首都直下地震への四半世紀?―阪神・淡路大震災から四半世紀
2020年1月20日

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の1月17日で阪神・淡路大震災から25年、四半世紀が経過した。今年の新成人は、この大震災から5年経って生れたわけである。その頃は「荒れる成人式」が社会的に問題視されていた。

昨年、「終活」の一環として大量の文献や資料を処分したが、そのなかに新聞切り抜きファイルの山もあった。大分捨てたが、阪神・淡路大震災のファイルは残した。1月17日当日の夕刊から揃っている。冒頭左の写真はその一部である。地震発生が早朝5時46分。夕刊最終締め切りまでの7時間ほどでまとめられたのが、17日付夕刊各紙である。この時点で死者・行方不明者は430人から1000人の間だった(最終的に6434人)。当時私は、広島大学助教授だったので地元紙『中国新聞』は必読で、そのほかに『朝日新聞』の大阪本社版を購読していた。単身赴任だったので、東京の自宅で『朝日新聞』と『毎日新聞』の東京本社版もとっていた。それをまとめたファイルである。

地震発生から24時間、一面の見出しは、「兵庫南部地震」「近畿大震災」「阪神大震災」の三つに分かれた。特に『朝日新聞』は翌18日付朝刊で、大阪本社版が「近畿大震災」、東京本社版(おそらく西部本社版も)が「兵庫南部地震」という見出しを掲げた(東京と大阪では題字の模様も違う)。見出しは数日もすれば統一されて、この発災直後の違いなど「トリビアの話」かもしれないが、しかし、巨大災害直後の、新聞をつくる人々の興奮や思いが、見出しの選択に反映した一例としてここに挙げておきたい。

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右の写真は、発災当日の夕刊から20日朝刊までの三面(第1、2社会面)見出しを並べたものである。直後の切迫した状況から生活再建への動きに至るさまざまな事実が拾われている。ネットの瞬間的な情報とは違った、紙媒体の時間を区切った報道(朝刊、夕刊)によって、その時々の問題や課題が見えてくる。下の方に21日の二面 (政治面) 記事を入れてみた。「国会、地震対策を最優先」「被災者、首相に訴え切実」の見出し。右下の『日刊ゲンダイ』1995年1月21日付は、「初動で立ち遅れ2日目以降も後手に回った政府と自衛隊、消防、警察への大きな疑問」「縦割り組織がバラバラに動くだけで大震災への統一された対応システムなし」「お粗末な県、市の備えと水、食料、毛布もない被災者の惨状」と、お得意のストレートな表現で政府の対応を批判している。

この23年間、「直言」は阪神・淡路大震災について節目、節目で書いてきた。最初は、直言「阪神淡路大震災から3年」である。当時、『週刊ポスト』誌に連載されていたモノクロ・グラビア、矢作俊彦「新ニッポン百景」の第191回(1997年1月1/3日号)に注目して紹介した。後に矢作『新ニッポン百景95~97』(小学館、1998年)に収録されたものが冒頭右の写真である。タイトルは「わが日本の世界遺産(兵庫県・西宮市)」。「24時間ケア付きの高齢者・障害者用仮設住宅」。震災後5カ月でやっと建ったのだが、上り坂を10分以上歩いた先にある。その不便さから、築1年半で入居者はゼロ。公園にもどしてほしいという住民の要求で、500万円をかけて取り壊された。「対応の遅さ、拙劣さ、それらすべての原因は、偏(ひとえ)に役人のイマジネーションの欠落にあるのだ」と矢作氏は批判しつつ、そうした行政への「永遠の戒め」として、「市はこの掘っ建て小屋を世界遺産の候補に挙げられては」と皮肉る。

直言「阪神淡路大震災から10年」では、震災からまもない時期に書いた『世界』(岩波書店)1995年3月号の拙稿「どのような災害救助組織を考えるか―自衛隊活用論への疑問」を転載している。この「直言」では、阪神・淡路大震災のあとに発足した緊急消防援助隊が自己完結的な組織形態をとり、救助、消防、救急、後方支援の各部隊が統合運用されていること、消防庁登録部隊(都道府県域ごとに編成し、全国的に集中運用)は2210隊(3万1000人[当時])、東京消防庁は1996年に消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)を発足させ、新潟中越大震災で大活躍したことなどにも触れ、「自己完結性」はもはや自衛隊だけの「特質」ではないと指摘している。なお、2006年の直言「「1月17日」物語」は、阪神・淡路大震災が起きた「1月17日」にこだわっている。湾岸戦争の開戦も1月17日だった。そして先週、1月17日に広島高裁が伊方原発運転差止の仮処分を決定した。活断層調査不十分と噴火想定過小評価が理由であり、裁判官が「1月17日」を意識したのであろう。

なお、 震災1年後に、「阪神・淡路大震災と憲法」を出している。そのなかで、「復興の速度や程度には、地域や場所により明らかな偏差が見られる。『神戸新聞』の「仮設住宅被災者アンケート」を見ると、被災者が抱える問題の深刻さがよくわかる。大震災後、とりわけ低所得層が生活を立ち上げることは極めて困難だった。だが政府は「個人補償はしない」という論理を貫いた。」と書いている。 災害における「自助」「共助」「公助」ということがいわれるが、政府はできるだけ「公助」を縮減しようとしてきた。当時、神戸大学の浦部法穂教授は、「阪神・淡路大震災と憲法論の課題」という報告のなかで、「根こそぎ生活基盤を奪われた個人の生活を支援することは公共性をもつ」と指摘していた。

浦部氏は震災1年後に、「『個人の尊重』を考える」という論文を『法学セミナー』1996年4月号に寄せたが、それが法学館憲法研究所のサイトの「浦部法穂の「憲法雑記帳」」に最近、抄録されている。浦部氏が重視するのは憲法13条の「個人の尊重」である。「「個人の尊重」を口で言うことは易しい。しかし、この国の社会は、決して、一人ひとりの人を大事にするという仕組みにはなっていなかったのである。この未曾有の震災は、そのことを白日の下にさらけ出した。」と。

具体的には、仮設住宅でのいわゆる「孤独死」の問題がある。「仮設住宅への入居決定に際しては、まず、お年寄りや障害のある人などが優先された。そして、誰がいつどこの仮設住宅に入居できるかは、公平を期すため、抽選によって決められた。いわゆる「弱者」を優先し、そして、抽選によって公平に決める、というこの方法は、一見妥当な方法のようにみえる。しかし、ここに実は重大な問題があったのである。お年寄りなどを優先入居させたことによって、仮設団地は超高齢化団地となった。」

また、浦部氏はいう。「「個人の尊重」の欠如は、何ごとも「東京」中心に考える発想と仕組みとしてもあらわれている。大震災は、このような日本社会のあり方の矛盾を、集約的に明るみに出した。」と。「東京大地震や東京にも重大な被害をもたらすことが予想される東海地震に対する警戒の必要性は、ここ数十年来、ずっといわれてきた。しかし、近畿の大地震については、専門家の間ではともかく、一般には何の警戒も発せられていなかったのである。・・・大地震に関する情報が「東京」に偏っていた実情のもとでは、多くの人が、今度大地震があるとすれば東京だ、と思いこんだとしても、不思議はないであろう。大阪の人がその瞬間《東京壊滅》と思ったというのも、決して笑い話で済まされる問題ではないのである。・・・「東京」中心社会の情報の偏りが、多くの人に(私も含めて、である)、このような非科学的な思いこみを植え付けたのはまちがいがないと思う。この意味においても、「東京」中心の発想と仕組みが震災を拡大した、というべきなのである。」

浦部氏のこの指摘から25年近くたって、いま、その東京が危ないといわれている。都区部直下地震の発生頻度は「今後30年間に約70%」と予測されている(内閣府中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)。その意味でいえば、「首都直下地震」へのカウントダウンが始まったということだろうか。

なお、この3月11日で東日本大震災から9年になる。未だ復興していないのに、安倍首相は「「復興五輪」というフェイク」を持ち出し、本来復興に使うべきこの国の金も人も資材も知恵も、東京に集めている。浦部氏の「阪神・淡路大震災と憲法」から15年後に出した直言「東日本大震災と憲法」では、私も「個人の尊重」から説き起こしている。『東日本大震災と憲法』(早稲田大学出版部、2012年、Kindle版あり))も参照のこと。

もう一度、冒頭右の写真をご覧いただきたい。誰も入居せずに取り壊された「24時間ケア付きの高齢者・障害者用仮設住宅」。こんなものを建てた行政の貧困な発想の向こうに、浦部氏が怒る「人間を数字でとらえる不条理」や、抽選で入居を決めるという、「個人の尊重」と「公平」の緊張関係など、さまざまな問題が控えている。大災害への対応においては、浦部氏のいう「「非当事者的バイアス」を可能なかぎり排して当事者の視点を共有することが求められる」。まさに「現場からの視点」である。

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