雑談(123)「140字の世界」との距離+親指シフト・キーボードの終わり?
2020年7月13日

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本から始まった豪雨被害がさらに本州にも広がりを見せている。私の身近にも迫った昨年の「東日本大水害」からまだ9カ月しかたっていないが、またも日本各地で甚大な被害が出ている。梅雨期の豪雨災害と台風の直撃傾向、これに異常猛暑と大地震が加わり、秋にかけて「コロナ禍の複合災害」とならない保証はない。にもかかわらず、この国の政府の対応は「後手後手」「無策」「不作為」を超えて、もはや「無政府」状態に近い。「2018年西日本豪雨」時の首相飲み会(「赤坂自民亭」)の発信者(ツイート)が、現在の西村康稔コロナ担当大臣というのは象徴的である。

ツイッターをやらない理由

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国内外を問わず、大きな事件が続くが、久しぶりに「雑談」シリーズをアップする。前回は「音楽よもやま話」26回だった。今回は、「140字」の世界から距離をとって、1週間に1度のホームページ更新にこだわる理由を書くことにしたい。

先月、「水島朝穂先生にツイッター始めてもらって政治について客観的かつ批判的なツイートを毎日して欲しい。」とか、「そういえば、水島朝穂先生の記事はtwitterではあまり見ないね。」といった「つぶやき」がネット上にあるのを見つけた。私はGoogle Chromeが嫌いなので、大学のオンライン授業用のパソコンでのみこれを使い、日頃の仕事用パソコンではInternet Explorer 11を愛用している。IEではツイッターが開けないので、「つぶやき」が飛び交う世界をあまり知らない。ただ、その世界では、私の「直言」はあまり読まれていないようである。「直言」のアクセス解析をチェックしているが、近年、パソコンよりもスマホからのアクセスが多いことがわかった。「140字」の世界にいる人々には、毎回の「直言」の5000字から6000字の世界は長すぎると感じるのだろうか(ちなみに、今回の「直言」は9600字)。最近は見出しをつけたりして、関心のあるところから読んでもらえるような工夫もしている。5年ほど前、管理人の望月穂貴君の提案で、私が関与しない、発信専門のツイッターのページ、「水島朝穂「平和憲法のメッセージ」お知らせ」を開設した。ここからの最初のツイートがリツイートされることで、私のホームページの更新が知られることになる。

ブログもやらない理由

では、私はなぜ、「140字」の世界と距離をとるのか。12年前、ブログという方式がはやりだして、私のホームページのことを「水島朝穂のブログ」という人がいたので、直言「雑談(70)ブログをやらないわけ」を出して、「ホームページとブログは違う」「水島朝穂のブログといわないでほしい」と書いた。いまこれを読むと、ブログをやらない理由が、ツイッターをやらない理由と重なることに気づいた。12年前のこの「直言」では、ブログの特徴として、簡易性と速報性、即時性を挙げ、こう書いた。「ネットの世界では、公私の区別が相対化され、公的言説が限りなく軽く、無責任になる傾きがある。人への批判や非難を「つぶやき」や「独り言」の形で垂れ流していく分、「出す」側は気楽だが、批判を「受ける」側からすればたまったものではない。根拠のない、打撃的な言説が大量に吐き出されると、人や組織などに対する評価を貶めることにもつながる。まさに「言葉の暴風」である。・・・」。ブログについての指摘だが、これはそのままツイッターにもあてはまるだろう。

また、私がブログをやらない理由として挙げたなかに、「文章・文体の問題」がある。「大学教員が出しているブログでも、不愉快な文章や文体に出会うことは少なくない。自らの名前で出す論文や小論、エッセーなどでは決して使わないような文章・文体が使われる。日記風だから、書いていることに厳密さが欠けている。勢い、人に対する批判も粗削りになる。推敲しない文章を、そのままネットに出すわけだから、言葉も滑る。熟慮なく、思ったままを書き流していくから、言葉の「垂れ流し」になる。・・・人の批判についても、印象的なものになりがちである。」 ツイッターの「140字」の世界は、これをさらに押し進めたもので、たくさんのトラブルがここから発生している。

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「つぶやき民主主義」の危うさ

この12年前の「直言」で私は、「もし手を出せば、おそらく「垂れ流し」をしてしまいそうなブログとは今後も距離をとり、1週間に1度のホームページの更新を、淡々と続けることにしたい。」と結んでいる。この「ブログはやらない」という理由は、いま、ツイッターをやらない理由にそのまま使えるだろう。リアルタイム検索などでヒットするツイートを見ていると、その分野のそれなりの方々が、親密圏の会話の表現や言葉を使って公的な問題を語っていることに驚く。5年前の直言「「つぶやき民主主義」の陥穽」では、こう指摘した。「熟議ではなく、瞬時に決まる「即議」の世界である。140字のため、いきおい、印象的で瞬間的で、表面的な判断が先行する。語尾がいいかげんになり、およそ公共空間において、公的な事柄について発言する際には使わないような物言いになる。「じゃないの」「だよね」「〜かな」等々。これは親しい間の親密な会話では使われても、公的な問題について、公的な場で用いる言葉づかいではない。・・・頭に浮かんだことが漏れだしたものが「つぶやき」であって、思考を経由した意見とは言えないものも少なくない。感情的反応、生理的不快感の表明、単純な反発などが理性のフィルターを通過しないで出てきたものがネット空間にあふれている。」

スマホを見ながら、そこに瞬間的にあらわれる言葉や画像に反応して、十分に考えることなく瞬発的に指が動いて言葉を発信してしまう。最後まで読まないで、乱暴な言葉に乱暴にリアクションをする。もう10年も前になるが、過度のネット依存について警鐘を鳴らした直言「雑談(81)新三猿―読まざる、書かざる、考えざる」のなかで、「ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考、あるいは創造的思考を行うのをさまたげる」という指摘を紹介した(ニコラス・G ・カー=篠儀直子訳『ネット・バカ―インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社、2010年))。いまや、それどころではなくなっている。スマホの発達で、パソコンすら使わない、キーボードを使えない若者・学生も出てきた。「フリック入力」で、レポートをスマホから送ってくる猛者もいる。「緩慢なる思考力の低下」を「スマートなアホ化」(略して「スマホ化」)と呼んだ(直言「雑談(115)「スマートなアホ化」と政治」参照)。スマホの頻用は、人間の体型も変えつつあるようである(冒頭右の写真(ドイツのシュピーゲル誌より))。

20年前は携帯電話すら使わないと宣言し、やがて携帯のメールは有効と妥協し、さらにスマホは使わないといいながら、4年前のドイツ在外研究中、LINEで日本の教室でのゼミの「最後の15分」のコメントをやっていた。その意味では、私もこの20年間にこの種のツールを活用してきたといえるだろう。だから、SNSの完全拒否論者ではない。ただ、私自身はこれからも、ツイッターとは距離をとっていくつもりである。

週に1度の「直言」更新にこだわる

来月31日に、「直言」の連続更新が1250回となる。4年前に連続更新1000回となった。ブログの更新やツイッターの発信回数からみれば、週に1回、年に約52回の更新など、微々たるもの、遅々たるものに感じられるかもしれない。だが、一本の「直言」に、その間に起きた出来事に関する情報や評価が、それを書いた時の世間や周辺の「空気」と一緒に保存されている。「直言」は、私にとって、記憶と記録の記述として、過去の出来事の「追体験」の一助となっている。

ネット検索をするなかで、「直言」のバックナンバーがヒットして、そこから私の世界に入ってくる人もいるだろう。ただ、思索と検索は違う。検索ばかりやっていると思索がおろそかになる(その傾向について、直言「雑談(88)思索と検索」参照)。たまたまヒットした「直言」からさらにリンクも辿っていくと、いろいろな情報が得られると思う。それをきっかけに思索を深めてほしいと願う。

ところで、アクセス解析によると、私のホームページには1日平均2万から3万のアクセスがあるが、時には6万を超えることもある。2年前に加計学園問題を取材して書いた直言「ゆがめられた行政」の現場へ―獣医学部新設の「魔法」」は1日8万を超えた。他方で、毎日のように一定のアクセス数(三桁)がある個別の「直言」もある。その一つが、日航123便事件関係の「直言」である。2010年に初めてこの問題に触れた「直言」を出してから、昨年のシンポに至るまで、毎日のようにアクセスがある。この問題への密かな関心の高さを感じる。

次に個別の「直言」でアクセスが常にあるのが、直言「靖国神社には行かないよ ― ある特攻隊員の遺書」である。これは13年前に学内で映画の上映会をやったことについて書いた直言「映画「TOKKO-特攻-」を学生と観る」をきっかけに書いたものである。

18年前の直言「ある交通事故のこと―さだまさし「償い」」も、個別の「直言」としては、上記と並んで常に一定数のアクセスがある。これを読んだ人には、直言「「おかえり」といえる社会に」を読んでほしいのだが、こちらはさほどアクセス数は高くはない。さだまさし関連のところに、こちらへのリンクがあるのかもしれない。

「昭恵夫人」でブレイクした2年前の「直言」

最近、突然ブレイクしたのが、直言「「学位」をめぐる規制緩和の「効果」」である。2年前に書いてから今日まで、読者から何の反応もなかった。博士号について詳しく書いているので、「遠い世界」の問題として敬遠されたのかもしれない。しかし、この「直言」の核心部分は、真ん中より下にある。そこを読むと、10年前に昭恵夫人が取得した修士学位が「尋常ではない」やり方で認定されたことが記録されている。論文作成の経過や経緯をよく知り、昭恵夫人の「修士論文中間発表会」にも参加した人物に直接取材して書いたものなので、裏はとれている。ただ、同業者としての「情け」から、審査に関係する細部の情報については、最終的にすべて削った

コロナ禍の自営業者に対する「持続化給付金」の支給事業が、経産省から「サービスデザイン推進協議会」なる一般社団法人に丸投げされ、さらに97%という再委託率で電通が孫請けするという不可思議な状況についてメディアが関心を向けるなかで、この「協議会」の代表理事(2020年6月8日に突然辞任)に注目が集まった。この人物についての取材依頼が、6月上旬、週刊誌と民放のワイドショーからほぼ同時に私のところにきた。2年前の「直言」を記者たちがどこかでキャッチして、私に取材してきたのだろう。「あそこに書いたことがすべてです。あとはご自身で取材してください」とだけ返信した。

親指シフト・キーボードは永遠なり

最後に、来る8月31日に「直言」連続更新1250回を迎えるにあたって、私にとってショックな出来事について述べておきたい。共同通信5月20日配信の記事はこうだ。「富士通は[5月]20日までに、独自の仮名入力方式「親指シフト」のキーボードや関連製品の販売を、2021年5月までに順次終了すると発表した。1980年発売の日本語ワープロに採用して以来、約40年の歴史に幕を下ろす。ローマ字入力しやすい日本産業規格(JIS)配列のキーボードが主流となり、利用者が減少していた。」 私が35年前に出会ったワープロ(OASYS-100シリーズ)以来、私の体の一部となってきた「親指シフト・キーボード」について、生みの親である富士通がこれを見捨てるというのである。「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(在原業平)の心境である。若い世代にとっては「親指シフト」といっても何のことかわからないだろう。50歳以上で、ものを書く仕事にたずさわった経験のある人ならば、これを使った人も少なくないように思う。信濃毎日新聞社の本社展示室には、桐生悠々の机の近くに、かつて記者全員に貸与され、使用されていた富士通オアシスのワープロが展示されている。

JIS配列では、両手の親指が置かれる位置にスペースバーがあるが、親指シフト・キーボードでは左手の親指が置かれる位置に「親指左」、右手の親指の位置に「親指右」というキーがある。親指キーと他の文字キーを同時に打鍵することで、ローマ字入力で数打かかるところを一度に入力できる。例えば、「早稲田」はWASEDA+変換キーと計7回キーボードを叩くが、親指シフトは、親指右変換キーと右薬指で「わ」と打ち、左人指し指で「せ」を、親指右変換キーと左中指の「た」のクロスタッチで「だ」を出して、すぐに親指右変換キーの1打、計4回キーを叩くだけで一発変換である。日本語入力としてはきわめて効率的である。

この特殊なキーボードについて最初に書いたのは、2003年イラク戦争が始まる1カ月前の直言「雑談(22)親指シフト・キーボード」だった。そこでなぜ、親指シフトがいいのかについて、こう書いている。

入力比較

「ローマ字入力だと、脳は無意識のうちに、思考をローマ字に分解して手への指令を出す。他方、「親指シフト」の場合には、頭に浮かんだ日本語がそのままキーボード上で指の運動に変わる。つまり、指に命令を出す系統と、頭のなかで文章を構成していく系統が違和感なく一緒に動いていくわけだ。「親指シフト」の場合、頭のなかで文章があふれるように出てくると、親指を含めた両手が自然に動いてくれる。心に思い浮かんだ文章が、目をつぶっていても文章として画面に再現される。変換キーが直前に変換したものを第一順位で出すから、同じような文章を書いているときは、ほとんど画面を見ないでも文章にできる。これが最大の魅力だろう。文章とその流れを大切にする作家が「親指シフト」にこだわるのもよくわかる。」 やや手前味噌かもしれないが、親指シフトがローマ字入力やJIS入力とどれだけ違うか。右の画像をクリックしてご覧いただきたい。

1990年に富士通のパソコンを導入したが、キーボードは親指シフトにした。しかし、文章はOASYSワープロ専用機で書き続けた。最初のワープロは5インチフロッピーだった(若い世代の人はみたことがないだろう)。文章ができるとこれを3.5インチフロッピーに保存して、富士通ノート型パソコン(OASYSのファイル変換ソフト)でWordファイルに変換してこれをプリントアウトして赤字を入れる。当時、推敲を頼んでいた方から赤字の入ったWordファイルがメールで届く。それを院生などに送ってチェックしてもらい、最終的に管理人がホームページにアップするのである。こうして30年近く、文章を書くときは親指シフトのワープロ専用機を使い続けた(直言「雑談(99)雑談についての雑談」 参照)。

ところで、大学1年から半世紀近い友人であるジャーナリストの高世仁君(ジン・ネット元社長)のブログが親指シフトについて、2012年1月11日のブログで書いている。それを引用しよう。

「…重宝して使っていたら、いつの間にか、ワープロからPCの時代になって、富士通は親指シフトから撤退した。私もあきらめて、ソニーやIBMのパソコンで、ローマ字入力で文章を書くようになった。…親指シフトが優れていることを知ったうえで、ローマ字入力をするのは、ある意味、屈辱的だった。でも、世の中の流れには逆らえないのかなと割り切った。ところが水島は、今も親指シフトをやっているという。…過去が蘇り、よし俺も立ち上がろう!とがぜん盛り上がった。親指シフトのパソコンを売っている『アクセス』という店を水島から教えてもらったので、今度ぜひ行ってみよう。親指シフトに再び栄光を!」。

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私も彼から勇気をもらって、直言「雑談(91)「親指シフト・キーボードに再び栄光を」」をアップした。ところが、2014年の1月頃だったと思うが、「親指シフトがなくなる」という情報が入ってきたのだ。そこで、2014年4月にWindowsXPのサポートが終了するのを前に、その年の1月からワープロ専用機で原稿を書くのをやめて、Windows7のノート型パソコン(親指シフト)を3台購入して、自宅書斎と仕事場と研究室の3箇所に置き、Wordで直接原稿を書き始めた。全国で唯一のオアシス専門店「アクセス」は、親子二代の店主と付き合っている。このサポートがなければ、私の仕事は続かない。著名な作家や脚本家、エッセイスト、大学教授など、名前を出せばすぐにわかる人たちがここの常連である。たまたま早大名誉教授の方がここの常連と知り、「直言」の読者でもあるので一度研究室でお会いした。この店でWindows 10の親指シフトパソコンを複数台ストックしたので、死ぬまで大丈夫でしょうということだった。80歳を超えている方なのだが、親指シフトの使用歴は私よりも長く、大先輩と知った。

富士通は知るべきである。自社が開発した「親指シフト・キーボード」は日本語を使う人々にとって、誇るべき文化遺産である。6年前にこう書いた。「日本語を大切にするがゆえに「親指」を愛する人々を、「マイナーだから」とか「グローバル化のため」などといって切り捨てていいのか。・・・世の中の変化だからといって、採算がとれないからといって、完全撤退は日本語文化に対する冒涜ではないか。富士通は「親指シフト」を開発し、普及してしまった責任がある。」(直言「雑談(106)「親指シフト」が消える?!」)と。

そして、6年前の上記「直言」の結びでこう書いた。「いまこそ、全国の「親指シフト愛好者」(親指シフター)、そして「親指」も習得してローマ字と「両刀遣い」をめざす若い人たちを含めて、「親指シフト」の存続・発展をめざすすべての人が声をあげよう。「万(全)国の親指シフター、団結せよ!」と。

親指シフトのノート型パソコンは2021年3月、キーボードは2021年5月に販売を終えるというので、近々、デスクトップ型も購入する予定である。これで、私のもとに計4台が稼働する。この「直言」が連続更新1500回になるのは2025年頃である。富士通が、親指シフトのノートパソコンのサポートを終了するのが2026年4月とのことなので、それまでは何とかがんばりたい。その後のことはこれから考えていきたい。そうやって、週に1度の連続更新2000回(2035年頃)を目指したいと思う。

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