デンマーク系少数派住民の政党(SSW)と5%条項—北ドイツ・デンマークの旅 (その3)
2018年10月29日

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週も大きな出来事が続いた。安倍首相は10月23日の日中平和友好条約発効40周年の日に、天皇・皇后不参加のもと、「明治維新150年」記念式典を開催した。2013年4月28日に「主権回復の日」式典をやって沖縄県民を激怒させたこの首相は、今度は「戊辰150周年」にこだわり続ける福島や東北の人々を怒らせた。ここでも、また、安倍晋三的な思いと思い入れが、思い込み、思い違いへ、さらには壮大なる勘違いへと発展し、各方面に迷惑を拡散している。24日に臨時国会が召集され、安倍首相は所信表明演説を行った。「長さゆえの慢心はないか」と一瞬引きながら、「その長さこそが力である」とおおらかに居直り、自ら任期を延長して政権に居すわった最初の首相としての「慢心」全開である。改憲発議に向けて「条文案 今国会提示に意欲」(『東京新聞』10月25日付見出し)と、手段を選ばない「自爆改憲」モードに突入したかのようである。この日、シリアで3年4カ月拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが解放された。ネットではまたぞろ「自己責任論」の嵐が吹き荒れはじめている。14年前のイラク人質事件(直言「自己責任と無責任」参照)や、3年前の人質殺害事件(直言「安倍首相の「責任」の意味を問う—人質殺害事件」参照)に続いて、この国の奇妙な「空気」の根強さを感じさせる。これらについてはまた別に論じたい。

さて、先週に引き続き、「北ドイツ・デンマークの旅」(サブタイトル改題)連載第3回をアップする。今回は、日本における「外国人の地方参政権」の議論にも関連するドイツ北部の事例について書く。

8月20日にハンブルク空港からレンタカーでシュヴェリーンなどの北ドイツの都市をまわってからデンマークに向かった。国境地帯は少し渋滞していた。ドイツ側からデンマークに入るときだけ検問があり、逆方向にはない。昨年8月のオーストリア・ハンガリー国境を思い出した。難民の規制など、国境管理が厳しくなりつつある。

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デンマーク最大の島、フュン島のほぼ中央にあるオーデンセ(Odense)には、アンデルセンが子ども時代を過ごした家がある。小さな木枠の家で、気づかずに通りすぎてしまった。広い敷地のアンデルセン公園などもあって、アンデルセンの物語に関連した建物や人形などがある。夕方近くになり、フィヨルドのあるコリング(Kolding)に着く。真夏でも肌寒いフィヨルドにかかる虹は絶景だった(冒頭右の写真)。翌日、ユトランド半島南西部に位置するデンマーク最古の町、リーベ(Ribe)に1泊した。中心部にあるリーベ大聖堂は約900年の歴史をもつ。52メートルの塔からこの小さな街を一望できる。夏とはいえ、北海からの風は冷たい。ヴァイキング博物館では、海賊のイメージとはかなり距離のある実際の生活を知ることができた。

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デンマーク国境の街、フレンスブルク市に向かう。ここに2泊して、地域政党、南シュレスヴィヒ選挙人同盟(Südschleswigscher Wählerverband: 以下、SSWという)を取材した。日本からアポをとっておいたので、指定された日時に、フレンスブルク中心部にある党本部を訪ねた。商店街の一角にあるビルにあり、手前はデンマーク文化センターのような機能をもったコーナーで、奥の方に党の事務所がある。SSWは、南シュレスヴィヒ地方のデンマーク系少数派住民や北フリースラントの住民を基盤とする地域政党である。幹事長のマルティン・ロレンツェン氏が満面の笑顔で迎えてくれた。この党の歴史や活動に関する資料を次々に出してきてくれた。

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幹事長が示す地図(写真左)をみると、フレンスブルクのある南シュレスヴィヒ地方は、ドイツ北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最北部に位置する。なぜ「南」なのかというと、北シュレスヴィヒ地方はデンマークにあるからである。つまり、国境線で南北に分かれている。党名にある「南」(Süd)というのが、複雑な歴史的事情を示唆していた。高校の世界史教科書にも出てきて、大学受験にも出題される1864年のデンマーク戦争。プロイセン・オーストリア連合軍とデンマーク王国との間の、シュレスヴィヒ=ホルシュタインをめぐる戦争である。南部シュレスヴィヒはドイツ系住民が多数派で、ドイツへの併合を求めて暴動を起こす。これを支援すべく、プロイセン軍は、オーストリア軍とともにデンマークに侵攻して勝利する。そういえば、フレンスブルクに入る前日、近隣のザンケルマーク湖畔の宿に泊まったが、近くに、この戦争で死んだオーストリア軍兵士の記念碑があった。この地域が複雑な事情をもつことがよくわかった。住民投票という民主的な多数決の結果、それぞれに少数派が誕生した事情も現場で知った。

1920年、ドイツとデンマークの国境を決めるための住民投票が行われ、南北シュレスヴィヒのうち、北部の人々の多くがデンマークを選択し、南部の住民の多くがドイツに残ることを選択した結果、南北シュレスヴィヒは分断された。現在も、デンマーク南部にはデンマーク国籍のドイツ系住民が生活し、フレンスブルクを中心とする南シュレスヴィヒ地方にはデンマーク系住民が生活するという構図が生まれた。第二次大戦後、デンマーク系少数派は著しく差別された。そこで、1948年にSSWが創設されて、デンマーク系住民の権利を守る活動を開始した。だが、キリスト教民主同盟(CDU)の州政府は1951年、選挙法の5%条項(第2投票〔政党名での投票〕で得票が5%に満たない政党には、議席の比例配分が受けられないという「阻止条項」)のハードルを高め、7.5%条項に変更して、SSWが州議会から排除しようとした。この7.5%条項についてSSWは直ちに連邦憲法裁判所に提訴した。憲法裁判所は1952年に憲法違反の判決を出した。だが、SSWは1954年の州議会選挙で4万2000票(3.5%)を獲得したが、5%条項のハードルを超えることはできなかった。

1955年3月、H.C.ハンセン・デンマーク首相がボン(当時の西ドイツの首都)を訪問したおり、デンマーク系とドイツ系の少数派住民の権利に関する交渉が行われた。K.アデナウアー首相が積極的に動き、両首脳が署名した「ボン・コペンハーゲン宣言」が誕生した。この宣言は、デンマークのドイツ系住民と、ドイツのデンマーク系住民について、それぞれの言語や文化を尊重することに加え、政治参加についての障害を除去することがうたわれていた。

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州議会は1955年5月23日に、デンマーク系住民について、州選挙法3条1項(5%条項)の適用を除外することを決定した。1958年の州議会選挙以降、SSWは1議席をキープし続けている。2012年の選挙では6万1000票を獲得。得票率4.6%で3議席を獲得した(Vgl. Privileg oder Nachteilsausgleich?, Der SWW und die 5%-Hürde)。2017年の州議会選挙でも3議席を獲得したが、得票率は3.3%だった。

なお、9年前の「直言」で5%条項を解説するなかで、SSWのことも紹介している(直言「ドイツの「政権交代」」)。すなわち「地方レベル、例えば北部のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州選挙法は、デンマーク系住民の政党(SSW)の存在を想定して、小選挙区で1議席でも得られれば議席配分を受けられるようにしている。この州におけるデンマーク系住民の「民意の反映」を考慮したものである」と。ただ、この時は、小選挙区での1議席としか書いておらず、第2投票の比例配分のところで5%条項が適用除外になっていることには触れられていない。今回、この点に関して、州憲法裁判所の判決があることを知った。

ロレンツェン幹事長は、SSWの活動の意義を語りつつ、私が憲法研究者であることから、思いついたようパソコンのファイルを開き、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州憲法裁判所の2013年9月13日判決をプリントアウトしてくれた(Urteil des Schleswig-Holsteinischen Landesverfassungsgerichts vom 13.9.2013-LVerfG 9/12)。

本件は、キリスト教民主同盟(CDU)の党員が、2012年5月の州議会選挙において5%に達しなかったSSWへの3議席配分に対して、州議会への異議申立てが退けられるや、今度は選挙審査を州憲法裁判所に申し立てていたものである。裁判所はこの訴えを棄却した。判決は全文58頁あるが、この判決によって、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州にはデンマーク系少数派が存在することが認定され、SSWがデンマーク系住民の政党であること、SSWは州全体において選挙活動が許されることが確認されたあと、ボン・コペンハーゲン宣言は法的拘束力があること、デンマーク系少数派住民の政党が5%阻止条項の適用除外となることが憲法上容認されるとされた。判決は、5%条項自体は選挙の平等と政党の機会均等を侵害しないとしつつ、デンマーク系少数派住民の政党が5%条項の適用を免れることは、選挙の平等と政党の機会均等に関わるが、しかし、デンマーク系少数派の政治参加に対する州の保護義務によって正当化され、かつ比例原則にも抵触しないとしている。うれしそうに判決の当該部分をパソコン上で示していたので、幹事長がこの判決をとても重視していることがよくわかった。

この党の政策的な特徴は、保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党の中間に位置しつつも、環境や福祉などでは緑の党にも近い。この政党の最新の政治方針・政策大綱をまとめた「ハリスレー綱領」(2016年)を見ると、ドイツ語、デンマーク語、北フリジア語の3言語で書いてある。北フリジア語はドイツの北フリースラント地方の少数言語(約1万人)。14項目からなり、少数言語の住民に対するさまざまな差別の撤廃や、社会福祉、家族、複数言語の教育、文化などについて少数派住民の利益に沿ったきめ細かい政策を打ち出すとともに、地球環境や自然・エネルギーや移民政策などにも積極的な姿勢を示している。 (SSW—für uns im Norden. Das Harrisleer Rahmenprogramm, Beschlossen auf dem außerordentlichen Parteitag am 16.04.2016 im Hotel des Nordens in Harrislee, S.6-28)。

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1時間ほどのやりとりのあと、その日16時から開かれるSSW創立70周年記念大会の会場で再会することを約束してわかれた。私はアポの際に大会への招待を受けるとメールしていた。いったんホテルに戻ってから、フレンスブルクの南東36キロのジュートブラルップにあるデンマーク交流センターに向かった。田舎道が延々と続き、途中交通事故で道路が閉鎖になったため、ナビを頼りに会場に向かった。農家が数軒ならぶ道を右折して、これはナビが間違ったかなと思った瞬間、正面にデンマークの国旗がひるがえっていた。本当に農村ばかりの村のど真ん中にその建物はあった。車を駐車場に置いて会場に向かうと、すでに大会は始まっていた。会場は満席で、廊下に予備の椅子が出され、私もそこに座るようにいわれた。演説は主にデンマーク語だったので、理解できない。途中から、若い女性がゆっくり目のドイツ語でスピーチしたので、これは理解できた。若い世代はドイツ語が中心のようである。

幹事長が私を見つけて、いま、市町村議会選挙にどう取り組むかについて議論していると教えてくれた。現在、SSWは70市町村議会に200議席、3つの郡議会で計13議席、キール市議会2、フレンスブルク市議会に8議席をもつ。休憩時間に、議長で、州議会議員のフレミング・マイヤー氏を紹介された(写真左側の男性、右側はロレンツェン幹事長)。私が日本のWikipediaの「南シュレスヴィヒ選挙人同盟」の部分をプリントアウトして持参したので、そこの記述をマイヤー議長に見せて説明した。「2012年の州議会選挙においては3議席を確保し、22議席のSPD、10議席の緑の党と合わせて35議席で連立与党を形成した。三党のシンボルカラーである赤、緑、青にちなんで「デンマークシグナル」と呼ばれている。SSWが州政治を担当するのは初めてで、法務・欧州・文化担当大臣として女性のアンケ・スポーレンドンク(Anke Spoorendonk)が出ている」と。日本でこう紹介されているというと、突然、マイヤー議長が「違う、いまは野党だ」といって、連立政権からはとっくに離脱したと胸をはった。そして、私の肩を押して、私の真後ろに立っていた年輩の女性に私を引き合わせた。それが、法務大臣をやったスポーレンドンク女史だった。

大会はSSW創設70周年ということで、それまで70年間の選挙ポスターが廊下に貼られていた。冒頭の左側の写真は、そこでもらったポスターや資料である。なお、この党の歴史について詳しくは、Vgl. SSW: Die politische Geschichte der dänischen Minderheit 1945-2015, Flensburg 2015, S.1-124.

ドイツの選挙制度にもさまざまな矛盾や不都合が生まれている(直言「選挙法は憲法違反」)。私はロレンツェン幹事長に、5%条項の歴史的使命は終えたのではないか、と述べた。彼は賛成しなかった。「ヴァイマルの教訓」をそのまま唱えたので、ちょっと驚いた。彼は他の少数政党にも政治参加の道を開くことについては賛成ではないようだった。でも、実際の選挙で、極右に親和的な「ドイツのための選択肢」(AfD)が全国的な世論調査で20%近い支持を受け、バイエルン州議会でも、昨日のヘッセン州議会でも多くの議席を獲得している。5%未満の少数政党の得票を除いて、民意を人為的に操作した上で議席の比例配分を行うこの制度に疑問がないわけではない。連邦憲法裁判所や前述の州憲法裁判所が自明の前提のようにいう「議会の機能性(Funktionsfähigkeit)」の確保。これが、5%に満たない政党への議席配分をゼロにすることの正当化事由となるのかどうか、再検討の必要はないだろうか。

最後に、話は前後するが、フレンスブルクの党本部で、ロレンツェン幹事長に初対面の挨拶をした時の話を書いておこう。一地域政党の本部に、日本人の私がなぜ訪ねてきたのか、彼は当初は怪訝そうな顔をしていた。そこで、私はこう話した。トランプと金正恩の会談によって、東アジアの状況が大きく変わる可能性がある。いま、日本には約48万人の在日韓国・朝鮮の人々が生活している。彼らには選挙権がない。将来、朝鮮半島に統一国家ができた場合、これらの人々が生活している日本で、政治参加の道を開くにはどうしたらいいか。ドイツとデンマークの経験はヒントになるのではないか、と。幹事長の顔は変わるのがわかった。

デンマークとドイツの関係の問題は、当然、日本と韓国・朝鮮との関係に直ちにはあてはまらない。しかし、現実に生活している少数派住民の政治参加の回路を拡大していくためにも、ドイツのこの州の経験は参考になると思うのである。

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