激動のイスラエルとパレスチナを行く——ゼミ生の取材記(1)
2019年5月27日

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5月25日から28日まで、トランプが日本に滞在し、「令和」になって、天皇が会う初の国賓になる。安倍晋三首相は、ゴルフと大相撲観戦をセットして、徹底した「おもてなし」でトランプに媚びる。だが、この接待と忖度がことごとく裏目に出て、日米の貿易問題をめぐってもトランプが豹変して、すさまじい対日圧力をかけてくる可能性大である。これについては、本稿執筆時点(5月25日午前)ではこれ以上触れないでおこう。

それよりも何よりも、トランプがこの間やってきたことを見れば、さまざまな国際的な合意や取り決めなどをことごとく「ぶっこわしてきた」という事実がある。地球温暖化対策のパリ協定からの離脱(2017年6月)。米英独仏中ロとイランの間で結ばれた「イラン核合意」から離脱(2018年5月)。このところ、イランの軍事的脅威を煽り、空母機動部隊を中東に移動させている。これには既視感がある。私はイラク戦争後、2007年1月の直言「イラクからイランへ」を書いて、当時のブッシュ政権が「大統領任期終了前に、イランのレジーム・チェンジ(体制転換)をやると確信している」という米政府高官の言葉を紹介している。イランに対して軍事行動を起こすことは、トランプの発想というよりも、米国の一貫した「課題」であり続けていた。それをトランプは一気呵成に押し進めている。2019年2月には、ロシアとの間で締結している中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を表明し、核軍拡の方向に舵を切った。

日本人はあまり自覚していないし、忘れてしまった人も少なくないと思うが、しかし、中東の状況を悪化させるおそろしいことを実はトランプはやっていた。その象徴的な出来事が、エルサレムへの米国大使館の移転である。私は昨年1月の直言「歴史的退歩のトランプ政権1年——「100%支持」の安倍首相」でこう書いた。

「2017年12月、トランプは「エルサレムをイスラエルの首都と認定する」と宣言した。中東和平の紙一重の状況を考えれば、ありえない暴挙である。国連安保理でその撤回を求める決議案が採決される事態となった(12月18日)。米国以外の14カ国が賛成したが、米国が拒否権を発動した。思えば、2001年の「9.11」直後に「テロに対する戦争」を「十字軍」と言ってしまったブッシュ大統領(当時)と同様に、宗教的な対立に発展する最もデリケートな問題を平気で蹴散らしていくのがトランプである。」と。

トランプの暴走は続く。今年3月、イスラエルが占領しているゴラン高原について、「イスラエルの主権を全面的に認める時が来た」とツイッターに書いた。イスラエルは1967年の第3次中東戦争でシリアからゴラン高原を奪い、1981年に併合すると発表したが、米国の歴代政権を含めて、国際社会はこれを認めていない。いま、中東はどこで、何が勃発するかわからない、きわめて危険な火薬庫になりつつある。その際、注目すべきは、イスラエルの変化である。この4月9日のイスラエルの総選挙で、ネタニヤフ首相率いるリクードが第一党になったが、問題は有権者の8割以上が中道右派から極右までの「右翼ブロック」に投票して、イスラエルが大きく「右傾化」したことである。親イスラエルの福音派を意識したトランプが、大統領選挙を前にして、派手な政策を展開する可能性が高まっている。パレスチナの状況はさらに悪化するだろう。

そのイスラエルとパレスチナを、昨年12月下旬、私のゼミ22期生のマハール有仁州君が訪れ、そこで撮影した写真や取材録を使って、1月10日のゼミで「現存するアパルトヘイト国家に立ち向かう」というタイトルで報告した。彼を班長にした発表班は、パレスチナ問題の歴史的展開から、マハール君の現地取材、米国の中東政策、日本の役割まで詳細なレジュメを準備して、それをもとに3時間討論した。私も大変勉強になった。

マハール君は日本人の母とパキスタン人の父をもつ。幼少期からパキスタンにも住み、独特のバックグラウンドから、複雑な民族や宗教の問題を身近に感じてきた。パキスタンでは変わった日本人として扱われ、顔つきが日本で多い顔つきとはかけ離れていることから、日本では常に外国人扱いされてきたという。

紹介したいエピソードやデータ、写真などがたくさんあるが、この「直言」のために短くまとめてもらった。読者の皆さんには、ゼミ生が見たイスラエルとパレスチナのいまを知っていただきたいと思う。今回と来週、2回にわたって連載する。

ユダヤ人、悲願の国家——イスラエル初訪問

           

マハール有仁州(法学部4年、水島ゼミ22期)

問題意識の芽生え

 

私が、パレスチナ問題に興味と関心を持ち始めたのは小学生の頃だった。当時、パキスタンに住んでいた私は、夕食時にローカルテレビのニュースを見ていた。そこで、ガザ侵攻の映像を目にして、パレスチナ問題をその時初めて知った。一緒に住んでいた従兄弟たちは、テレビに向かって、「ユダヤ人は侵略者だ!イスラエルは絶対に許せない!」といったイスラエル敵視の発言を繰り返していた。小学生の何も知らなかった私は、その時は彼らになんとなく同調していた。

そして、中学生の時に『アンネの日記』を読み、ユダヤ人に苦難の歴史があることを知り、興味を持つようになった。『戦場のピアニスト』『シンドラーのリスト』『アンネの日記』などの映画を観て一層関心がたかまった。中学2年生の時、母親とポーランド旅行をして、アウシュビッツにも連れて行ってもらった。第二次世界大戦当時、ユダヤ人に対する凄惨なホロコーストがあった事実をリアルに実感し、とても胸が痛かった。ちょうど、イスラエルの中高生が研修旅行か何かでアウシュビッツを訪れていた。彼らは自分の祖先の悲痛な過去を悲しみ、イスラエルの国旗を身にまとって涙を流していた。彼らの曾祖父母にあたる人たちがナチスによって迫害を受けたことを悲しんでいるが、たった今、彼らが住んでいるのであろう場所から数キロ先で、自分たちの国がパレスチナ人に対して暴虐非道なことをしているではないかと、私は複雑な気持ちになった。暴力の連鎖が未だに続いていることを憂い、悲しかった。

その体験があってから、私はイスラエル人に対して不信感に似た感情を抱いてきた。でも、大学に入学し、一人で世界を旅するようになってから、何度かイスラエル人に出会う機会があった。特に北京で出会ったイスラエルの青年ヨハイは、私がパキスタン人とのハーフであるのにもかかわらず、普通に接してくれた。彼と意気投合し、一緒に寝台列車でウランバートル(モンゴルの首都)まで行き、非常に親しい関係になった。その時にヨハイから今のイスラエルやユダヤ教徒の話を聞き、想像していたものとかなり違ったことに驚いたのだ。今のイスラエルの若者は、以前私が想像していたイスラエル人像とかけ離れていた。なぜ彼のような優しい人間がイスラエルにはいるのに、パレスチナ人に対して残酷なことをするのだろうかと疑問に思った。

こうした問題意識から渡航を決意したが、そもそも憲法ゼミでの研究でなぜパレスチナ問題なのか、と思われるかもしれない。だが、パレスチナ問題を考察することは憲法ゼミ生の自分にとっても非常に有意義だと考えたのだ。パレスチナ問題は現代の国民国家下で醸成される不寛容の精神が最悪な形で発露した結果なのではないかと思うからだ。

この問題を考えるにつき、国家、宗教、民族とは何かという難問で頭を悩ませてきた。少し自分自身の話をすると、私は基本的に日本で育ってきたが、周りの日本人とは異なる名前、顔つき、父親を持っており、宗教も違い、疎外感を感じることがあった。なぜ自分の名前はカタカナなのか、なぜ人よりも顔が濃いのか、なぜ一人だけ給食の献立で豚肉が出たとき母親が作ってくれた代わりとなるものを食べているのか。特に小学生の時はこれが原因で仲間外れにされる経験もあった。自虐キャラを演じて自分を取り繕うことで、周りから一目置かれ人気者になることができたわけだが、当時は結構悩んだ。幼い時から人と背景が異なる自分は人一倍この難問とぶつかってきたつもりだ。そんな自分が、パレスチナに行くことでさらに考えを巡らせることができるのではないかと思い、日本を飛び立った。

滞在中、たくさんの方に取材をさせていただいたが、ゼミ内の発表のみに使い、他には公表しないという前提でお話をしていただいた。このレポートでも、取材の詳細をお伝えすることができない点はご了承ください。

まず、入国の際、テルアビブ・ベングリオン国際空港に降り立った。入国審査官は、私の親がパキスタン人であること、パスポートにイランやイラクといったイスラエルの敵対国のスタンプがあったため、別室で事情を聞かれた。パキスタンやその他の国よりも、殊更にイランのことを執拗に質問された。イスラエルの外交姿勢を肌で実感した。待合室では40代の男性が「俺は人間なんだ!トイレにくらい行かせてくれ!」と叫び、当局の人間は「担当の者がくるまで待ってくれ」となだめていた。その男性はアラブ系のイギリス人だったらしいが、「こいつらは非人間的な扱いをしてくる。もう半日も待たされている。お前も気をつけろ。」と私に愚痴ってきた。結局自分の場合は到着から入国まで4時間半かかった。その際生まれて初めて入国審査の時にパンをもらった(笑)

なんとか入国できた後、イスラエルの国際法上の首都テルアビブに向かった。その旧市街ヤーファは長い歴史を有しており、地中海に面したその美しい街並みに魅了された。人々が文化的な生活を送っており、先進的で多様性に富み、平和な雰囲気に包まれたこの街は、自分の想像していたイスラエル=危険地域というステレオタイプを破壊してくれた。

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三宗教の聖地で見た混沌

次に、エルサレムに向かった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいわゆるアブラハム一神教の聖地がある。旧市街を歩くことでエルサレムが3宗教の信徒にとって非常に重要な場所であることが分かる。まず、イスラム教の聖地、アル=アクサモスクを訪ねた。原則ムスリムにしか入域が認められておらず、やはりアラブ人に見られない自分は警備の軍人に止められた。自分がムスリムであることを主張すると、コーランの開譚章を読まされた。読み切ったとき、その軍人は嬉しそうにしていた。彼らはもちろん軍人だが、イスラエルの徴兵対象はユダヤ教徒とイスラム教ドゥルーズ派のみだ。おそらく「ムスリムの日本人がコーランを読んだ!」というので喜んでいたことから、ドゥルーズ派なのだろうと推測できる。ドゥルーズ派は他のイスラーム諸派の教義が異なる点が多く異端視されているが、ユダヤ教徒には「血の契約」を結んだ宗派であることから好意的に受け入れられており、兵役の義務を負わされている。ユダヤの味方には武器を持たせる、というイスラエル国籍を有していても兵役義務の存否を宗教によって区別するイスラエルの歪んだ安全保障の手法の現場に出くわした瞬間だった。

ユダヤ教の聖地、嘆きの壁に向かう。セキュリティを通過し、テレビや本でなんども見たあの嘆きの壁を目の前にして、高揚感を抑えられなかった。キッパを被り壁に近づいた。老いも若きも多くのユダヤ教徒が熱心に祈りを捧げていた。ここで、宗教的感情が高まったのか、若者たちが輪になって歌っている光景を見た。イスラエルの名を何度も入れていることは理解できた。彼らはおそらくイスラエルで育ち、エルサレムがイスラエルの首都であることを幼いころから教育され続けてきたはずだ。そして彼らにとってはエルサレムがイスラエル以外の国のものになることは考えられないことなのだろう。

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最後に、キリスト教徒の聖地にも向かった。イエスが歩んだ苦難の道を歩いた。実際にイエスがここを歩いた、ここで倒れた、というまさにその場所を見ると、イエスが存在したことが決して空想上のできごとではなく、史実に基づいていることを実感できる。生墳墓協会では、宗教的興奮から、号泣したり上の空になったり、いわゆるエルサレム症候群の信者たちがいた。エルサレム問題を含むパレスチナ問題はよく「ユダヤ人とパレスチナ人の宗教対立」と形容されるが、ヴィア・ドロローサを歩くことでその表現ではキリスト教徒の存在が抜け落ちているように思われた。この認識が誤りであることに気付かされた。

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分断

三宗教の聖地であり多様性に満ちたエルサレムだが、自分の滞在中にも分断の顕在化が見られる出来事がいくつかあった。

エルサレムは東西に分かれており、東エルサレムはパレスチナ自治政府の首都、西エルサレムはイスラエルの首都、というのが国際的な認識である。だが事実として東西エルサレムともイスラエルの支配下にある。そして西エルサレムにはユダヤ人、東エルサレムにはパレスチナ人が多い。自分が泊まっていた宿は西エルサレムにあったが、国連関係者やNGO関係者の方々に会うために東エルサレムに行った。エルサレムには東西をまたぐ路面電車があるが、東エルサレムに入ると警官が乗車し何人かに職務質問をする光景を見た。さらに東西エルサレムではインフラ整備や生活水準の面でも格差があるように感じた。西エルサレムは、街並みや人々の生活水準が非常に高く、西欧諸国に見違えるほどだ。一方、東エルサレム土産物屋の店主は必死に私に売り物を勧めてくる。本当にお金に困窮しているようだ。

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この国には法的なものにせよ、そうでないにせよ差別構造がある。イスラエル国籍を持っていたとしてもパレスチナ人には先述のように兵役の義務がなかったり、銃携帯の権利を認めていなかったりする。実際に自分の滞在中にも私服のユダヤ人が街中でとても護身用とは思えないほど大きな銃を携帯しており度肝を抜かれた。他にも昨年国会を通過したユダヤ国民国家法により事実上パレスチナ人が2級市民的地位にあることが法的に定められた。こうしたユダヤ人による対パレスチナ人差別だけではなく、ユダヤ人同士の差別も存在する。先祖のディアスポラ(離散)先によって差別を受けたり、ユダヤ教徒の宗派によって兵役の義務の有無が違ったりなど法的待遇が異なる。これについてたまたま取材中に国際協力機関の方のお宅にお邪魔させていただいたときに面白いものを見ることができた。それは、クラクションの音で、何事からとそのお宅の窓から外を見ると、ちょうど安息日が終わろうとする時間帯で、超正統派ユダヤ教徒がシナゴーグに向かう途中に、安息日を守らない世俗派ユダヤ教徒が運転する車の前に立ちはだかったりして、通行を妨害しているところだった。運転は労働にあたるので安息日にはしてはいけないというわけだ。ユダヤ人同士の間の軋轢を象徴する出来事だった。

この国の国会議事堂にも足を運んでみた。(冒頭右下の写真参照)イスラエルの国会はクネセトと呼ばれる。一院制で選挙の際に政党名のみを記入する比例代表制だ。国会が開いていない曜日に英語で無料ツアーがあったため内部を見学できた。ツアーガイドはイスラエルの共和制のシステムやクネセト内部のいくつかの個所の説明をしてくれた。ここで違和感を覚えたのが、シャガールの壁画について説明だ。彼は「私たちは2度の戦争を経てもエルサレムにアクセスできなかったけど、第3次中東戦争でアラブ人に勝利しエルサレムへのアクセス権を得ることができました!それを描いた壁画です!」と、誇らしげに一片の悪気もなく語った。こうした壁画が一国の国会議事堂内にあること自体、かなり歪んだ思想を基に国家が成立していることを現しており、このことから、そもそもこの国家の正当性の根拠はアラブ人を排除することにあるのではないかということを思わせる。

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すでにイスラエル領内だけでもこの国がはらむ諸問題に触れてきた。この根本的な問題を考えるにつき、「シオニズム」が重要なテーマになってくるのではないかと思った。イスラエルという国が成立する過程には近代ナショナリズムの思想が密接に関連している。即ち、シオニズムという排外的植民地主義的思想が国家の根幹にある。それがクネセトの壁画や嘆きの壁の前で歌う若者たちのような形で発露していたのではないか。

次回はパレスチナ暫定自治区内に入って、この仮説をさらに検証していく(直言「激動のイスラエルとパレスチナを行く——ゼミ生の取材記(2–完)」)。

(この項続く)

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