雑談(124)コロナ禍の雑感2題――対面とオンライン+笹子トンネル事故から8年
2020年12月7日

ロナの感染拡大がとまらない。Go Toのアクセル全開のまま、感染対処ブレーキを踏むという中途半端な愚策が続いている。また、「桜を見る会」事件は、公設秘書の立件から安倍晋三本人への地検特捜部の聴取というところまできた。1年前の直言「安倍政権の滅びへの綻び」で指摘したように、この政権の「綻び」があちこちに生まれている。これに関連してたくさん書きたいところだが、今回は一息ついて、5カ月ぶりに雑談シリーズをお送りする。前回は「雑談(123)「140字の世界」との距離+親指シフト・キーボードの終わり?」だった。今回は、コロナ禍でちょっと立ち止まって、雑感2題である。

コロナ禍の授業・ゼミ

一つはコロナ禍のゼミのことである。先週の月曜日、「直言」の更新も終わったので、朝6時からゼミ23期生(4年生)のゼミ論(卒論)指導をZoomでやった。この期は春学期(前期)のゼミをすべてオンラインで実施していたので、Zoomでのゼミ論指導にも違和感はないようだ。それよりも、なぜ、朝6時という早朝からかというと、ゼミ生の一人が四国の農家にファームステイをしているので、農作業が始まる前の論文指導を希望したからだ。そこから一人30分で11人に応対した(残りは来週)。途中で1時間ほど、ゼミ24期執行部と2021年度の25期生の選考会議をZoomで行った。わがゼミでは、志望者は私にレポート(ゼミで何をやりたいか)を出し、ゼミ生のアンケートにも回答して、私とゼミ生が対等に合議をして採用するか、しないかを決める。教員だけの意見では決まらない仕組みになっている。このやり方を20年以上やってきた(直言「雑談(92)ゼミは「苗床」である」参照)。今回も、そうやって25期生の採用を決定した。昨年まではゼミ論の指導も新ゼミ生採用会議も研究室で対面にて行ってきたから、コロナ禍で初めてZoomという手段を使ったわけである。

その夜、体調を崩して寝込んだ。翌日医者に行くと、特別室で、完全防護服でコロナ対応をされたが、すぐに問題なしとなって通常の診察を受け、薬を処方された。「3日で治ります」といわれた通り、金曜日からは普通に仕事ができるようになった。水曜日の「法政策論」のオンデマンド動画の収録だけを「休講」するだけですんだ。テレビからは、「65歳以上の高齢者と基礎疾患をもつ人のGo To自粛」というニュースが流れていた。世間は開く、大学は閉じたまま。文科省は大学に「開け」と圧力をかける。私の職場も秋学期(10月)から一部対面授業が始まった。

私は300人を超える大講義2つは春学期と同様、オンデマンド動画の収録をやって対応している。冒頭右の写真は1年ゼミ(導入演習)の授業風景である。1年生がレジュメやパワポを用意して報告・討論を行った。左の写真はその教室に向かう入口(3号館)横のコロナ対策プレートである。この写真は、主専攻ゼミ(水島ゼミ)で、300人は入る教室に20人ちょっとで、消毒液でマイクを拭きながら議論する風景である。

だが、東京都の感染者が500人を超えるようになって、私は11月26日からすべてオンラインにもどした。ゼミ2つがある木曜日は10月から出校していたが、それもなくなった。対面で議論できる幸せを2カ月だけ体験した。

対面で話をするという当たり前のことがこんなに愛おしいとは。Zoomの画面越しでは、表情の微妙な動きはよめない。たくさんの顔が並んでいても、こちらの話が届いているのか、反応も感触もわからない。人と人との距離をとるという感染防止の要請を「社会的距離」(ソーシャル・ディスタンス)という言葉でいわれるようになって10カ月近くになる。あと3年少し、教室で授業をやって大学を去るという穏やかな旅立ちは許されなくなった。古稀を3年後に控えた人間が、若い教員と同様にパソコンの前に座りっぱなしで動画を作成し、学生と「画面越し」に語り合う。パソコンの前に座る時間の長さは腰の痛みに連動している。

「そして紺碧の空へ」のこと

そんな時、ある職員の方から、「そして紺碧の空へ/完全版MV オンライン合唱」(作詩・作曲杉山勝彦)という動画を教えてもらった。早大生の文化・芸術サークルをつなぐプロジェクト「SHARP♯」が7月につくり、8月に合唱版がYouTubeに公開された(歌詞は『高田馬場経済新聞』7月8日付参照)。これまでその存在さえ気づかなかった。早速、クリックしてみた。流れてくる歌詞が、いちいち心に響く。思わず涙腺が緩んだ。

・・・「画面越しに見た君」への思いをつづり、「やりたかったことは叶わないままに季節だけが足早に過ぎる」不安を語り、「思い起こせば行きたかった場所はただの大学ではなかった。 だから君と出逢えた」「仰ぎ見れば紺碧の空 離れても変わらないんだ 歩きだして 夢を描こう ひとり ひとつ早稲田の空へ…」。4分35秒ほどだが、学生たち(特に受験生からようやく大学に入ってきた1年生)の思いがストレートに伝わってくる。これは教員、職員、さらには生協、地域商店街の皆さんなど、みんな同じ思いだろう。コロナを克服して、早く「大学」を復興させたいと心から思う。

中央道笹子トンネル事故から8年

8年前の12月2日は日曜日だった。八ヶ岳の仕事場で直言の原稿を書いていた。7時に出る予定にしていたが、原稿が書きあがらず、出発を10時までのばした。9時からのNHK日曜討論を流しながら執筆を続けた。野田佳彦内閣の「バカ正直解散」「やけくそ解散」「捨て身解散」と呼ばれる衆議院の解散により、この日の日曜討論は総選挙に参加する11政党の代表が出演し、「日本未来の党」(副代表森ゆうこ)、「新党改革」(代表舛添要一)もいた。野党側の席は左側二段になるという異例のスタジオ配置だった。司会は、この3年後の安保法案の際に不公平な司会進行をやった島田敏男解説委員だった。民主党(当時)の長妻昭・選挙対策本部事務局長代理(政策担当)の発言中だった。突然、画面上にトンネルの入口から煙が立ち上る映像が出てきた。何だろうと見ていると、司会者が「ここでニュースです」と言って、発言を止めたのである。選挙前の政党討論会ではあり得ない仕切りだった。しかし、すぐに全員が納得することになる。山梨県大月市笹子町の中央自動車道上り線笹子トンネル(82.6キロポスト付近)で、天井のコンクリート板が約130メートルにわたって落下し、走行中の車数台が巻き込まれ、9人が死亡する大事故が発生していたからである。

この日に書いていた「直言」は、「3.11と総選挙――岩手県沿岸部再訪 2012年12月3日」の原稿だった。その1カ月前に岩手弁護士会の講演のあとに陸前高田市などを訪れたときのことなどをもとに執筆していた。地名などの確認に時間がかかったのが幸いした。もし、7時に出ていたら、崩落事故が起きた時間に現場に差しかかっていた可能性が大きい。立命館大学での講演に早めに向かう予定にしていたので、一気に初狩サービスエリアまで走っていたはずである(手前に笹子トンネルがある)。

なお、笹子トンネルは、事故後17日たった12月29日から片側交互通行が始まり、この写真は私が2013年1月7日にトンネル内で撮影したものである。2月8日に全面開通したので、この笹子トンネル内での片側交互通行はレアな映像である(直言「雑談(99)雑談についての雑談 」)。

「笹子トンネル天井板落下事故」は、先週の月曜日、12月2日に8周年を迎え、テレビや新聞でも取り上げられたのでご記憶の方もあろうかと思う。上記の写真は「笹子トンネル事故」で画像検索をかけてスクリーンショットで切り取ったものである。私にとって、この事故は自分の命が危うかったかもしれない事故として、決して他人ごとではないのである。たまたま通過して巻き込まれた9人の方のご遺族の無念はいかばかりだろうか。改めてお悔やみ申し上げたい。

直言「還暦の年を迎えて」は、こう結んでいる。「出発を3時間遅らせて、命拾いすることになって思う。人は生かされている。毎日、毎日を、その日だけと思って真剣に過ごす。還暦を迎え、残りの人生、精一杯生きようと決意を新たにしている。」と。

焼き切れたタイヤキャップのこと

あと3年で古稀を迎えるに至ったが、これまでも車絡みで命拾いしたことが何度かあった。直言「雑談(102) 焼き切れたタイヤキャップの思い出」でも書いたが、この写真のキャップは、イタリアのピサからドイツのボンまで1日1100キロ走った時に通ったスイスの大トンネルのなかで、死と向かい合わせの体験をした「証人」である。「身代わり鈴」というのがあるが、これはいわば「身代わりキャップ」として、私の鞄の奥にいつも忍ばせている。私が死んだ時、棺桶に一緒に入れてもらうのは「親指シフト・キーボード」と、この「焼き切れたタイヤキャップ」になるだろう。

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