チェルノブイリ原発事故から35年――フクシマからの視点
2021年4月26日

逐次投入の愚――旧日本軍の「失敗の本質」

度目の「緊急事態宣言」(特措法32条)である。聖火リレー開始のために早々に二度目の「宣言」を解除して感染拡大につながった失敗の総括もなしに、菅義偉首相は国民に、先の見えない、さらなる負担を求めている。特に今回は「酒類提供飲食店」の休業要請がポイントだ。「どこまで続くぬかるみぞ」。安倍・菅「大本営」の科学的根拠なき精神主義が失敗するのは目に見えている。今回新たに加わったのが、「灯火管制」と揶揄されるような施策である。

小池百合子東京都知事は4月23日の記者会見で、午後8時以降は街灯を除き、店頭などの照明を消すよう要請すると明らかにした。この速報が流れると、ツイッター上では「灯火管制」が上位にあがった(『毎日新聞』4月24日付3面)。「灯火管制」とは、防空法の「逃げるな、火を消せ」と同様にまったく効果はなく、「国民生活の統制という内向きの狙い」が主だった(なお、直言「わが歴史グッズの話(12)灯火管制」参照)。「禁酒令」(酒類提供飲食店の休業要請)と「灯火管制」は、三度目の「緊急事態宣言」を象徴する言葉となるだろう。

チェルノブイリ原発事故から35年

今日、4月26日はチェルノブイリ原発事故から35周年の日である。旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発で史上最悪の事故が起きた。大量の放射能が放出され、最初の放射能の雲は西から北西方向に流れ、ベラルーシ南部を通過してバルト海、さらにはスウェーデンにまで達した。5月上旬にかけて北半球のほぼ全域で異様な放射能値が観測された。事故2年目の時点でドイツを訪れたときの話は『信濃毎日新聞』1988年7月1〜5日付に書いた。10年前の「3.11」(東日本大震災・福島原発事故)の翌月、直言「原発のない社会へ―チェルノブイリから25年に」を出して、この4回連載を紹介した。

チェルノブイリ原発事故を契機に書かれた『危険社会―新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年)はよく知られているが、その著者である故・ウルリッヒ・ベックは、「3.11」直後に公表した評論「フクシマでは安全神話も燃え尽きた(verglüht)」のなかで、「「フクシマ」後においては、これまで原発の安全性について語られてきた理由づけは、ことごとく疑われることは避けられない」と喝破している(直言「想定外という言葉―東日本大震災から1か月」参照)。

昨年の直言「「幻の東京五輪」再び―フクシマ後9年、チェルノブイリ後34年の視点」でも書いたように、ヨーロッパの人びとの感覚からすれば、1986年のチェルノブイリ原発事故では、300キロ圏内が高度の汚染地域となったが、東京は「250キロしか離れていない場所に、炉心溶融と建屋爆発事故を起こし、手がつけられない状態にある原子炉3基と、1500本の核燃料棒がある都市」である。ドイツには「東京2020:放射性オリンピック」反対の運動があり、そのドイツ語圏に向かって、20人の日本人研究者(私もその一人)・作家が「どうか日本には来ないでください!」という呼びかけを行い、現地の新聞に紹介されている。33年前に訪れたドイツ・バイエルン州ヴァッカースドルフという小さな村は、使用済み核燃料再処理施設建設反対の象徴となった。計画中止に導いた大きな動機は、チェルノブイリ原発事故だった。チェルノブイリと「3.11」がドイツをして脱原発の方向に舵を切らせたのである。

私自身は旧スターリングラード(ヴォルゴグラード)を訪れたことがあるが、そこから直線で約500キロ(東京−岡山)のチェルノブイリまでは行ったことがない。福島県立大学教授(憲法学)の藤野美都子さんは2011年11月にチェルノブイリ原発を訪れている。そこで、藤野さんにお願いしてこの「直言」のために寄稿していただいた(写真もすべて藤野さん撮影)。2011年4月の東日本大震災の現場取材の際には、1日だけ同行していただき、福島の事情についてお話をうかがったことがある(直言「大震災の現場を行く(1)―郡山から南相馬へ」参照)。なお、藤野さんは東京五輪の聖火リレーが福島から出発することについて、昨年5月の段階で、これに批判的な意見を公にされている

チェルノブイリ原発事故の現場を訪れて
―フクシマからの視点―
藤野美都子(福島県立医科大学医学部人間科学講座教授)


チェルノブイリ事故は「隣の火事」

私は2011年11月、チェルノブイリ原発事故を調査する「ベラルーシ・ウクライナ福島調査団」(団長・清水修二福島大学経済学類教授)に参加して、チェルノブイリ原発を訪れた(2013年には、清水教授が企画したドイツ・デンマーク調査にも参加)。百聞は一見に如かず。「対岸の火事」としてすら認識できていなかったチェルノブイリ原発事故が「大火事」であったこと、さらに「対岸の火事」ではなく「隣の火事」であったことを痛感した。ベラルーシでは、事故から25年が経過した時点でも、原発事故により汚染された区域に住む150万人を対象とする健康診査が毎年行われている。上記の汚染状況を示す地図の写真をみると、深刻さがより理解できるだろう。汚染区域で学ぶ子どもたちのために非汚染区域で保養プログラムが実施され、放射能で汚染された食物(ミルク、キノコ、野生動物など)を住民が摂取しないよう、地域情報センターできめ細やかな啓発活動が展開されていた。食品用の放射能測定器が住民の利用に供され、農地の汚染状況を調べた上でセシウムの移行率が低い作物を選びながら、農業が営まれていた。

チェルノブイリ原発では、事故後急造された4号炉を覆う「石棺」の老朽化が進み、耐用年数100年の新シェルターの建設が進められていた(2016年に完成、2019年から正式稼働)。破壊された4号炉の処理については、100年の間に新技術が開発されることに期待したいというのが現地担当者の説明だった。写真は「石棺」の前に立つ調査団メンバー(右から二人目が団長の清水教授)である。

2013年の調査で訪問したドイツのオブリヒハイム原子力発電所でも廃炉作業が行われていたが、作業中に放出される放射性物質に対する懸念から、住民の廃炉作業反対運動に直面していた。安全に運転を停止した原発の廃炉作業ですら、困難を極めることが分かっており、チェルノブイリ原発の廃炉作業の見通しが立っていない状況を踏まえると、福島第一原発の廃炉作業が、東京電力が説明するように40年で終了する可能性は低いと考えられる。

チェルノブイリの教訓「30キロ圏」

チェルノブイリ原発から30キロ圏は、放射線量が高く、原則として立入禁止とされていた。これは30キロ圏検問所のゲートである。日本が、チェルノブイリ事故の教訓から学んでいれば、防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲(EPZ:emergency planning zone)は、30キロ圏と設定されていたであろう。ところが、福島第一の事故前に原子力安全委員会が策定していた防災指針「原子力施設等の防災対策について」では、EPZの範囲は8〜10キロとされ、原子力安全・保安院は、「あえて技術的に起こりえない事態をも仮定し、十分な余裕を持って原子力施設からの距離を定めたものであ」り、この範囲の外側では屋内待避や避難等の防護措置は必要ないことを確認し、過去の事故との関係も検討して定めたものであると説明していた(旧原子力安全・保安院HP「防災対策について」)。

ここで言及されている「過去の事故」とは、日本で初めて住民に避難や屋内待避が要請された1999年の東海村JCO臨界事故を指す。この事故を受け、原子力災害対策特別措置法が制定され、新たな防災指針が策定されたが、チェルノブイリ級の過酷事故を想定してはいなかった。福島県では、1979年のアメリカ・スリーマイル島の原発事故以降、原子力災害対策計画、現在は福島県地域防災計画(原子力災害編)が策定され、防災訓練も実施されてきた。だが、2008年に特措法13条に基づき実施された原子力総合防災訓練は、半径2キロ以内の全方位を避難区域とし、風下3方位5キロ以内を屋内待避区域とするものでしかなかった。福島の事故直後、20キロ圏に「避難指示」が、20〜30キロ圏に「屋内待避指示」が出された。避難訓練も経験していなかった住民たちは、十分な支援も得られないまま避難を余儀なくされたのである。この範囲外で線量の高かった飯舘村等に至っては、4月22日になり計画的避難区域と指定され、その後避難することとなった。入院患者や施設入所者、自宅等における重症患者、重度障害者等の避難は困難を極め、60人以上人々の命が奪われた。

原子力安全委員会は、初期被ばく医療機関は原子力施設近隣であることが望ましいとしていた。初期被ばく医療機関の指定を受け、事故時の患者受入れの防災訓練を行っていた原発周辺6病院のうち4病院は、事故後、すべての入院患者を短時間で避難させなければならないという予期せぬ事態に見舞われた。チェルノブイリの「30キロ圏」の発想がない日本の避難計画の不備が、人命を左右したのである。

汚染された飲食物の摂取

ベラルーシの非常事態省、国立放射線医学・人間生態研究所(写真参照)およびウクライナの放射線医学研究所におけるレクチャーと質疑応答では、多数の医学の専門家から、長期にわたる住民の健康診査の結果を基に、放射線被曝による健康影響に関する説明があった。いずれにおいても、若年者における甲状腺がんの発症率が上昇したという説明があった。汚染された食物、特にミルクを摂取したことによる内部被曝の影響が大きいという。福島の住民に対しては、食物摂取による内部被曝のコントロールが重要であるとの助言があった。なお、福島では、原子炉本体が辛うじて維持され、チェルノブイリほどには大量の放射性物質が拡散しなかったこと、事故直後から、食物の摂取制限が行われたことから、ベラルーシやウクライナのような健康被害が発生することは予想されないということであった。

福島の事故前、原子力安全委員会の策定した指針は、汚染された飲食物を摂取するまでには時間がかかり、通常、対策までに時間的余裕があると考えられるので、緊急時モニタリングの結果を参照して、摂取制限を決定するとしていた。災害対策本部が飲食物の摂取制限措置を講ずることが適切であるか否かの検討を開始するめやすとして、「飲食物制限に関する指標」は示されていた。しかし、原子力安全・保安院は、アメリカのスリーマイル島事故の際にも、JCO事故の際にも摂取制限は行われませんでしたと説明していた(旧原子力安全・保安院HP「原子力防災について」)。事故後の3月17日、厚生労働省が暫定規制値を設定し、3月21日から食品の出荷制限が実施された。かなり厳しい基準であったにもかかわらず、この暫定規制値は、人々の信頼を得ることはできなかった。

記憶の伝承

事故後25周年を記念してつくられたチェルノブイリ記念公園の遊歩道には、事故により廃村になった村の名前が記された168のプレートが並ぶ。冒頭右の写真は、公園内にある「Fukusima」(ママ)のモニュメントである。

キエフにあるチェルノブイリ博物館は、チェルノブイリの事故を記憶し、来館者に事故の全貌を理解してもらうことを使命として、1992年に開館した施設である。アンナ・コロレフスカ副館長から、館内を案内していただいた。冒頭で、チェルノブイリ原発は、核兵器用のプルトニウムを製造する軍事施設であり、発電施設であり、原子力技術の実験施設であったという説明を受けた。「原子力の平和利用」あるいは「原子力の商業利用」という言葉に惑わされていた自分を恥ずかしく思った。事故後の民主党政権、自公政権がともに、原発の輸出と再稼働を急いだ背景には、経済的な考慮があったであろう(伊藤光晴『原子力発電の政治経済学』岩波書店、2013年参照)。しかし、政府が原発にこだわる背景には、軍事的な側面があることにも留意する必要があろう。事故後、発電所としての原発の必要性に疑問が呈されるようになると、「核武装の技術的・産業的な潜在力を保持することの重要性が、少なからぬ論者によって強調されるようになった」と指摘されている(吉岡斉「原子力防災の失敗から何を学ぶか」鈴木一人編『技術・環境・エネルギーの連動リスク』岩波書店、2015年53頁)。核兵器による甚大な被害を体験した日本が、核兵器のために原発を維持することの非倫理性が問われよう。

チェルノブイリからフクシマへ

チェルノブイリ調査の最終日、原発従業員のために1970年に建設された街プリピャチの元住民の方たちを中心メンバーとする市民団体ゼムリヤキの皆様が、福島調査団を暖かく迎えてくれた。タマラ・クラシツカヤ代表は挨拶の中で、「私たちは、事故により住み慣れたプリピャチを離れ25年になります。福島の皆様の気持ちを一番理解できると思います。」と語った。懇談の中で強く印象に残ったのは、「皆様は、原発の事故のことを直後に知ることができ、私たちよりずっと恵まれています。私たちは、大事故だということを知らされず、すぐに帰ることができるものと思い、4月27日に避難したのに、その後25年間帰ることができなかったのですから」という話だった。たとえパニックが起こったとしても、真実を知りたかったという切実な訴えである。チェルノブイリ博物館に展示されていた1986年4月29日付のウクライナ議会発行の新聞では、3面の片隅に、チェルノブイリ原発で事故があったとの小さな記事が掲載されていた。ウクライナの多くの人々には、事故の情報が伏せられたまま、5月1日のメーデーの式典が行われた。なお、4月29日の朝日新聞は、一面トップで「ソ連で原発事故か」という記事を掲載していた。チェルノブイリ事故後、ベラルーシでは、人々の理解が十分に得られるよう、住民との対話を重ねながら丁寧に情報を伝達するようにしてきたという説明があった。

ベラルーシ・ウクライナ調査を通じ、私たちは、チェルノブイリ事故の教訓を活かすべきだったにもかかわらず、その機会を逸したまま、福島の事故に直面してしまったこと、遅きに失したとはいえ、まだまだ学ぶべきことが多いことに気付かされた。事故を経験した私たちは、福島の教訓を、世界にさらに後世に、伝えていかなければならない。

原発にかわるもの

なお、2013年のドイツ・デンマーク調査を通して、再エネの可能性について考えることができた。ドイツは、福島の事故直後、政策を転換し、2022年末に脱原発を実現することとなった。電力全体に占める原子力の割合は2010年の22%から2020年に11%に低下、風力や太陽光などの再エネの割合は17%から45%に上昇した(日本経済新聞2021年3月10日配信)。また、デンマークは、チェルノブイリ事故の前の1985年、「原子力発電に依存しない公共エネルギー計画に関する国会決議」により、再エネによる社会づくりを始めていた。調査先のリンクービングでは、廃棄物を燃料とする熱供給会社、風力発電機製造企業のべスタス社、さらに、海岸に巨大な風力発電機を設置しているリンクービング風力発電所組合を訪れた。ドイツと同様、国を挙げて、再エネを推進していること、そして、人々が、少々の不都合を乗り越え、再エネを積極的に活用していることが分かった。

震災後、全村避難となった飯舘村で再エネに取り組んでいる飯舘電力を、毎年、学生たちと訪れているが、将来の経営見通しは明るくはない。再エネを展開する際に様々な規制権限に阻まれ、なおかつ国や自治体による再エネ振興策も不十分で、厳しい経営を余儀なくされている。事故を経験した日本だからこそ、再エネへの政策転換が必要とされているのではないだろうか。ドイツやデンマークから学ばなければならないことが多く残されている。

2018年7月、第5次エネルギー基本計画が閣議決定された。原発をベースロード電源と位置づけ、2030年時点で、原発は全電源の20%〜22%を、再エネは22%〜30%を賄うものとされている。事故から10年、避難指示区域の見直しが行われたものの、大熊町や双葉町などには広く帰還困難区域が残り、3月10日現在、35,478人の人が県内外で避難生活を送っている。これだけ大きな被害が生じているにもかかわらず、日本は脱原発へと政策転換を図ることができなかった。のみならず、自民党電力安定供給推進議員連盟は4月23日、脱炭素化に向けた政府方針を「渡りに船」と、原発の新増設まで提言している(『東京新聞』4月24日付)。

放射能汚染により、避難により、原発での作業や除染作業により、生命や健康に対する権利、生存権、環境権、居住、移転、職業選択の自由、勤労の権利、財産権、営業の自由、教育を受ける権利などが侵害された。また、原発が潜在的な核兵器保有と結びつくならば、原発の存在そのものが、戦力不保持を定める憲法9条に違反し、テロや武力攻撃の対象となりうるならば、憲法前文の平和的生存権にも反するといえよう。憲法を護り、活かすためには、脱原発へと社会を変えていかなければならない。

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