東西ドイツ国境にかかる虹――「ベルリンの壁」崩壊33年
2022年11月7日



早稲田「11.8」事件から50

日、118日は「早大川口君事件」から50年である。半世紀前、大学は暴力に支配されていた。学生が文学部の自治会室でリンチされ殺害される。大学は見て見ぬふりをし、なぜか警察の動きも鈍い。そうした不合理に一般の学生が立ち上がって、「早稲田の森」は大きく揺れた。入学してまだ半年の1年生として、私もその渦に巻き込まれた。そのことは昨年、樋田毅『彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社、2021年)に触発されて、直言「『彼は早稲田で死んだ』――早大川口君事件50年を前にとしてアップした。半世紀前の資料を、自宅書庫にあった段ボールの山の中から見つけ出し、当時のビラなどの資料も使って時間をかけて書いたので、「“11.8”の50年」について、今回改めて書くことはしない。私の思いはあそこにすべて書き込んである。なお、『彼は早稲田で死んだ』は、53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

 11.9」から33

明後日は「ベルリンの壁」崩壊から33年である。この「直言」では、「壁」崩壊1020、そして、「崩壊から4分の1世紀というそれぞれの節目において、その意味を考えてきた。直言「ブロッケン山頂の「壁」開放――「ベルリンの壁」崩壊30年」は、ベルリンでなく、東西ドイツ国境地帯における検問「崩壊」について書いた。

 冒頭左の写真は、43年前の冷戦時代、東西ドイツ国境付近で撮影したものである。1カ月ほど資料収集のためドイツに滞在したが、その際、ゲッティンゲン大学で在外研究をされていた浦川道太郎・早大法学部専任講師(民法、現在・名誉教授)を訪ね、東西ドイツ国境地帯を2日間にわたって案内していただいた。最近、その時の「滞在ノート」が出てきた。その19791112日のところにこうある。

「…浦川先生の車でゲッティンゲン大学法学部中央図書館などを案内していただいたあと、国境近くに向かう。“Halt! Hier Grenze[止まれ、ここは国境だ]という立て札の向こうに鉄柵、その先にDDR[注・東ドイツ]の監視塔が見える。ここの村の人がいうには、夜、鹿が地雷に触れて爆死するドーンという音が聞こえたという。…Duderstadtという国境の町に行く。ここからDDR行きのバスが、年に30本ほど出て行くという。BRD[西ドイツ]側の最後のバス停に、コッファー[スーツケース]をもった2人の老人が、バスが来るのを待っていた。同じ国の、しかも隣町がこうやってGrenzeで隔てられるという悲劇を現前で見る。西ドイツのGrenzschutz[国境警備隊]は人員が足りず、10キロを数人で守っているといわれるほど、ほとんど会わない。DDRは監視塔や地雷などに多額の金を支出している。夕方、マールブルクに向けて出発。…」

東ドイツの国境施設の思想と構造

これは、西ドイツの連邦国境警備隊の「DDR国境封鎖施設」の図である。198845月のドイツ滞在時、ヘッセン州フルダ(Fulda)近郊の東西ドイツ国境地帯に行った時に、監視所の隊員からもらったものである。国境地帯の造り、制度設計がよくわかり興味深い。実際の国境線は手前の数字3の地点にあり、西ドイツの国境警備隊の警告板は2の位置に立つ。他方、数字22の地点に東ドイツの検問所があり、東の人々はそこで止められる。許可なくそこから先に立ち入れば、細かい粒子の土を敷きつめて歩きにくくしてある一帯を横切らねばならない。地雷もあり、射撃目標となる。警備犬も随所にいて、国境を超えようとすれば、22から1までの間で捕縛されるか、射殺されることになる。この国境施設の造りから、東ドイツ(DDR)が自国民をどう見ていたかがよくわかる。詳しくは、直言「「壁」を作る側の論理――「ベルリンの壁」建設50周年」を参照されたいなお、直言「「壁」がなくなって10年(その2・完)のなかに次のような下りがある。

「東西ドイツ国境1393キロと旧西ベルリンを囲む「壁」165キロ(東西ベルリン部分43.1キロ)。…どこの国でも、外からの進入に備え、国境警備は外向きだ。だが、旧東ドイツでは、内側に向かって何層にも障害が設置され、「自国民を外に逃がさない」ということに重点が置かれた。その意味では、旧東ドイツは「牢獄国家」だった。人間は自由に移動できなくてはならない。「移動の不自由」の象徴である「壁」が崩壊したとき、旧国境地帯でも人々が国境を越えていた。移動の自由は人権のカタログのなかで軽く見られがちだが、壁崩壊の最も大きな起動力は、「移動の自由」への要求だったのではないか。国民に移動の自由を与えず、逃げ出せば射殺するような国家は正当性を失い、崩壊した。…」



「国境にかかる虹」を見た10年後、国境「検問」が崩壊

前述したように、197911月に東西ドイツ国境地帯を訪れたが、そこで目撃した、年金生活者が越境する際の「バス停」には驚いた。この国境検問所ができたのは、西ドイツのヴィリー・ブラント首相(社会民主党〔SPD〕)の東方政策(Ostpolitikの成果とされる。ブラントの努力で、19721221日の東西ドイツ基本条約が締結された。その第1条では、「正常な善隣関係を樹立する」ことがうたわれ、その具体化の一つとして、双方に旅行ができるように、ドゥーダーシュタットの検問所もつくられた。だが、東西交流は一方的で、西の短期旅行者はここを通過して東に向かったが、東の市民の西への移動は、年金生活者と切迫した家族問題(親が危篤等)を抱えた者に限定されていた。労働力人口にカウントできず、年金を食いつぶすだけの高齢者には、西側にいる家族への訪問を認め、あわよくば東の支出を減らすという魂胆も見えてくる。だが、冷戦によって引き裂かれた家族が再会すれば、一緒に住みたいという思いを抑えることはできなかった。米ソも参加した1975年ヘルシンキ宣言(欧州安全保障協力会議(CSCE))の人的交流や家族の再会と再結合のコンセプトは、こうした方向に影響を与えていった。集団安全保障は、仮想敵を前提とする集団的自衛権システムとしてのNATO(北大西洋条約機構)WTO(ワルシャワ条約機構)とは異なる論理である。「壁」崩壊の原因は、集団安全保障の地域的枠組みであるOSCEの地道な活動の蓄積も影響していたといえよう。

 114日に公表された論稿「歴史的な鍵となる日:1989年10月と11月」(bpb Deutschland Archiv 04.11.2022)は、旧東ドイツにおける「平和革命」という視点から、「壁」崩壊に至る国内外の政治的、経済的、社会的要因が複雑に絡み合うモザイク的な展開を活写する。ソ連のゴルバチョフの果たした役割、ライプチッヒに始まる東ドイツ民衆のデモとその広がり。「ブランデンブルク門を天安門にしてはならない」という暗黙の了解が、一発の銃声もなしに「壁」の崩壊をもたらしていった。

私が「国境にかかる虹」を見た10年後、ベルリンで「壁」が崩壊した。そして、翌1110035分、このドゥーダーシュタットの国境検問所が開放され、6000人以上の東ドイツ人が、1500台以上のトラバントに乗って西に向かった(この写真はその時のトラバントの車列を撮ったもの(Süddeutsche Zeitung Photo, DOSSIER Freedom to leave the GDR,1989))。その年の末までに70万人になったという。さらに、旧東ドイツのブロッケン山(「ブロッケン現象」で知られる)の山頂の軍事施設が市民に開放されたのは、19891231245分のことだった

33年前、人の居住・移転、移動の自由(Freizügigkeit)を徹底的に禁圧してきた仕組みが、音をたてて崩れ始めた。だが、旧ソ連型の東ドイツ国家社会主義(Staatssozialismus)は、壁とともに崩壊したが、統一ドイツになっても「一つの国家、二つの社会の状態は長く続いた(直言「「壁とともに去らぬ」――旧東独の傷口参照)。この33年で東西ドイツの間に横たわる見えない「壁」がなくなったとは到底いえない。のみならず、この33年間、全世界的な規模で、「格差社会」、分断、「新たな壁」が生まれている。

 

世界各地に新たな「壁」が

ちょうど6年前の直言「トランプ政権と新しい「壁」の時代――「ベルリンの壁」崩壊27年後の11.9 で、私はこう指摘した。「「冷戦終結」の象徴となった「11.9」。そこに今年から新しい意味が加わった。米合衆国にトランプ政権が誕生することになったのである(米国は「11.8」)。「冷戦終結の終わり」は「新たな冷戦の始まり」なのか、それとも「熱戦の始まり」なのか。ともあれ、「壁」崩壊の日に、新たな「壁」の建設を掲げた米合衆国大統領が誕生したことは、何とも皮肉である。メキシコ国境の「壁」はシンボルにすぎない。「米国第一主義」を前面に押し出して、ボーダーレス化した世界に向けて、さまざまな「壁」(ボーダー)を新たに生み出していくだろう。歴史は4分の1世紀で大きく転回したわけである。」と。

そして、続く直言「「壁」思考の再来――ベルリンから全世界へ?」では、こう強調した。「「ベルリンの壁」は1961813日から1989119日までの28年と2カ月と26日存続した。…その「壁」が崩れてから27年後にトランプ政権が誕生した。約4分の1世紀の周期で、人類は孤立と開放を繰り返しているのだろうか。行き過ぎたグローバル化への反動がトランプ政権をはじめ、英国のEU離脱、ヨーロッパ諸国における右翼ポピュリズム政権の誕生につながったのだとすれば、いま、世界は「壁」によって象徴される「隔離」の方向に進んでいるのかもしれない。それは異質な他者の排除と孤立主義によって特徴づけられる。」と。

 201611月から6年たち、いま、「冷戦」終結を語ることに虚しさを感じるほどに、「2.24」以降、「ウクライナ戦争」の戦中、核兵器を使った戦争の戦前という状況にある。トランプ時代とは異なるバイデン政権の「リベラル覇権主義」(ジョン・ミアシャイマー)が、ロシア侵略によって始まった「ウクライナ戦争」の方向と内容に影響を与えている。バイデンは、この118日の米国中間選挙でのトランプ共和党の急追に対応して、メキシコ国境の「壁」建設の停止の方針を修正しようとしている。すでに、共和党のアリゾナ州知事は、国境に中古のコンテナを1キロにわたって並べ、「壁」の機能をもたせようとしている(NHK202211月4日のニュースサイト)。世論調査でも46%の米国民が「メキシコの壁」を支持しているという。

ポピュリズムと権威主義の政権が増殖している。イタリアでは、ネオファシストのイタリア社会運動(MSI)出身で、ムッソリーニに親和的なジョルジャ・メローニ首相が誕生した。45歳の女性。ハンガリーやポーランドとともに、難民排除の姿勢は明確である。EU離脱の動きはイタリアにもあり、英国が離脱した時、イタリアでは国民の48%が離脱賛成だった。明日の米国中間選挙を契機に、トランプ的なるものの勢いが増して、米国内の分断もさらに進んでいくのだろうか。

 「ベルリンの壁」崩壊から33年。世界各地で新たな「壁」が築かれようとしている。

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