過去の歴史といかに向き合うか――第二次世界大戦開戦80周年と「満州事変」88周年
2019年9月16日

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年は世界史的な出来事の節目が多い年である(直言「末尾「9」の年には変動が起きる――2019年の年頭にあたって」)。9月1日は、第二次世界大戦の開戦80周年だった。

1939年9月1日午前4時40分、ポーランド中部の町ビエルン(Wieluń)に対して、ドイツ空軍のJu 87 シュトゥーカ急降下爆撃機が初の空襲を行い、住民1200人が死亡した。うち32人は、屋根に赤十字のマークを大書きした病院の患者たちだった。この第二次世界大戦最初の空襲被害を受けた町ビエルンで、1日、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー(Frank-Walter Steinmeier)連邦大統領(40年前の大学院生時代に会った)も参加して、式典が行われた。空襲開始時刻の午前4時40分という早朝の時間帯に始められ、まだ暗いなか、まず会場前の建物の壁に、アニメーション映像が映し出された。当時の町の日常生活から始まり、突然、Ju 87の爆撃で町が破壊されていく様がリアルである。

シュタインマイヤーは、この町への急降下爆撃で始まったその後の6年間の戦争を振り返りつつ、トーマス・マンの「ドイツ人として生まれたら、ドイツとドイツの罪に対処しなければならない」という言葉を引いて、過去に対するドイツの責任を強調した。「ビエルンに対する攻撃の犠牲となった方々、そしてドイツの暴力支配の犠牲となったポーランドの方々の前で私は頭を下げ、赦しを請う」という部分は、ドイツ語とポーランド語で述べた。「赦しを請う」(I proszę o przebaczenie)という言葉に対して、広場に集まった市民から拍手がわいた(Süddeutsche Zeitung vom 1.9.2019 Degitalなど参照)。

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アンジェイ・ドゥダ大統領は、シュタインマイヤーに対して、「あなたがここにいることが重要だ」と語りかけ、ドイツの国家元首が初めてこの象徴的な町を訪問したことを高く評価した。シュタインマイヤー大統領は、空襲で生き残った90歳の女性と会い、語り合った。彼女はドイツを赦したいと語った。最後に、両大統領が、「記憶と警告」と刻み込んだ鐘を鳴らした(ZDF heute, 1.9.2019)。

早朝の式典も終わり、大統領はワルシャワに移動。メルケル首相、ペンス米副大統領ら各国首脳約40人が出席する「開戦80周年記念式典」に参加した。ウクライナ問題がらみでプーチンは招待されず、トランプは大型ハリケーン「ドリアン」対応を理由に欠席した(実際はゴルフをやっていたシンゾーそっくり!)。ここでも、シュタインマイヤー大統領は、「この戦争はドイツの犯罪だった」と明確に述べ、「私たちは忘れません。私たちは、ドイツ人がポーランドに与えた傷を忘れません」と語り、「過去の罪の赦しを請う」と謝罪した。「私たちは決して忘れません! 」(Nigdy nie zapomnimy!)とポーランド語も使った。そして、ドイツの責任のとり方として、「ノー・モア・ナショナリズム!」(Nie wieder Nationalismus!)を挙げ、ドイツ人は、「世界に冠たるドイツ」(Deutschland, Deutschland über alles)〔ドイツ国歌1番〕などと二度と叫んではならないと述べた(両演説の全文は、ドイツ連邦大統領府のホームページ参照)。

ドイツの国家元首が戦争と暴力支配の過去に対して真摯に、かつ隣国の人々の心に届くような言葉と態度で語る。いまの日本ならば、「謝罪の連鎖」「自虐史観」「土下座外交」などの言葉が飛んできそうである。だが、ドイツはドイツなりの計算と判断の上で、こうした謝罪の旅を続けているのである。

実は、欧州にポピュリズム政権(「立憲主義からの逃走」)が増殖するなか、ポーランド「法と正義」政権は、ドイツに対して法外な「戦争賠償」をふっかけている。8000億ユーロ(約93兆円)は、ドイツの国家予算(3570億ユーロ(約42兆円))の2倍以上である。ポーランドの場合、1953年に自ら賠償請求権を放棄している。また、ドイツ統一の際、1990年の2プラス4条約(戦勝4カ国(米英露仏)+東西両独の条約)によって法的には決着がついているとされている。しかし、現在のポーランド政府は、あの放棄宣言は「当時のソ連の圧力のなかでなされたものだ」という主張を行っている。ドイツが第二次大戦の賠償問題はすでに解決済みという態度をとれるのも、長年にわたる積み重ねがある。にもかかわらず、ポピュリズム政権のそうした要求に対してさえ、少なくともメルケル首相は、「国際法上ありえない」とか「すでに解決済みの問題だ」というだけではねつけることはしない。ポーランド政府の要求に対して、毅然と「すでに解決済み」という対応をしながらも、大統領が9月1日の開戦記念日に「初空襲の町」を訪れて、「謝罪」と「責任」の姿勢を示す。こうしたやり方に対して、ドイツ国内で異論を唱えるのは極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)だけである。第二次世界大戦とその諸結果に対する評価と態度という点では、日本の安倍政権はAfD政権に見えるかもしれない。

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来週18日は、「満州事変」88周年である。中国では「九一八事変」という。1931年9月18日に、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破して(柳条湖事件)、これを契機に「満州」(中国東北部)を武力で占領していった。

この頃の歴史グッズとして、冒頭右の写真のものがある。父が幼少の頃にグリコのおまけとして入手した「肉弾三勇士之像」である(直言「わが歴史グッズの話(44)」参照)。これは「満州事変」ではなく、その翌年、1932年の「第一次上海事変」の際、味方の突破口を切り拓くため、点火した破壊筒を持って鉄条網を爆破する任務で死亡した3人の兵士が美談化されたものである。

冒頭右の写真は、『満州事変の経過』(世界知識増刊、新光社、1932年2月)の表紙である。目次を開くと、「満州事変」の原因と経過、国際連盟、列国、世界の世論の状況などが軍の立場で書かれている。かの大川周明の論文、「満蒙に於ける我が特殊権益」(上記左の写真)も掲載されている。権益の側面からの「満州事変」正当化論である。

すべては「満州事変から始まった」といわれるように、この国の戦争への道の「最初の一突き」だった。だが、国際聯盟の常任理事国だった日本は、自らも批准した不戦条約(1928年)が「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコト」(第1条)と規定していたため、表向き、戦争はできなかった。だから、「満州事変」「上海事変」「支那事変」という言い方がされたわけである。「満州事変」も、5.15事件も2.26事件も、結局は軍の自作自演だった(直言「平成の「5.15事件」―戦後憲法政治の大転換」参照)。特に2.26事件は、「9.18事変」に始まるこの国の軍事国家化への傾向を、質的に転換させるものだった(直言「「軍」の自己主張―帝国憲法の緊急事態条項と「2.26事件」80周年」参照)。なお、今年8月15日に放映されたNHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る」は、発掘された海軍極秘資料によって、陸海軍の対立や天皇との関係を含む新たな知見を含む、今年の「8月ジャーナリズム」の収穫だった。

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日中全面戦争はその2.26事件の翌年に始まり、太平洋戦争はその4年後である。つまり、「満州事変」はまさに「最初の一突き」だったわけである。だが、戦争のとらえ方をめぐって、「15年戦争」「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」とが対立する。前者は、「満州事変」から始まる足かけ15年(正味13年11カ月)にわたる日本の対外的な戦争の全期間を、一括してこう呼ぶ(江口圭一『十五年戦争小史』(青木書店、1986年)参照)。近年では、「アジア・太平洋戦争」という呼び方がより一般的である。これに対して、伝統的に、右派は「大東亜戦争」という呼称をずっと使ってきた。もともとは東條内閣が「支那事変」(日中戦争)から始まる「大東亜戦争」という呼称を閣議決定したことに始まる(1942年1月)。アジアを欧米列強の植民地から解放して、「大東亜共栄圏」を樹立してアジアの自立を目指すという「理念」に立つ。これは、「満州事変」を含めず、日本の植民地政策を正当化し、日本のアジア侵略を糊塗する狙いをもつ。

2015年の新年にあたって「ご感想」のなかで前天皇はこう述べている。「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、、今後の日本のあり方を考えていくことが、、極めて大切なことだと思っています。」と。

ドイツの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙は、この新年の「ご感想」のこの部分に注目して、「天皇が、戦争が、1931年の満州事変によって始まったことを想起しつつ、それが中国への日本の侵略であったことを示すことで、「西欧の侵略に対する防衛戦争」であったとする〔歴史〕修正主義者に否定的な立場をとった」としている(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 9.8.2016, S.1) 。前天皇は「大東亜戦争」という捉え方と明らかに距離をとっている。加えて、「満州事変」以降の戦争の歴史を学ぶことが「今」重要だということで、安倍政権の安保関連法制への危惧の念が間接的に示唆されているという「読み解き」も出てきた。

第二の罪

4年前の「戦後70年安倍談話」では、「痛切な反省」も「お詫び」も曖昧にされて、「植民地支配」と「侵略」も相対化されている(詳しくは、直言「8.14閣議決定」による歴史の上書き―戦後70年安倍談話」参照)。従来の政府談話(村山談話、小泉談話など)の水準を大きく下回る内容で、結局、「大東亜戦争」史観に立つ首相によって、国全体の戦争への姿勢を転換させられてしまったといえるだろう。天皇がことさらに「満州事変に始まるこの戦争」と述べたことは、天皇の憲法上の地位の観点から過大評価すべきではないが、過小評価もすべきでないだろう。

この4年前の「安倍談話」の延長線上に、徴用工問題における安倍政権の強硬な姿勢があるといえるだろう。『産経新聞』2015年8月15日付は「安倍談話」を高く評価し、「『謝罪』次世代に背負わせぬ」という大見出しをうった。社説は「この談話を機会に謝罪外交を断ち切ることだ」と書き、中国や韓国との「歴史戦」に備えよと説く。他方、ドイツは、開戦80年に「初空襲」の小さな町を大統領が謝罪のために訪れた。ドイツの「記念日外交」に学ぶことができず、独裁的傾向をもつ指導者の懐深く飛び込み過ぎて、完全に空回りしているのが安倍首相のいま、である。9月5日、東方経済フォーラムでの安倍首相のスピーチが官邸のサイトにある。27回もプーチンと会談したと回数は誇るものの、何の成果も挙げられていない。下手をすると「0島マイナスα」になりかねない。「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。・・・ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」という19分25秒あたりからスピーチを聞くと、ロシアの国際法違反は棚に上げて、韓国ばかりを非難する安倍首相の「創造の翼」が妄想の類に近づいていることがわかる。

かねてより日韓の間の「対話の不在」についてはこの「直言」でも書いてきた。いまはそれどころではなくなってきた。植民地時代への無知、戦争への反省のなさなど、少なくない日本の市民もまた、ジョルダーノのいう「第二の罪」において「有罪」といわざるを得ないところまできているのではないか。

(2019年9月6日脱稿)
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