日本学術会議問題の本質は何か――ニコラウス・クザーヌス「専門家-素人」相関の視点から
2021年11月15日

安倍政権発足9周年を前に

3番目に低い投票率の総選挙が終わり、わずか2週間でこの国の風景は様変わりした。来月26日で、“日本を取り戻す。”を掲げた「憲法突破・壊憲内閣」の発足から9年になる。先週発足した第2次岸田内閣は、「躊躇なく」「スピード感」をもって、この路線を押し進めていくことが明確となった。総選挙のための「壮大なる事前運動」として機能した自民党総裁選。そこで掲げた「新自由主義からの転換」「所得倍増」「金融所得課税の強化」などの看板は、ことごとく外された。岸田派の議員(茨城6区で当選)が、最も古典的な選挙違反(集団買収)を行った疑いが出てくる一方、「18歳以下への10万円給付」等々、来年の参院選に向けた高度の国家的「集団買収」とでもいいたくなるような施策も始まっている。安倍流「5つの統治手法」(「情報隠し」「論点ずらし」「争点ぼかし」「友だち重視」「異論つぶし」)と、憲法53条後段(臨時国会の召集義務をはじめ、気にいらないルールには従わない「前提崩し」的手法が定着してしまったようである。「政治的仮病で政権を投げ出した人物が、わずか1年ちょっとで、最大派閥のトップになるところまできた。2週間前までは想像しなかった風景である。研究者の「頭脳流失」はこれからも続き、「こんな日本に帰りたくないという人も増えてくるかもしれない。

  日本学術会議事件から1

ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんは、「政府が、日本の学術会合の言うことを聞いているかどうか。…いろんな学者がいろんな意見を持ってても、それが政府の行動に影響を及ぼしていますかねえ。」という苦言を呈したが、日本学術会議会員任命拒否事件は、まったく進展のないまま1年が経過した。「日本学術会議の推薦に基づいて」という日本学術会議法72項の定めはきわめて重く、任命権者の判断が入る余地のない形式的任命行為として運用されてきた。ところが、菅義偉首相は国会で、6人の任命拒否の理由を一切明らかにしないまま、「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した」と、何度聞かれても同じ言葉で応ずるという「芸」に徹した(冒頭右の写真参照)。私はこれを「攻めの論点ずらし」と評した(直言「学問研究の自由の真正の危機参照)

この6教授任命拒否事件の背後には、戦後70年にあたる2015年に安倍政権が、軍事研究を「安全保障技術研究」と言い換えて、研究費にあえぐ研究者を誘い込む動きに出たことと無関係ではないだろう(直言「科学者が戦争に協力するとき―「科学技術非常動員」文書から見えるもの)。最新の雑誌『世界』(岩波書店)12月号の特集「学知と政治」において、任命を拒否された6教授がそれぞれの切り口からこの問題を論じている。いずれも、日本の学問研究の状況への危機感にあふれる論稿であり、熟読に値する。そのなかで、加藤陽子東大教授は、科学技術基本法が25年ぶりに改正されて、「科学技術・イノベーション基本法」(202041)となったこととの関係に注意を促す。従来の理系の研究者だけでなく、人文・社会科学系の研究者を含めて「研究者を取り込もうと図る国家の意志が尋常ならざる様相を見せていた時期に、本問題は起こった」と指摘して、学術会議内部の議論とその経過を詳細に跡づけて、問題の本質を浮き彫りにしている。

岸田首相は、「無知の無知」の突破力を起動力として、憲法や法律、従前の解釈などの「岩盤」を次々に破壊してきた安倍・菅政権を継承した。今後は、独立性を与えられた機関の人事や運営を含めて、「躊躇なく」介入していくのだろう。日本学術会議法の改正も視野に入ってくるだろう。どの分野でも、イエスマンだけの「専門家」たちが「素人」の権力者を正当化する風景が日常化し、「構造的忖度」が徹底されていく。1031日の総選挙は、結果的に、そうした方向に「お墨付き」を与えてしまった。

 八巻和彦教授のこと

さて、今回は少しアングルをかえ、中世の哲学者ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus 1401-64)の思想から、この問題を考えてみよう。素材としては、日本におけるクザーヌス研究の第一人者である、同僚の八巻和彦さん(現在、早稲田大学名誉教授)に先週送っていただいた論稿、「クザーヌスの〈イディオータ〉思想の現代的意義――〈専門家-素人〉相関の視点から」(『中世思想研究』63(20219月、中世哲学会発行)83-96)を用いることにしよう。

  1999-2000年のドイツ・ボン大学での在外研究の際、当時、ボンにあった早稲田大学ヨーロッパセンターの所長代理だった八巻さんに、家族ともどもお世話になって以来のお付き合いである。八ヶ岳南麓の私の仕事場からさほど遠くないところにお住まいがあることもあって、14年前の直言「雑談・土を考える」で、地元紙に書かれた一文を転載させていただいたこともある。

 八巻さんの専門であるクザーヌス研究を直接知ることになるのは、2016年の2回目の在外研究の際、クザーヌスの生地、ベルンカステル・クース(Bernkastel-Kues)を訪れてからである。直言「「戦争に勝者はいない」ということ――ヴェルダンで考えるの冒頭部分にその経緯が書いてある。

    ベルンカステル・クースはクザーヌスの生誕地で、ドイツ南西部のモーゼル川中流域にある、ワイン醸造の中心地として有名な市である。川沿いのパーキングに駐車して、八巻さんが設立に関わったクザーヌス大学(Hochschule)をまず訪ねた。話が通っていて、クザーヌスゆかりのザンクト・ニコラウス養老院などを助手の方に案内していただいた。旧市街のマルクト広場は、木組み(Fachwerk)の切り妻家屋が囲み、とても美しい。モーゼル川にかかる橋の中程に、冒頭左の写真にあるクザーヌスの日時計(Cusanus-Sonnenuhr)がある

  早速、八巻さんの論稿の紹介に入ろう。ただ、私の下手な要約よりも、上記の論稿タイトルにPDFファイルがリンクしてあるので、直接ここから読んでいただいてもけっこうである。

 

 クザーヌスの「専門家-素人」相関の視点

クザーヌス中期の一連の対話篇では、一介の木匙職人である〈素人〉Idiotaが主人公となっており、対照的に学識深く経済的に豊かな弁論家Oratorと哲学者Philosophusが、対話相手と設定されている。この二人は真理探究において、書物の権威に縛られて真理を見出すことができないという隘路に陥っている。そこから救い出し、真理に至る道筋を指し示す役割を果たすのが、この〈素人〉というわけである。

〈素人〉にこの対話篇での主役を果たさせることは、クザーヌスとハイデルベルク大学教授のヴェンク(Johannes Wenck)との論争から着想されたものとみなされる。クザーヌスの著『覚知的無知』を、ヴェンクはその著『無知の書物』をもって、学問の根底を崩壊されるものだとして批判したが、これに対してクザーヌスは『覚知的無知の弁護』をもって反論したという背景があるからである。

そもそも西欧中世に特有の「知の府」であった大学Universitasという団体は、都市化の進行のなかで成立したギルドの一つである。そこで教授になるためには、他のギルドにおいて職人が親方の地位を得るのと同じように〈教授免許〉を取得することが必要だった。

同時に大学の構成員は、一方において、真理の探究という自らの任務を誠実に果たすという誓約をし、他方において、〈ギルド〉の構成員の不祥事については自主裁判を行うことで、〈学術研究の自由〉と〈自治〉の権利を確保していた 。その結果、ある分野において〈資格〉Licentiaを得ている〈専門家〉と、それをもたない〈素人〉という相関が成立していた。

この相関のもとでクザーヌスは、教会法令博士として、この分野では〈教授免許〉所有者である〈専門家〉であったが、哲学および神学では博士号を取得しておらず〈教授免許〉所有者ではなかった。他方、ヴェンクは哲学と神学の〈教授免許〉をもっていて、この分野での〈専門家〉であったから、その彼から見ると、クザーヌスは〈素人〉であり、その〈素人〉が哲学や神学について著作しているということになる。クザーヌスとヴェンクとの論争の根底には、〈教授免許〉の有無に基づく〈専門家〉と〈素人〉という相関的相克があったわけである。

ところが中世末期の大学では、〈専門家〉がすでに制度化の中に安住して、真理探究という本来的任務から逸脱しがちであった。少なくともクザーヌスは、ヴェンクを一典型として、そのようにとらえていたので、〈専門家〉がそれにふさわしく生きているかどうかを〈素人〉の視点から批判的に問いかけるために、〈イディオータの思想〉を構築し叙述したのである。

西欧における〈専門家〉とは、公的な認証による〈資格〉によって〈専門家〉たりえている存在なのであり、〈素人〉とは明確に区別される。さらに、同じ領域に属する〈専門家〉同士は忌憚なく批判し合いつつ、各〈専門家〉が自身の資格にふさわしい行動をするように求められる。同時に〈資格〉をもたない〈素人〉は〈専門家〉の領分に口を出したり批判したりすべきでない、という共通認識が伝統として成立し、それが現在に至っている。〈資格〉を介して〈専門家-素人〉という緊張をはらんだ相関が存在しているわけである。

近代になり、大学というギルドにおける〈専門家〉の任命権者が、教会から国家に代わるなかで、〈学術研究の自由〉と〈自治〉という伝統が脅かされるようになる。国家(国王・君主)という新たな〈素人〉がこのギルドに介入して、〈専門家〉のもつ力を自らの利益のために使うことを意図する。これに対して〈専門家〉集団は、一方で自律的に互いに吟味しあう(visitatio)とともに 、他方で一致団結して権力者という〈素人〉の介入を防ぐことによって、近代国家体制内でも大学における〈学術研究の自由〉と〈自治〉が、ドイツのAkademische Freiheit(学術研究の自由)を一典型として確保されるに至った。

20世紀に入ると、〈学術研究の自由〉と学者の〈自治〉が、国家の直接的介入のみならず、国家予算・公費に依存する研究資金を介して脅かされるという事態も生まれた。さらに、近代後期以降に民主主義社会が成立したことで、今度は、国民・納税者(タックスペイヤー)という新たな〈素人〉(ほとんど文字通りのidiota)が介入してくる道筋も生まれた。この傾向は、2000年代の日本では、人文・社会科学の分野にも及んできている。日本学術振興会および文部科学省の管轄下にある「科学研究費」の採択審査において、「社会への還元可能性」の有無が問われるようになったのはそのあらわれといえよう。

二種類の〈素人〉による〈専門家〉の挟撃

今回の学術会議問題は、二種類の〈素人〉による〈専門家〉の挟撃として捉えるべきである。研究資金の提供者としての、広い意味での〈権力〉という〈素人〉が、提供している研究資金は税金が原資であるから一般民衆(国民)という〈素人〉にも発言権があるのだと、もう一方の〈素人〉に語り掛けることで、多数の〈素人〉を〈権力〉という〈素人〉の側に動員している。

重要な点は、〈政府〉という〈素人〉にせよ、〈国民〉という〈素人〉にせよ、問題の核心をどれほど理解しているか、ということである。私見の限り、西欧に発する学術研究の核心に存在する〈学術研究の自由〉と〈自治〉の意義――すなわち、中世まで後進地域であったヨーロッパが近代初期に先進国トルコを短期間で凌駕したような、新たな知見を生み出す力の源泉であること――を理解しているとは到底思えない。

さらに、〈政府〉という〈素人〉が自身にとって好都合な情報や判断にしか耳を傾けないという傾向は、諸外国にも存在している。それは、全世界で猛威をふるっている新型コロナウィルス感染症の米国の対応策をめぐる、トランプ前米大統領と米国疾病対策センター(CDC)のレッドフィールド所長ならびに国立アレルギー感染症研究所(NIAID)のファウチ所長との間の対立にもみられた。しかし米国のファウチは、大統領の面前で大統領の見解とは異なる、〈専門家〉としての学問的知見を披歴することに、たじろぐことはなかった。

日本の学術会議問題において、〈素人〉である政府は、もう一つの〈素人〉である国民の耳に(まさに俗耳に)入りやすい任命拒否の「理由」を挙げた。例えば、「日本学術会議は年間10億円の予算を使っている」とか、「学術会議会員の所属機関に多様性が見られない」等々。この根底で働いているのは、〈専門家〉に対する〈素人〉の反感、不信感であり、それと密接に関わりながら、近年急速に醸成されつつある反知性主義的雰囲気である 。さらに日本では、他者ならびに他者の意見に対する批判を無前提的に「よくないこと」と見なす傾向が顕著である。

改めて西欧における〈専門家-素人〉相関の伝統について目を向けるならば、社会内に〈専門家〉一般という階級と〈素人〉一般という階級が存在するというわけではない。ある分野について、〈専門家〉がいて〈素人〉がいる、ということであって、それは当該人物の人格的上下を示すものではない。あくまでもそれぞれの〈専門分野〉における合理性(理性妥当性)を互いに尊重して、当該分野の成果を確立すると共に、その成果を的確に社会に反映させるために、その能力を身に着けている〈専門家〉の意見が尊重されるのである。
では、この学術会議会員任命拒否問題について、〈専門家〉は何をなすべきか。何よりも、日本学術会議法に違反する会員任命拒否の撤回を政府に申し入れて、学術会議が推薦した会員全員の任命を実現させること、これが第一である。
  次に、日本学術会議法3条にいう「独立して左の任務を行う」とされていることを踏まえ、改めて〈学術研究の自由〉と〈自治〉の意義を問い直しつつ、学術研究に携わる姿勢を明確にすべきだろう。


〈専門家〉と〈素人〉の真の相関

最後に、クザーヌスの〈イディオータの思想〉の視点から〈専門家素人〉相関の問題を再考する。クザーヌスの目的は、知恵・真理を探究すること(一般化すれば〈知的探究〉)が制度化されることに伴う弊害を指摘し、それの改善を求めることであった。当時の大学は、一方において西欧社会の知的水準の総体を大幅に上げることに成功していたが、他方において、制度の形骸化も生じていた。経済的な面で大学の貴族化も進み、貧しい学生が締め出される傾向も強まっていた 。

一般に社会は、著しい成果が出される営みを、その成果が継続されることを目的としてその社会内に制度化するが、やがて形骸化し沈滞する。それは西欧の大学にも当てはまった。しかし大学というギルドには、ギルドでありながらも自己の限界を打開する可能性を提供する原則が内包されていた。それは、〈自治・自立〉と並んで、構成員としての〈専門家〉相互の〈批判の自由〉である。これは、組織の自己保存を自ら崩す可能性を含むが、長期的には、ギルドの健全な存続をもたらすことにつながる。〈成果〉が〈制度化〉を生み出すが、それがその〈制度〉に停滞を生み出す。しかし、その後にその〈制度化〉を〈批判〉する営みが内部から生み出され、それによって新たに〈成果〉が生み出されやすい〈制度化〉がなされる。この原則がいわば弁証法的な自己刷新を機能させるわけである。

われわれが、正しいこととしての〈真理〉を求める場合には、たえざるdocta ignorantia(覚知的無知)のプロセスをたどることを覚悟しなければならず、その際には制度の只中にあってさえも徹底的な〈孤独〉をも覚悟しなければならない。

同時に日常的には、われわれ〈専門家〉のごく近くに、例えば家族という〈素人〉がいる。このような〈素人〉たちに支えられてわれわれは〈専門家〉でありえているのだという事実を再確認するならば、〈専門家-素人〉の相関の本来的な緊張関係に思い至るはずである。われわれは、権力という〈素人〉におもねることなく、しかし真理の前に謙遜でありながら、たゆみなく審議を探究すべし、という〈専門家〉としての責務を自覚せざるを得なくなるはずである。


学術会議問題への示唆

 以上、八巻さんの論稿を私なりに要約してみたが、実に示唆的な記述に満ちている。PDFファイルで、注を含めて全文を読んでいただけると幸いである。

本稿を読んでの感想は、学術会議6教授事件は古くて新しい問題だということである。新憲法の破棄を宣言したハノーファー王を批判した教授たちが免職された「ゲッティンゲンの7教授事件」について言及した。美濃部達吉の天皇機関説事件については何度も触れた。ときの権力者という究極の「素人」が、自分に都合の悪い「専門家」を排除し、その主張や学説を否定するのには既視感がある。昨年10月の国会において、菅首相が同じ答弁を繰り返して、説明不能に陥ったのも不思議はない

 岸田首相は、総裁選では「民主主義の危機」を語り、森友問題などについても「終わっていない」感を示唆したが、総裁選後はすべて跡形もなく消え去っていた。6教授事件を解決する気がまったくないばかりか、学術会議の空洞化をはかる方向にも悩まずに邁進しそうである。八巻さんの論稿の93頁注36には、「菅首相は任命拒否の理由をいっさい説明していない。この拒否の背後には、政府から独立した機関としての日本学術会議を解体・改組する意図があるとも思われる」とある。岸田内閣もその方向を追求していくのだろうか。

 また、本稿で改めて確認したことは、「専門家」は他の専門については「素人」だということである。憲法研究者は、物理学や医学の分野では「素人」である。政治家はすべての学問分野に対して「素人」である。だが、6年前、安保関連法が争点になっていた時、安倍政権の面々は、憲法研究者という「専門家」を目の敵にした。私自身も、自民党副総裁から名指しで批判された。その際に出てきた言葉が、「100の学説より一つの最高裁判決だった。これほど憲法研究者を馬鹿にした言葉はないだろう。菅前首相は官房長官時代、集団的自衛権行使を合憲とする憲法研究者の名前を3人しかあげられなかった

 この頃、私は全国憲法研究会という憲法研究者の全国学会の代表をやっていた。当時メディアは憲法研究者に違憲か合憲かというアンケート調査を行った。私個人の意見は明確だが、しかし、学会運営にたずさわるものとしては、とても悩ましい問題だった。そのときのことを次のように「直言」に書き残してある

 「…あるテレビ局から全国憲会員へのアンケート調査を求められた。一人ひとりが自由に研究し、発表する学会においては、特定の政治課題において意見表明を個々の研究者に求めることは、自由な研究の雰囲気を損なうおそれがある。学会の運営に携わる立場からは、これは運営委員会に諮って決める事項だが、緊急を要するため、事務局長と相談して申し出をお断りした。海外のメディアからも、代表としての私に取材申し込みがあったが、これもお断りした。…」

 岸田首相は、それまでの立場を大きく変えて、「敵基地攻撃能力の保持「防衛費GDP2%」などを丸ごと推進するという立場をとった。自民党が大きく右転回していくなか、驚いたことに、公明党の山口那津男代表が1113日、憲法学者の自衛隊違憲論に対し「現実と乖離している。むしろ学者の皆さんが自衛隊の存在を率直に認め、それに応じた憲法の考え方を深めてもらいたい」と述べたというのだ(共同通信配信20211113日:東京新聞)1978年に東大法学部を卒業している山口代表は、芦部信喜教授の憲法を履修して、憲法9条と自衛隊の原則的な解釈論はしっかり勉強しているはずである。憲法と憲法学説の関係、法解釈と解釈者の責任の問題なども。だから、政治家の立場で学者と学説に修正を求めてくるというのは尋常ではない。公明党は、先の総選挙での維新の増殖に驚き、自公政権の維持のため、自民党の右シフトを維新と競うかのごとくである。こんなことでは、「平和の党」を自称する公明党の支持母体の納得が得られるのだろうか。

 「専門家-素人」相関が激しく歪み始めたこの国の状況を、世界の国々はどうみるだろうか。安倍・菅政権に続く岸田政権は、解散がなければ、最大4年間、政治権力を行使できる。4年後には、いまの日本国憲法も日本学術会議も存在しないのだろうか。いや、そうさせてはならないだろう。

 《付記》
ご論稿の要約・紹介と、全文のリンクを認めていただいた八巻和彦さんに心からお礼申し上げたい。

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