中欧「コロナ危機」の現場から――ゼミ23期生のスロバキア報告
2020年4月27日

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「直言」では、私のゼミ生の海外取材レポートを掲載してきた。伊藤綱貴君(15期生)の「シルクロード一人旅―西安からローマまで」、パリ留学中の17期生の「シャルリー・エブド事件」のレポート。マハール有仁州君(22期生)の「激動のイスラエルとパレスチナを行く」は2回連載となり、「国民国家の果てに――パレスチナ」という、「道端に普通に薬きょうが落ちている」パレスチナ自治区からレポートもアップしている。ミャンマーのチーチャンニェイン君(14期相当)のミャンマー2008年憲法を批判する論稿もここに挙げておこう

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今回のレポートは「コロナ危機」真っ只中のヨーロッパからの報告である。昨年、わがゼミからは23期生の2人が海外の大学に留学した。宮崎爽太君はドイツ・ケルン大学、加藤大成君はスロバキアのコメニウス大学である。「コロナ危機」がヨーロッパに広がるなか、私は両人に帰国を促した。ドイツの宮崎君からのメール(2月16日)によると、「暴言を吐くドイツ人の集団に2回ほど遭遇」「街で中高生に「中国人」といわれる」など不快な思いをしているようだった。ドイツ全土の感染者が「現在930人くらいだそうです」という段階で、宮崎君は帰国を決意。3月18日に帰国後、2週間の自宅待機に入った。「ドイツも本当に危機感がありませんでした。今の日本は、帰国1週間ぐらい前のドイツの空気と似ています」と書いている。この時期、安倍首相はこういう顔で「オリンピックを、感染拡大を乗り越えて開催したい」と言っていたことを記憶しておこう。

一方、スロバキアにいる加藤君は、空港が閉鎖され、帰国できなくなっていた。今も大学の寮にとどまっている。彼が留学した中欧スロバキア共和国は人口545万人。チェコスロバキアから1993年に分離独立した。冒頭の新聞の写真は、加藤君が送ってくれた“Dennik SME”(英語訳 We are Daily)紙4月11日付で、スロバキアで最も読まれている新聞だという。スロバキア政府が東部スロバキアの5つの町を封鎖することを決定し、約6000人の住民がPCR検査を受けることになったことを伝えている。また、右の写真は、同じ日の紙面で、見出しは「イースター前に大きなラッシュの影響」。空港が閉鎖されたため、イースターを迎え、多くの人が国境に殺到。海外にいたスロバキア人は強制検査を受けるため、1か所で長い時間待たされ、人によっては一日中、過酷な環境で耐えなくてはならなかった、とある。 冒頭の銅像写真は、チュミル像(ブラチスラバの象徴)に、誰かが感染防止用のマスクをかぶせたものだ。今回、加藤君に、不自由な生活のなかで、この「直言」のためにレポートを書いてもらった。以下、掲載する。

コロナショックの渦中で――スロバキア・コメニウス大学寮の一室より
水島ゼミ23期生 加藤大成

私は、2019年9月から中欧スロバキアの首都ブラチスラバにあるコメニウス大学に留学している。ブラチスラバは、オーストリアの首都ウィーンから60km。バスで1時間ほどの距離だ。そのことから、ウィーンを観光したあとに訪れる観光客も多くみられる。スロバキアでは新型コロナウイルスをめぐってどのような状況になっているか、そして私の周囲で何が起きたのかについて述べさせていただきたい。

3月12日の国境閉鎖

イタリアでの爆発的なコロナウイルスの感染拡大。そこから波を打つように始まったヨーロッパ各国の混乱。イタリア・オーストリアと陸続きのスロバキアに新型コロナウイルスの感染が始まった後も、私はスロバキアに滞在していた。

3月8日、 私はトルコ人のルームメイトを含め、4人で首都ブラチスラバから電車で2時間の地方都市ニトラを訪れた。その帰りの電車の車内で、多くのスロバキア人から強い視線を感じた。アジア系が珍しいということから、これまでもこれに近いことがなかったわけではない。ただ、このような明らかに冷たい視線を感じたのは初めてだった。帰宅後、スロバキアで5人の感染者が発見されたことがわかった。もちろん動揺はしたものの、スロバキアに少しばかり現れるのも時間の問題だろうと考えていた節もあり、そこまでこのコロナの一件について意識することにはならなかった。実際、その後数日間、表立って大きな出来事は起きず、「とうとうスロバキアでも感染が始まったか」というような会話を、友人たちとカフェでする程度だった。

ところが、状況は突然悪化した。コロナ患者の発見初日から4日後の3月12日、スロバキア政府が、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ウクライナ、ポーランドとの国境の封鎖を発表したのである。内容としては、在住許可のない外国人への入国の拒否、国内空港の封鎖を行うという決定だった。その日、いつものように夕方、寮のすぐ近くにあるスーパーマーケット(Billa)に行くと、多くの人々が押し寄せていた。いつも閑散としたスーパーなので、こんなに人が住んでいたことをはじめて知ったくらいの人数だった。映画の一場面のような、パスタやトイレットペーパーを爆買いしていく姿を見て、国境封鎖がいかに大きな出来事なのかを肌で感じた。

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その日の夜、水島朝穂先生から帰国の件を含めた心配のメールが届いた。まさか水島先生から直接連絡をいただけるとは考えてもいなかった。しかし、この水島先生からの連絡によって、私は初めて、今日本からヨーロッパがどう見られているのかを知ることになった。その日からルームメイトの出身国のトルコ政府が、スロバキアからの避難勧告を出したのちに、逆に待機勧告へ変更したという情報を知った。スロバキアの感染拡大が背景にあるのだろう。マスクの着用の推奨から勧告へ、勧告から義務付けへと、数時間で状況が二転三転するような状況になった。このタイミングで私は初めて、それまでモヤモヤとしていた帰国という文字が鮮明になるとともに、果たして自分が無事に帰国できるのかという不安に襲われることとなったのである。これは、国境封鎖の翌日のブラチスラバ旧市街の様子である(DNES24(英語訳Days 24)より)。ほとんど人が歩いていない。

しかし、このような不安定な状況が続くなか追い打ちをかけるように、3月16日、日本の外務省が、スロバキアを含めたヨーロッパ全域を「レベル2」(不要不急の渡航は止めてください)とした。二、三日で「レベル1」(十分注意してください)から「レベル2」となったわけで、今、私がそうした状況に置かれているという現実を知り、もう少し早く帰国を考えるべきではなかったかという後悔の念が生れてきた。本当に帰宅すべきなのか、それとも残るべきか。焦りにも似た気持ちで家族に電話するが、誰も答えが出せない。空港に向かう道路は安全なのか、逆に日本の方は大丈夫なのか。父はなるべく早く帰国すべきだといい、母は日本で感染爆発が始まるのも時間の問題だといって混乱している。その電話での家族会議の結果はまずは冷静になって、様子をみようということになった。

消えた日本人留学生

翌3月17日、朝起きると隣室に住んでいた日本人留学生の姿がない。同室の留学生に聞くと、昨日の「レベル2」を受け、すぐに航空券を購入し、すでにウィーン空港へ向かったという。さらに彼を含め4人の日本人留学生が空港に向かったそうだ。その一件で私はいてもたってもいられなくなり、父に電話して、このことを伝える。父はその話を聞いて、彼をみならって帰国しなさいと強く言った。航空券を購入しなさい、少しでも早いほうがいいとも。ルームメイトにこのことを伝える。いつも陽気な彼は黙ってしまった。彼とは約7か月生活を共にした。2泊3日の車でのオーストリア縦断旅行、毎日のように一緒に作った夕飯・・・。このような形で突然の別れになるとは思ってもみなかった。正直この時が一番泣きそうだった。でも、私の帰国しようという決意は固かった。

ところが、夜になるとウィーン国際空港の封鎖が行われるという情報が入ってきた。隣国チェコが国境を封鎖、さらにウィーン国際空港まで封鎖されれば、日本に帰れなくなる。この状態が9月まで続いたらどうなるのか。7月までの寮契約、9月までのビザの件が頭をよぎる。早く帰りたい、この不安定な状態から解放されたいという気持ちの高まり。さらに先日のスロバキア政府の非常事態宣言により、スロバキア国内のタクシーの利用が禁止された。そうなると国境まではどう行くのか。市内電車やバスを使えばウイルス感染のおそれがある。この写真は、バス運転手への接近禁止の表示である(DNES24より)。

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スロバキアとオーストリアの国境を越えて、国境付近の駅までは徒歩で4、5時間はかかるという。ある日本人留学生のキャリーバックは壊れて、運ぶのに一苦労だったらしい。さらに携帯のインターネット回線も使えない。寮のWi-Fiなしではインターネットが使えないのだ。言語の問題、ひとりで移動すること、ひっきりなしに問題が頭をよぎる。不安でいっぱいになった。

3月18日、朝起きると、父と母からの複数回の着信履歴があった。すぐに母に電話する。日本の状況が安定するという保証はないことや、韓国の空港内で感染のケースがあったこと、また留学生が帰国途中に感染するケースも見られたという。そのこともあり、家族で話し合う。韓国の感染拡大が鈍化したというニュース(ロイター通信)を踏まえ、少なくともコロナにかからないために、まずは状況が安定してから帰国する方がよいのではないかという結論になった。帰国途中に感染してしまえば元も子もない。この帰国しないという決断が、どのような結果になっても仕方がないということである。この日、私たち家族は、私はスロバキアで生活を続けるということ、すなわち帰国しないということを決めた。この決断は私に、いつまででこの環境で不安を持続させることになったわけである。しかし、それと同時に、この状況の中でひとり国境を越える危険性、移動中の感染リスクがないという安堵感のほうがむしろ強かった。

「レベル3」の国で生きる

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私はいま、外務省感染症危険レベル3(渡航中止勧告)の中欧スロバキアで生活を続けている。大学の学生寮(Mlyny dorimitory)で生活している。現在寮内では約50人程度の外国人留学生が生活している。スロバキア人学生に対しては3月14日に帰宅命令が出された。感染が始まった3月の中旬からの日常は、寮と近くのスーパー(Billa)の往復を2日に1回やるだけだ。それ以外の外出は行っていない。3月15日以降、スーパーでは、店内人数制にして、人と人の接触を減らすことや、ビニール手袋の着用など、感染拡大回避のための対策を取っている。写真はスーパーに並ぶ市民だが、あまり距離をあけていない(TASR.skより)。また、公共バスの消毒や、中小企業を中心にした経済緊急支援策などをはじめ、感染者発生から学校封鎖まで1日、寮封鎖まで1週間(留学生を除く)と、非常に対応が早かったという印象をもっている。

アジア系に対するヨーロッパ内での反応も変わった。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、じっと見られることや、にらまれること、明らかに距離を取られることなどが増えた。また、友人に、日本人もネズミや爬虫類を食べるのかとも聞かれた。スロバキアでの感染発生後には10人ほどの中学生に囲まれ、”Do you have Corona?”と聞かれたこともあった。もちろん多くの人は普段通り接してくれるし、ある人に関しては私にわざわざ話しかけてくれて心配までしてくれた。

日韓ハーフの視点から

私がこのコロナショックから考えさせられたことは、差別、そして思いやりだった。私は韓国人の母を持つ日韓ハーフだ。そのことからこれまでヘイトスピーチ問題や外国人技能実習制度など、日本社会における外国人について考えてきたつもりだった。しかし、私はこれまで日本で日常生活を送る中で、韓国とのハーフが直接差別の理由になったことはない。このスロバキアで体験した、見た目から受ける差別は、私に差別への意識をこれまで以上に与えた。それと同時に私に強い恐怖感も与えたのである。日常生活で接するスロバキア人さえも自分のことを嫌っているのではないかと感じるようになったのだ。この不安定な感情を、外出のたびに持たなくてはいけない苦痛。このような思いをしている人の気持ちをこの1か月で身をもって感じた。しかし、このスロバキアのコロナ感染拡大後、スーパーで列になっている時、一人のスロバキア人が私に話しかけてきたことがあった。外国人である私のことが気にかかり話しかけたという。その小さな会話がどれだけ私にとって大きな安心感を与えてくれたか。小さな思いやりがどれだけ強い安心感につながるのかを知った。

日本の文化が好きな中国人留学生、日本で生まれ日本で育った在日コリアン、自分の好きな人を好きなように愛するLGBTの人々。様々な人々が日本にも生きている。もしかすると、この人達も日本社会でこのような感情を抱きながら生活しているのかもしれないと。その時、ふと自分の母が思い出された。私の母は、日本社会で20年間私と妹を育てながら、どのような気持ちで生活してきたのだろう。もしかするとこれに近い感情を心に秘めながら暮らしてきたのかもしれない。ただ同時に、母は日頃私に「日本で外国人として嫌な思いをしたことはない。保育園の先生たちも学校の先生たちもあなたをみんなと同じように大切にそだててくれた」とも話していた。私もこのスロバキアでの経験が母のこの言葉を思い出させ、他者へ手を差し伸べる重要性を再認識させた。

今年のラマダーン月は4月24日から1か月間で、トルコ人のルームメイトは今日からラマダーン(断食)を始めた。ラマダーンの目的の一つは、空腹を通じ他人の痛みや苦しみを理解することだそうだ。さらに家のない人や恵まれない人々に食事をもてなしてあげることも風習だといわれている。相手のことに耳を傾け、相手の気持ちになって考えること。簡単なように見えて非常に難しい。今留学生という立場でコロナにぶつかっているからこそ、この考え方の大切さが身に染みて感じる。

私にとって、この「コロナ危機」はカフェでの友人との談笑、ルームメイト、通学、私の大切な留学の思い出をすべて奪おうとしている。と同時に、私にとって相手を思いやるということについて改めて考える機会となった。日本に帰った後、私がこれからどう社会で生きていくべきなのか。私はいま、このスロバキアの寮の狭い一室で考え続けている。

最後に、同様にスロバキアへの留学生である友人の話を以下紹介したい。

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トルコ人留学生イスマイル君の話

私は、トルコから来たスロバキアのエラスムス生(※注)のイスマイルといいます。今回の件で、私の大切な最後のエラスムス生活がこのような形で終わろうとしています。多くの留学生との授業、新たな友人との会話、真夏のスペイン旅行、すべてなくなりました。とても残念です。

この問題はコロナウイルスだけではないと思います。人種差別も前面に出てきたと考えられます。中国でコロナウイルスの感染拡大が始まったときに、ヨーロッパはここぞとばかり、中国の批判やアジア系の食文化に対して攻撃していました。しかし、彼らはコロナに何も準備できませんでした。ここが問題だったと思います。もしあのタイミングで、中国における感染拡大をとめることに力を合わせることができていたら、もっとヨーロッパ国内で予防の医療体制に取り組むことはできたのではないかと考えます。「コロナ」が終息したあとにも問題や課題を残るでしょう。これらの問題を次につなげるためにも、外国人やアジア人に牙を向けるのではなく、手を合わせられるシステムを作ることも必要なのではないかと考えます。

(※注)エラスムス制度:ヨーロッパの学生の流動化・グローバル化を促進、そしてヨーロッパの教育の質を高めるために、1987年に出来た「交換留学制度」のこと。
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