「安全・安心」五輪の危うさ――コロナ対策迷走の背後に
2021年5月10日

3回目の「緊急事態宣言」(新型インフルエンザ等対策特措法32条)は明日(5月11日)が期限だったが、5月31日まで延長された。「検証なき緩和」「出口なき延長」(『東京新聞』5月8日付)、「政府、対応ちぐはぐ」(『毎日新聞』同)という見出しに象徴されるように、政府のコロナ対策の迷走は誰の目にも明らかになった。

5月7日、大阪府門真市の高齢者施設で集団感染が発生し、44人の入所者のうち13人が死亡したというニュースは衝撃的だった(『毎日新聞』5月7日)。入院先が決まらずに施設内で「療養」していた人が多く、医療崩壊の象徴といえる。1年前の今頃、直言「この国は「放置国家」になったのか―安倍政権、迷走の果てに」をアップして、まともに検査もせず、患者を放置する状況(「発熱37.5度以上4日間」厚労省事務連絡2020年2月17日の機能)に怒りの文章を出したが、1年たって、病床がなく、入院もできずに自宅や施設に放置され、命を奪われる状況になってきたようである。

この日、「緊急事態宣言」の延長を発表した菅義偉首相の記者会見は、官房長官時代の「まったく問題ない」路線のままだった。それどころか、ワクチンは「1日100万回の接種を目標とし、7月末に希望するすべての高齢者に2回の接種を終わらせる」という大本営発表のようなことを口走った。現在、ワクチン接種率は世界最低ランクである。5月8日現在で約300万回にすぎず、今後、1日100万回にするというのは、何の根拠があっての数字だろうか。

メンツにこだわるトップによる悲劇

国家の政策の手段としての戦争が一旦始まると、それを止めることは容易ではなく、トップの過度の思い入れや思い込み、思い違いが重なって、大きな失敗につながることは歴史上、枚挙のいとまがない。日本政府のコロナ対策は、第2次世界大戦の「ノモンハン」「ガダルカナル」「インパール」などに例えられるが、私は1941年の改正防空法を想起する。それは、直言「「緊急事態宣言」はなぜ失敗したか―コロナと焼夷弾」で書いた。「兵力の逐次投入」の愚、指揮命令系統の混乱、独断専行と「幕僚統帥」(官邸の補佐官主導)等々、コロナ危機を戦争に例えるべきではないことは重々承知の上で、あまりにも似ているのに驚くばかりである。

「一将功成りて万骨枯る」という言葉があるように、過去の戦争もその繰り返しだった。第一次世界大戦のヴェルダンの戦いは、1916年2月からの300日間で、独仏軍合わせて30万人以上が死亡し、40万人が負傷した。典型的な出血消耗戦で、両軍ともに大量の兵士を十分な作戦計画もたてずに泥縄式に投入して損害を増やしていった。戦いの意味を総司令官のヴィルヘルム皇太子もよくわかっておらず、上から下まで無意味の常態化だった。冒頭左の写真は、5年前にヴェルダンを訪れた時に撮影したものである。塔の上からみた墓標群に言葉を失った。トップの思い込みとメンツで、たくさんの命が失われた(直言「「戦争に勝者はいない」ということ―ヴェルダンで考える」参照)。医療崩壊によって死に追いやられた患者たちの墓標と重なる。

迷走の原因は3つのメンツ

なぜ、かくも安倍・菅政権のコロナ対策は迷走するのか。それは3つのメンツに呪縛されているからである。①「五輪メンツ」、②「Go Toメンツ」、③「政権メンツ」である。

菅首相の場合、とにかくオリンピック開催をレガシーにしたいという安倍晋三前首相の思いを引き継いだものの、安倍ほどの思い入れもない。ただ、始めたものを自分の決断で止めることもできないで、ダラダラとここまできたのではないか。3月21日の2回目の「緊急事態宣言」解除は、明らかに3月25日からの聖火リレー出発式に合わせたものだった。対応の遅れやちぐはぐには、何らかの形で「五輪メンツ」が影響しているように思う。日本看護協会に対し、五輪開催期間中、看護師500人をボランティアとして派遣するよう要請するというのも、ワクチン接種の加速という方針に逆行する、普通なら考えられない対応である

「Go Toメンツ」については、旅行・飲食・イベントなどの需要喚起策として2020年度補正予算案を盛り込み、1兆7000億円近くがあてられたが、これはコロナで外国人観光客が途絶えた穴埋め以外に安倍政権には消費経済対策がないという長期的・構造的な無策がもたらしたものだった。二階俊博幹事長が全国旅行業協会会長ということもあり、感染拡大のなかできわめて安易かつ安直に業界団体の突き上げに屈したものといえる。昨年12月のGo To一次停止の時も、ダラダラと無様だった。「Go Toメンツ」は人の命と経済をパラレルに考えるやり方である。

医系技官だった尾身茂氏がコロナ対策の「専門家」のトップにいる限り、この国のコロナ対策の迷走は続くのではないか。昨年7月16日の経団連夏季セミナーで尾見氏は、Go Toキャンペーンについて、「旅行にいくことで感染をするのではなく、旅行先で3密になることで感染の可能性が高まる」と述べ、Go Toを止めなかった。本来なら徹底した感染防止を助言すべき専門家が、政治家のように命と経済の「両立」を語ってしまう。尾見氏のような忖度・元医系技官が「専門家」のトップに居すわる不幸を思う。

菅首相にとっての最大の問題意識は、「政権メンツ」であろう。3月25日夜に決断した、東京・大阪でのワクチン集団接種を自衛隊主軸に行うという思いつきは、当日夜に判明した衆院北海道2区、参院の長野、広島選挙区での補欠選挙の全敗の結果を受けてのことだった。総選挙で敗北しないために、何とか「やってる感」を演出したい。そのための準備不足の思いつきだったため、自衛隊の医療現場は混乱している。通常の災害派遣のようなマンパワーではなく、医官(昔の軍医)1176人と看護官約1000人の任務である。彼らは自衛隊中央病院と全国15の地区病院や5方面隊の衛生隊、師団(旅団)後方支援連隊(群)衛生隊に配置されている。全国各地から霞が関の合同庁舎3号館に集合させるため、ローテーションや配置計画は困難を極めるだろう。ワクチン接種要員を確保するためだけの安易で簡易な発想である。選挙に全敗したことで、首相補佐官あたりから耳打ちされて決断したものだろう。昨年2月27日の安倍前首相による全国一斉休校要請の愚策を想起させる。まさに「政権メンツ」である。

「令和の灯火管制」――手段の暴走

4月25日、小池百合子都知事は、夜間の人出を抑える対策として、午後8時以降、屋外のネオンサインや店舗照明を落とすよう呼び掛けた。『東京新聞』はこれを「令和の灯火管制」と報じた (5月1日付「特報部」に私のコメントあり)。だが、繁華街の明るさに、さほど大きな変化はなかったという。「防空訓練と同様、灯火管制もまた、「無意味」なことの繰り返しを強いることで、市民の不満を抑えるという付随的効果を伴ったことは否定できない。燈火管制は、米軍に対するよりも、むしろ国民生活の統制という内向きの狙いもあった」(拙稿「地上の暗黒―燈火管制と法」参照)。感染防止という目的のために必要かつ合理的な手段なのかどうか。ネオンサインを落とせば、飲み屋に行く足が鈍ることを期待してのことだが、むしろ、防犯上どうなのかという疑問も残る。電車の終電を早めるのも、飲み屋での時間を短くさせる狙いだが、これは看護師が夜間勤務を終えて帰宅する足を奪うのかという批判も出た。効果がないことは自分たちでもわかっている、思いつき的施策である。なお、灯火管制グッズについては、直言「わが歴史グッズの話(12)」参照のこと。

連休あけに鉄道各社がコロナ対策として減便を行ったが、ホームが大混雑になって、乗車率180%もでるなど、たくさんの「密」が生まれ、すぐに中止された(『読売新聞』5月6日デジタル)。この日、私も新宿駅で混乱に巻き込まれたが、ネット上には通勤客の怒りの言葉が並んでいた。減便要請は内閣官房主導で、鉄道業界を所管する国土交通省鉄道局(鉄道事業課あたり)との事前調整なしに進められたという。驚くべきことである。

この表は、「コロナとの戦い、前言撤回繰り返す首相 国民に響かぬ「軽い言葉」」という見出しで、菅首相の記者会見を報じた際のものである(『西日本新聞』5月8日(デジタル))。安倍前首相と同様、言葉だけが踊っている。菅首相が好んで使う「安全・安心なオリンピック」というフレーズも、ここにきてジョークのような響きさえもってきた。

「安全・安心」の危うさ

4月16日の日米共同声明には、「今後に向けて」の部分で、「バイデン大統領は、安全・安心なオリンピック・パラリンピックの開催のための菅首相の努力を支持する」という文言が入っただけである(正文外務省訳)。「菅首相の努力を支持」という表現は、自らの主体的な関わりは曖昧にしている。「安全・安心な」(safe and secure)五輪とは何か。名詞化すれば、safetyと securityである。両者は「安全」と訳すが、意味が違う。前者は「一般的な安全」である。危険がない状態(not in danger)ということである。それに対して、securityは、何らかの危険や脅威から守るという意味で、protection from dangerである。五輪組織委員会「安全・安心な大会開催に向けて」を見ても、「安全・安心」が多用されている。

私は「安全・安心」という言葉は使うべきではないといってきた。日本語の場合、「安全」の対語は「危険」であり、これは客観的なものである。それに対して、「安心」の対語は「不安」であり、主観的性質が強い。10年ほど前の「直言」で、こう書いている。「安全でなくても、偽りの安全情報で安心に感じることもあれば、客観的に安全でも、安全だと言う者を信頼できない場合には不安に感じることもある。確かに、「安全」と「安心」は関連するが、「・」で「安全・安心」と一括りにできるほど、両者は常に連動していないし、果たして連動させてよいものなのだろうか。」(直言「「安心保障」の先に何が―「安全・安心社会」の盲点(その3)」)と。

「安全・安心な東京五輪」に対して、筑波大3年で、昨年12月まで大学新聞の記者として東京五輪・パラリンピックの選手や関係者を取材した学生が、「安全・安心の東京五輪の前に…大学生が感じる優先順位」という記事で次のように述べている(『朝日新聞』デジタル2021年2月5日)。

「…そんな状況で、五輪といわれても難しいのかな、というのが正直な感想です。五輪は国民の生活よりも優先すべきものではない、と思うからです。まずは生活を立て直すのが先ではないでしょうか。昨年12月、大学新聞の企画で、筑波大生に東京五輪・パラリンピックの開催の賛否を問うアンケートをしました。私が聞いた5~6人のうち、ほとんどが開催に否定的な意見でした。スポーツ好きの体育系の学生でも「国内でも移動を控えているのに、多くの外国人を迎えるのは危険では」と不安を抱えていました。

周囲には新型コロナウイルスの影響で飲食店がダメージを受け、アルバイトができなくなった学生もいます。大学は一人暮らしの学生に支援金を出したり、食堂のチケットを無料で配ったりして助けてくれています。音楽系のサークルは公演も開けず、満足に活動ができていません。こうした人たちを置き去りにして大会を開催するのは違うのかなと思います。

スポーツ好きで、高校まで陸上部に所属していた私は、五輪をとても楽しみにしていました。でも、優先順位としてまずは国民の生活が担保されること。「安全・安心の大会」の前に、安全・安心な暮らしがあるべきだと思います。」

正論である。「優先順位」を間違えた安倍・菅政権のコロナ対策に、国民の怒りは高まるばかりである。

医療関係者のウィンドウ・デモ

冒頭右の写真は、東京・立川相互病院の窓に貼られたメッセージをスクリーンショットにしたものである。コロナ患者を受け入れているこの病院の窓に、4月末から「医療は限界」「五輪やめて!」「もうカンベン」「オリンピックむり!」という紙メッセージが貼り出されている。急増する患者への対応で医療現場が逼迫するなかでの「ウィンドウ・デモ」といえる。『朝日新聞』デジタル5月7日によれば、コロナ対応のため、救急車の受け入れ要請に応えられる割合も、昨年1~3月の80%から、今年1~3月は55%にまで激減したという。「各病棟ともギリギリの人員配置で、疲労のために退職が出れば、将棋倒し的に医療崩壊につながりかねません」という院長の言葉を拾う。メッセージが貼り出されると、病院の写真がSNS上で拡散された。この窓に出された言葉は、全国の医療関係者の気持ちを代弁しているからだろう。

だが、この政権は国民が苦しみをよそに、「コロナのピンチはチャンスに」(下村博文政調会長)(『朝日新聞』5月3日)と、憲法改正に踏み込もうとしている。「改憲メンツ」にこだわる人々による「惨事便乗型改憲」に要注意である(直言「究極の「不要不急」は憲法改正―日本国憲法施行74年」参照)。

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