家はあった。いつもその前を歩いていたのだが、たまたま歩道の落ち葉の間から光るものが見えた。立ち止まったよく見ると、そこに、「ここに、サラ・アウアーバッハ(1871年生まれ)が住んでいた。1942年にテレージェンシュタット強制収容所に送られ、1943年1月16日に死亡した。」とあった。これが「つまずきの石」である。ホロコースト犠牲者の住居近くの歩道に、96ミリ四方の金属製プレートを埋め込む運動で、1992年に一人の芸術家によって始められた。同様のプレートは昨年7月までの段階で6万1000個にのぼる(『東京新聞』2017年12月6日付(垣見特派員)など参照)。私が見つけたのはその一つだった。

ドイツでは戦後70年を前にして、第二放送(ZDF)が長時間の作品を制作していた。日本での公開タイトルは『ジェネレーション・ウォー』(2013年)。「世代間戦争」といえば、年金問題の映画というイメージだが、原題は「わが母たち、わが父たち」(Unsere Mütter, unsere Väter)である(冒頭の右側の写真)。上映時間は4時間35分。昨年11月に手術で静養中、DVDを購入してじっくりみた。主人公は、ドイツ軍少尉ヴィルヘルム、その弟の文学青年フリードヘルム、野戦病院看護婦シャーロット、ユダヤ人ヴィクトル、その恋人でスター志望のグレタ。ベルリン在住の幼馴染の親友5人が、その年のクリスマスに同じ酒場でまた会おうと約束して、過酷な戦争の現場に向かう。性格も境遇も異なる5人を軸に、東部戦線などでの苛烈な戦闘が描かれていく。大状況ではスターリングラード攻防戦、クルスク大戦車戦などが出てくるが、あくまでも5人の体験がメインのため、戦闘や歴史的事実の大状況ではなく、5人の周辺で起きる出来事として描かれ、歴史に翻弄される個人という視点が強調される。ただ、極限状態で5人が遭遇する確率が高すぎて、違和感も残る。兄(昇格して中尉(字幕は少尉のまま))が懲罰大隊に入れられ、そこの上級曹長(字幕は軍曹)による私怨の対象になる。ここは、今までのドイツの戦争映画では描かれてこなかった。また、東欧占領地の補助警察(Hilfspolizei)(字幕には警察予備隊)の命令・服従の段階構造も、ドイツ映画で描かれるのは珍しい。ドイツでよくぞ取り上げたというのが、ポーランドの反ナチス抵抗勢力(国内軍)のユダヤ人差別・迫害問題である。この描写の結果、この作品は、ポーランド政府から抗議された。

東欧諸国では右派ポピュリズムの政権の支配が広がっている。4月8日のハンガリー総選挙で圧勝して、オルバーン政権の続投が続く。ポーランドの「法と正義」(PiS)政権は、憲法裁判所の人事に介入。その権限を弱めて「権力分立を破壊する「司法改革」」を押し進め(詳しくは、小森田秋夫氏のブログ2017年7月23日参照)、EUの制裁を受けている。そのポーランドの上院で、この2月、第二次世界大戦中にナチスがポーランド国内に設置したユダヤ人強制収容所を「ポーランドの収容所」と表記することを禁止する法律が制定された。「ポーランドの尊厳と歴史の真実を守る」という理由で、ナチスに協力したその過去を隠蔽する動きといえる。

英国BBCによれば、違反者には罰金刑もしくは最長3年の禁錮刑が科せられる。ナチスによるユダヤ人などの大虐殺にポーランドが加担したとの指摘に、ポーランド政府はかねてから反発していた。しかし、ポーランドがナチスに協力したのは事実であり、『ジェネレーション・ウォー』にもポーランドの反ナチスの国内軍の反ユダヤ主義が描かれている。この法律に対しては、欧州各国や米国などから批判的な意見が出ているが、ポーランドのドゥダ大統領は、「ポーランドの利益と尊厳、歴史の真実を守る」権利があると主張し、この法律の正当性を説いた(時事通信2月7日)。

2年前の在外研究中、直言「過去といかに向き合うか、その「光」と「影」(その1)——アルメニア人集団殺害決議」を出した。ドイツ連邦議会が、1915〜16年のアルメニア人集団殺害をめぐる歴史的な決議を挙げたからである。オスマン帝国によるアルメニア人に対する強制移住と集団殺害。「20世紀最初のジェノサイド」とされるこの出来事については、直言「トルコの『90年前の現在』」でも書いた通り、死者の数をめぐって、アルメニア側は100万〜150万人、当時のトルコ政府は約80万人、現在のトルコの公的歴史記述では30万人と、一体何人が死んだのかをめぐって争いがある。日本でも、「南京虐殺」をめぐる数字の対立がある。安倍首相の朝日新聞「誤報」叩きのえげつない言説に接するにつけ、R.ジョルダーノ『第二の罪— ドイツ人であることの重荷』(永井清彦訳、白水社、1990年)を思い出す(直言「歴史的逆走の夏」)。ナチス時代にドイツ人が犯した罪を「第一の罪」とすれば、「第二の罪」とは、戦後において「第一の罪」を心理的に抑圧し、否定することである。そして、「第一の罪」を否定する手法はいずこでも共通していて、「殺されたのは600万ではなかった」とか、「ヒトラーがやったのは悪いことだけじゃない」とか、「他の連中だって罪を犯したのだ。われわれだけじゃない」といった物言いがされる。

安倍政権の権力私物化を象徴する「モリ・カケ・ヤマ・アサ・スパ」事件も、もとはといえば、教育勅語を幼稚園児に朗唱させていた森友学園が、「教育勅語素読・解釈による日本人精神の育成(全教科の要)」を掲げて小学校を発足させようとしたことに始まる。もし、これが普通の小学校だったなら、校地の取得に際して8億円もの値引きがされただろうか。森友学園問題の根底には、安倍政権の特異な性格がよくあらわれている(直言「「教育勅語」に共鳴する政治—「安倍学校」の全国化?」参照)。

いま、アジアの戦後史が大きく動こうとしている。6月12日にシンガポールで米朝首脳会談が開かれる。ハンバーガーが会談の場に出されるだろう。そこに中国の習近平主席が参加する可能性が出ている。朝鮮戦争の全当事者が集まり、戦争の終わりが宣言されるかもしれない。そういうなかで、トランプに完全に梯子をはずされ、カヤの外に置かれた安倍首相の惨めさが際立つ。歴史逆行の政権には退場を求めるのが合理的である。ほかに政権を担えるものがいないという思考停止はもうやめるべきだろう。

さて、いろいろと多忙をきわめるが、『女は二度決断する』と『ゲッベルスと私』が下高井戸にきたら、通勤の帰りに(夜の会議の時は通勤の途中に)行くことにしよう。

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