武蔵野の空襲と防空法——「わろてんか」の「建物疎開」にも触れて
2018年5月28日

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週、東京・武蔵野市で講演した。市の憲法月間記念行事で、松下玲子市長ご自身も最後まで熱心に参加された。私の講演タイトルは「平和と安全保障における市民と自治体——避難を禁じた防空法にも触れて」である。主催者からの依頼に、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所への米軍の空襲についても触れてほしいとあったので、久々に防空法関係の話もした。電車で行くので、重い爆弾や砲弾の実物は持参できないので、今回はドイツ空軍がロンドンに投下した焼夷弾と岐阜県大垣市に投下されたテルミット焼夷弾、それに空襲の警告ビラ(「伝単」)を2枚持参した。

武蔵野市には、住宅地の真ん中に10万平方メートルの不自然に広い「原っぱ公園」がある。都立武蔵野中央公園である。ここに戦前、日本最大の軍需産業、中島飛行機武蔵製作所の西工場があった。ゼロ戦などの軍用機のエンジンを作っていたので、米空軍の最重要爆撃目標となった。1944年11月24日、111機のB29により日本への本格的な空襲がここから始まった。武蔵野への空襲は焼夷弾による絨毯(じゅうたん)爆撃ではなく、破砕爆弾を使った精密爆撃が主だった。武蔵製作所は9回以上も執拗に爆撃され、廃墟となった。工場で働いていた、あるいは動員された人々だけでなく、周辺住民にも多くの死傷者が出た。工場内死者220人、負傷者500人以上、下請け工場や住民の死傷者の正確な数は不明のままといわれている。

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講演の数日後、爆撃の痕跡が残る現場のいくつかをまわってみた。まず、武蔵野市緑町の源正寺。五日市街道沿いにある。墓地の墓石めぐりをした。爆撃や機銃掃射の跡が随所に見られたが、なかでもこの写真にある墓石は衝撃的だった。昭和19年建立と読めるから、真新しい墓石が翌年にはこのように無残な姿になったわけである。墓地内の説明板には、遺族の意志によりそのままの状態にしてあるとあった。

200メートルほど行くと延命寺がある。境内には、周辺に投下された250キロ爆弾の残骸が展示されている。弾頭信管部分がきれいに残る不思議な「破片」である。すぐ横には平和観音菩薩があり、その碑文には、「想えば武蔵野市は(株)中島飛行機武蔵製作所及びその下請工場が数多く在ったため、昭和十九年十一月廿四日、B29による最初の大空襲を受け、尓来翌年八月十五日の終戦まで十数回の爆撃により工場と付近の民家は廃墟と化し、防空壕もろとも一家全滅が続出、その死傷者千数百を数えた。当山も至近弾による甚大な被害を蒙った」とある。

ところで、1945年4月7日の爆撃の際、陸軍調布飛行場から飛び立った三式戦闘機「飛燕」が、B29の1機に体当たりした。B29は空中分解して、調布市国領付近に墜落。その時に地中に食い込んだ1トン爆弾の不発弾が、10年前の2008年5月に発見された。その処理のため、朝から京王線は止められ、半径500メートルが警戒区域に指定され、周辺住民1万6000人に「退去命令」(災害対策基本法63条)が発せられた(直言「「63年前の不発弾」の現場へ」参照)。なお、昨年のドイツ滞在中のフランフルトにおける不発弾処理の体験については、直言「戦後最大の住民避難:フランクフルト」参照。

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ここで、3年前の防空法関係の企画について書いておこう。2015年8月、「戦後70年」で、東京弁護士会が「戦争資料展」を行った。弁護士会館2階「クレオ」には、東弁の弁護士さんたちが私の研究室から運んだ「防空グッズ」の一部が展示された。そこに中学生が招待されて、私が戦前の防空法制について説明した。冒頭右側の写真は、その時に展示した焼夷弾である。防毒マスクや鉄兜防空法関係のマニュアル類、防空法の実施を担った隣組防空群の資料なども展示された。この写真は、私の自宅の塀にできたP51ムスタング戦闘機の機銃掃射の跡である(経緯については、直言「痛みを伴う「塀の穴」の話」参照)。12.7ミリ機関銃弾と並べてある。1945年5月24日、庭で私の大叔父は機銃掃射を受けたが、固い塀にもこんな穴があくのだから、もし彼に当たっていたら、子どもの体などひとたまりもなかっただろう。

武蔵野市や弁護士会で防空法について語ったが、実は、2カ月前の3月21日、NHK連続テレビ小説「わろてんか」の第25週「さらば北村笑店」第142回でも防空法が登場していた。番組では、昭和19年3月、大阪府庁の役人が主人公らのいる南地風鳥亭にやってきて、「空襲による被害拡大を防ぐため、このあたりを取り壊させていただきます」といって、寄席が取り壊されることになった。この日の番組放送後、午前中いっぱい、Yahooリアルタイム検索「話題なう」の上位には、「建物疎開」があがっていた。「「ごちそうさん」で疎開の鬼といわれた悠太郎を思い浮かべるわ」「「建物疎開」って何だ」等々の書き込みが並ぶ。ネットは、究極の「熱しやすく、冷めやすい」の世界で、その日のうちに、「建物疎開」が「話題なう」にのぼることはなくなった。

「建物疎開」という聴き慣れない言葉は何か。1937年に制定された防空法(法律第47号)は、行政が土地・家屋を使用できるのは、防空上「緊急ノ必要」がある場合であって、かつ「一時使用」であると定めていた(9条)。1941年の改正防空法(法律第91号)の5条の5で、「工場其ノ他ノ特殊建築物ノ分散ヲ図ル為」の建築禁止・制限が追加された。米軍の空襲に備えて、1943年の改正防空法(法律第104号)は5条の8を追加。防空上必要な場合、市民の土地や工作物等も収用・使用できるとされたのである。人の疎開(学童疎開、老幼者妊婦等の疎開)に続き、1944年1月から建物の強制疎開が始まり、都市部に防空空地(疎開空地)や空地帯(疎開空地帯)が設けられていく(「退去を認めず——国家優先思想の極致」参照)。建物の除却には移転補償の給付がなされたが、実際は微々たるものだった。NHK連続テレビ小説で知られるようになった「建物疎開」とはこういうものだった。

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ところで、NHKの連ドラでは、防空法が何度か登場した。2014年の「ごちそうさん」と「花子とアン」である。避難せず、現場にとどまって焼夷弾を消すことを義務づけた防空法8条の3。それがいかに機能したかは大前治氏との共著『検証 防空法』(法律文化社)で論じたが、直言「NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」と防空法」)、半年後の直言「NHK連ドラ「花子とアン」と防空法—大阪空襲訴訟最高裁決定にも触れて」をこの機会にお読みいただければ幸いである。

さて、先週、5月25日は都心最後の大規模空襲といわれる「山の手空襲」の73周年だった。渋谷の表参道が焼け野原になり、3242人が亡くなった(『東京新聞』5月25日付「東京の空襲」(山の手空襲73年)参照)。米空軍は6月15日の大阪・尼崎空襲をもって大都市空襲を「完了」し、同17日の大牟田、浜松、四日市、鹿児島の空襲から、まともな軍事目標のない中小都市への空襲を開始する。それは、ポツダム宣言受諾を決めたあとの8月14日夜から15日未明にかけて行われた秋田県・土崎空襲まで続く。なぜ、ここまで執拗な空襲を行ったのか。これは軍事的理由だけでは説明がつかない。NHKスペシャル「そして日本は焦土になった—都市爆撃の真実」(2005年8月11日放映)が先駆的に描き出したように、空軍上層部の方針の対立(特にカーチス・ルメイ将軍の手法)、新しいB29と新型焼夷弾が完成して空軍に納入されたため、予算消化の関係上、これらを使わないで戦争を終えることができなかったという生臭い事情なども背景にあった。政治的、官僚的発想から多くの市民の命が奪われていったのである。一方、日本側は体面にこだわり、防空法によって人々の避難を禁じ続けていた(拙稿「人貴キカ、物貴キカ——防空法制から診る戦前の国家と社会」(立命館大学)参照)。まさに、日米双方の「凡庸な悪」によって、多大の犠牲が生まれたのである。

武蔵野市の平和観音菩薩の碑文にこうある。「痛ましい戦争の悲惨と恐怖と罪悪を常に想起して、平和に対する努力を怠ってはなりません」と。

なお、私の防空法制研究については、20年前からホームページに収録してあるので、この機会に参照されたい。

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