日本国憲法施行73周年――「コロナ便乗型改憲」へ
2020年5月3日

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日は「日本国憲法施行73周年」である。新型コロナウイルスの感染拡大のため、本日予定されていた名古屋での講演をはじめ、憲法記念日をはさんだ5つの私の講演会はすべて中止された。1986年に釧路市から始めた「5月3日講演の旅」は、ドイツに滞在ないし在外研究中の4回(1988年、1991年、1999年、2016年)を除いて、日本全国、どこかの都市で続けられてきた。今年はアンコールの声が大きかったので、再び名古屋で行うことになっていた。「憲法くん」の模造品が出回るなか、元祖「憲法くん」の松元ヒロさんとのコラボも計画されていた。冒頭の写真は、本日の憲法記念講演会のチラシである(なお、2021年5月3日にこの形で実施予定)。

追悼・森英樹教授

この名古屋の憲法記念講演会には伝統があって、その規模の大きさは全国一である。長年にわたり、この講演会開催の中心にいたのが、名古屋大学の森英樹名誉教授である。4月26日に急逝された。ショートメールのやりとりをしていて、4月17日に「直言」の感想とともに、「コロナ規制と安倍会見中継を見ていて怒る今です! 森英樹拝」が届いた。その9日後に容態が急変し、帰らぬ人となった。洒脱で粋な文体で、森さんからの感想メールは楽しみだった。26年前の広島大学時代に出した拙著の書評(日本法社会学会編『法社会学』47号(1995年))を昨日見つけて再読。涙が止まらなかった。2週間もたたないのに、またも親しくさせていただいた研究者を失い、あまりにも悲しい。

思えば、「専守防衛」を建前とした自衛隊が1990年の湾岸危機以降、海外派遣のさまざまなルートを開拓していったとき、その最初の本格的な法的枠組が「周辺事態」だった。それを立法化した「周辺事態法」について、森さんの発案で、詳細にこれを批判する本を出すことになった。それが森英樹・渡辺治・水島朝穂編『グローバル安保体制が動き出す』(日本評論社、1998年)である。森さんは文部省『あたらしい憲法のはなし』にひっかけて、『あたらしい安保のはなし』というタイトルを提案したが、私は「グローバル安保体制」を提案。これがメインに採用され、森さんの案はサブタイトルになった。1998年の橋本龍太郎内閣の時で、当時はまだ「アジア・太平洋安保」が主潮だった。その後、安全保障関連法は「グローバル安保」へと向かっていく。例えば、米軍パイロットの捜索救助活動については、もはや「周辺」や「後方地域」の縛りがなくなりトランプの要請で自衛隊はこの活動をグローバルに実施することになる

「安保法制懇」と「専門家会議」――「専門家」の誤用

この安保関連法の根拠となり、日本の安全保障にとってターニングポイントとなった2014年「7.1閣議決定」。この無理筋の決定を支えたのが、当時の安保法制懇という「御用学者」の集まりだった。わざわざ帝国ホテルのカンファレンスルーム(一回40万円)を使い、天重やちらし寿司を頬張りながら、お友だちだけの弛緩しきった議論をまとめた報告書により、この国の安全保障政策は大転換した(直言「安倍政権とコピペ文化―安保法制懇はどこで議論していたのか」下部の情報公開資料参照)。集団的自衛権の行使容認へ大きな役割を果たした御用学者はまさに「誤用学者」である。

新型コロナウイルス感染症の「専門家会議」なるものも、尾身茂氏を軸とする偏った人選という点では、安保法制懇とよく似ている。専門家会議は、「クラスター対策」、「PCR検査抑制」、「人と人の接触の8割減少」といった方針の発信に前のめりになっている。熱っぽい言動を安倍首相が抑制し、調整することもないようである。だが、検査すら受けられないまま、症状が悪化して亡くなり、死後になって感染が判明した高齢者もいる。隔離戦略が破綻し、ずるずると「集団免疫戦略」へと行き着くことになるのだろうか。実は安倍首相が2017年9月に「国難突破」解散をやった際(直言「「自分ファースト」の翼賛政治―保身とエゴの「暴投解散」」参照)、「国難」の中身が、北朝鮮ミサイル問題と少子高齢化だったことはご記憶だろうか。なぜ、少子化が「国難」で、それで衆院解散なのか、最後まで論点が明確でないまま、低投票率で、与党は圧倒的多数の議席を得て「安倍一強」を確立した。高齢者の死亡率が極端に高い「コロナ危機」を奇貨として、「高齢化社会」の「最終解決」(Endlösung)という「悪魔のシナリオ」を想定しているとまではいわないでおこう。だが、いつの時代にも、ハンナ・アーレントのいう「凡庸な悪」の問題が出てくる。「専門家会議」の面々の語り口から、この言葉が浮かんでは消える。

安倍流「論点ずらし」の統治手法

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ところで、安倍流「5つの統治手法」(①情報隠し、② 争点ぼかし、③論点ずらし、④友だち重視、⑤異論つぶし)は、「コロナ危機」で国民が苦しんでいるなかでも健在である。感染症対策の随所にこの手法が活かされている。「火事場泥棒」的にさまざまな施策が繰り出されているが、全力をあげるべき「コロナ危機」対処においても、「友だち重視」は露骨である(昭恵夫人の奔放な行動、「アベノマスク」の発注先等々)。「専門家会議」のPCR検査抑制という偏った方針が長期にわたってとられた結果、市中感染が拡大しているのに、限られた検査から得られた上辺の数字の増減に一喜一憂するという「情報隠し」も進行中である。 ここへきて、お得意の「論点ずらし」も前面に出てきた。

新型コロナ特措法上の「緊急事態宣言」の期限(5月6日)が近づいてくるや、安倍首相はその延長を決定した。「いまが正念場、この2週間を」と何度も繰り返してきて、とうとう「5月6日」を前にして、さらなる延長を行う。フルマラソンの距離を事前に教えず、「400メートル走ですよ」といって選手を全力疾走させ、走り終わると、「ゴールはあと400メートル先です」といってさらに走らせる。それを1054回繰り返す。それに耐えられる陸上選手はいない。あり得ない喩えだが、予測も希望も与えず、ひたすら自粛を求める。「5月6日までがんばろう」といって休業や閉店をした飲食店や中小業者などは絶望の極にいる。新型コロナ感染症の死亡者よりも自殺者の方が多いというおそろしい数字も予想される。これは「震災関連死」よりも早く出てくる「コロナ関連死」といえるかもしれない。「躊躇なく」という副詞をやたら使うのは、安倍首相自身の迷いとためらいの投影とはいえまいか。この『南ドイツ新聞』4月20日付の見出しは「躊躇の代償」である。

「緊急事態宣言」と「緊急事態条項」

そうした国民の絶望と怒りが政権批判につながらないように、「論点ずらし」の手法も巧みである。特措法に基づく「緊急事態宣言」が、休業の要請・指示にとどまるため、より強い規制を求める声が下から起きてくるのを待つ。店をあける飲食店に対しては、市民が「閉店せよ」と圧力をかける。これを「自粛警察」というそうだが、「逃げるな、火を消せ」という防空法制下の自警(警防)団や隣組のような役回りと重なる。「緊急事態宣言」の延長も、全国知事会に提言させる(『東京新聞』4月30日)。市民が求めているから、自治体が求めているからという、「下からの声に押された」形で、権利制限や強制措置が加えられていく。主な西欧諸国では、憲法上の緊急事態ではなく、感染防護法上の重大事態として対応している。ところが、安倍政権は、「緊急事態宣言」の不備を、憲法に緊急事態条項がないということと結びつけようとしている。

4月7日の衆院議運委で安倍首相は、「緊急時に国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えるか。憲法にどう位置付けるかは極めて重く大切な課題だ」として、憲法改正による緊急事態条項の導入について国会の議論を促した(『日本経済新聞』4月7日デジタル)。

大災害など、人々が冷静さを失い、「非日常」モードになっているのを利用して、憲法という国の仕組みの根幹を定めた法に手をつける手法を、私は「惨事便乗型改憲」と呼んだ。東日本大震災が起きた2011年の直言「憲法審査会「そろり発進」―「震災便乗型改憲」」で、「震災で人々の頭が真っ白になっているのを見計らって「改革」を行う。「惨事便乗型」手法(ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』〔上・下、岩波書店、2011年〕)の応用である。震災のどさくさ紛れで改憲を進めることは、ナオミ・クラインに倣って言えば、「震災便乗型改憲」」と特徴づけたのである。5年前、朝日新聞社のWebRonzaで「憲法改正に「お試し」はあり得ない(下)震災に便乗した「緊急事態条項」」をアップした。

一般の人には、「緊急事態宣言」と「緊急事態条項」の区別はなかなか難しいだろう。前者はあくまでも、新型インフルエンザ対策特措法に基づく「公衆衛生上の重大事態」である。これに対して後者は、戦争や大規模災害などに対して、通常の仕組みを一時的に変更して対処するもので、改憲論の柱の一つであり、大きな問題を含む(直言「なぜ、いま緊急事態条項なのか―自民党改憲案の危うさ」)。「コロナ危機」でたくさんの人が感染し、死者が出てくると、人々は冷静さを失い、恐怖心から「強い国家」を求める傾きにある。冒頭右の写真は、ウイルスの感染防止のためなら、「自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない」とする人が75%に達したという報道である(TBS「サンデーモーニング」4月26日)。また、共同通信が4月28日に行った世論調査によれば、「大規模災害時に内閣の権限を強め、個人の権利を制限できる緊急事態条項を憲法改正し新設する案」に賛成51%、反対47%という結果になった。改憲の必要性については、「どちらかといえば」も含め61%が肯定的だった。しかし、安倍政権下での改憲には、反対58%、賛成40%だった。憲法に緊急事態条項を入れることには過半数が賛成しつつも、この政権にやらせるのは不安ないし反対が58%ということで、これは正直な数字だろう。

ただ、これから感染者も死者も急増するなかで、「もっと自由を制限せよ」という声が市民のなかから、リベラルな知識人のなかから、野党のなかからあがってきて、そのエネルギーを憲法改正に連動させていく窮極の「論点ずらし」が行われるかもしれない。共同通信のこの数字は、「コロナ改憲」の空気がつくられつつあることを危惧させる。

「コロナ危機」を克服するために、現行法で可能なことがたくさんある。「公衆衛生上の重大事態」におけるやむを得ない権利制限の拡大も、国会での議論の上に行うことも可能である。しかし、コロナ対処に限定した権利制限を、憲法改正に結びつけるのは邪道である。現行憲法のもとでもできる権利制限の態様を検討する必要もあるだろう。だから、緊急事態条項導入の憲法改正の議論は、窮極の「不要不急」の議論といえる。

なぜ、いま、「9月入学」なのか

なお、緊急事態条項とともに、「論点ずらしの」例として、「9月始業、9月入学」がある。私も当事者だが、コロナにより対面授業ができないため、オンライン授業に移行している。手さぐりでこれをやりながら、学生たちと直接語りあえないもどかしさを日々感じている。これは教育にかかわるすべての人の共通の思いだろう。しかも、ネット環境が十分でない学生(生徒・児童)にとっては、授業を受けられないというのは死活的問題である。それぞれの大学が対応しているが、小中高においては、より教育格差がはっきりあらわれている。このままズルズルと夏休み前まで休校を繰り返していくことは、耐えがたいことだろう。自宅にいる子どもたちの限界も近い。そこで、高校生がネット署名を通じて「9月入学」を求める声をあげた(『毎日新聞』4月29日付)。野党のなかでも実現に向けたワーキングチームを発足させたり、提言をまとめたりするところも出てきた。全国知事会のなかでも、宮城や大阪、岡山の知事たちは前のめりになっている。とくに東京都知事は、「私は9月入学論者。こういう時こそパラダイムシフトを」と嬉々として語っている。いま、「9月始業」、つまり夏休みあけまで休校にすることと、「9月入学」が故意に合体させられて議論されている。これも「論点ずらし」である。「9月入学」については、「平時」において、さまざまな制度上の問題や事情を勘案して、時間をかけて議論すべきものであって、「どさくさ」にまぎれて導入するものではない。だが、萩生田光一文科相は「大きな選択肢だ」と乗り気で、安倍首相も「これくらい大きな変化がある中では、前広にさまざまな選択肢を検討したい」と述べた(4月29日・衆院予算委)。「前広に」という言葉に違和感を覚えた。この問題では、愛媛県知事が「性急な導入には反対」と明確な意見を出していたのが救いだった。実務のことを考えれば、反対する知事がいるのは当然だろう。前川喜平元文科事務次官の言葉に説得力がある。「実務的な視点で見れば、やりましょうと言ってすぐやれるレベルの話ではありません。過去、文科省ではすでに何度も検討して見送った経緯があります。正しく適用するには、多額のお金と長い時間を要する。きちんとした検討を経ないまま勢いで物事を進めれば、そのしわ寄せは、子どもたちにきます」(AERA dot. 4月30日)。

そもそも9月に学校を再会できない可能性も否めない。大切なのは、教育格差が甚だしくならないように必要な措置は何かを考えることであり、大量のリソースを浪費して制度変更を行うことではないはずである。松岡亮二氏(早大教育学部准教授)も、「先行きが不透明になればなるほど、家庭や地域によって元々ある格差がさらに広がる可能性がある。学校再開や入試がどうなるかなど、見通しを早めに示すことが大切」、「義務教育だけでなく高校生まで含め、デジタル機器の普及など、一部の子どもたちにしわ寄せがいかない学習環境の整備を急ぐべきだ」と述べている(『朝日新聞』4月28日朝刊)。

土俵を壊す首相に土俵際の議論をさせるのか

日本国憲法の73周年を、「コロナ危機」という大変な事態のなかで迎えたわけで、国民が下から「もっと権利制限を」と求め、それを改憲につなげられていく懸念が強くなっている。だからこそ、繰り返しになるが、はっきりいっておかねばならない。安倍首相は立憲主義の土俵からの逸脱を続けるのみならず、その土俵を壊してしまった、「憲法違反常習首相」である。土俵を壊す人間に、「コロナ危機」を乗り越えるために必要な人権制限にかかわる「土俵際」の議論をさせてはならない(直言「安倍首相に「緊急事態」対処を委ねる危うさ―「水際」と「瀬戸際」の迷走」)」と。

今回は触れられないが、「緊急事態宣言」延長をめぐっては、「前例のない自由制限には、前例のない透明性が必要」というドイツの議論などを踏まえて、「公衆衛生上の重大事態」に対処するための法的問題(権利制限も含めて)を冷静に検討する必要がある(直言「何のための「緊急事態宣言」なのか―「公衆衛生上の重大事態」に対処するために」)。その際、尾身茂氏の「専門家会議」を厳しく批判する、上記「直言」で紹介した児玉龍彦氏(東大先端研)の動画(「新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか」4月3日))とともに、この4月28日に公表されたばかりの「新型コロナの真実―長期戦を闘うために」という動画が重要である。迷走する安倍政権とは一線を画した、真の「土俵際」の議論のために重要な示唆と知見を与えてくれるだろう。必見である。

人を介して届いた病床の森英樹教授からのショートメール(伝言)は、共同研究で「緊急事態の新局面(コロナ)と憲法」に関する出版を企画できないかという趣旨の提案だった。22年前の『グローバル安保体制が動き出す』以来、『3.11と憲法』や、『現代憲法における安全 ― 比較憲法学的研究をふまえて』など、森さんを編者とする8冊を超える企画にかかわってきた。このショートメールの提案が最後になった。

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