ナチスが迫害したのはユダヤ人だけではなかった――障害者から女性同性愛者まで
2023年9月11日

 

ティアガルテン通り4番地――「安楽死」(T4作戦」)の現場
ルリンの「ヒロシマ通り」のことは、かつて『ベルリン ヒロシマ通り――平和憲法を考える旅』(中国新聞社、1994)にまとめて出版した(森英樹氏の書評『法社会学』47号(1995年))。通り改名の功労者、ハインツ・シュミットのことは何度か「直言」で書いている。日本大使館はヒロシマ通り6番地にある (冒頭左の写真は2016年6月7日撮影)。同時に、敷地がティアガルテン通りにも面しているため、その24-25番地となる。お向かいのイタリア大使館は、ヒロシマ通り1番地、ティアガルテン通り22番地である。この通りは1340mあって、20番地がトルコ大使館、18番地が南アフリカ大使館、17番地がインド大使館、12番地がオーストリア大使館という大使館通りになっている。ヘルベルト・フォン・カラヤン通りと交差するその4番地の先には、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の根拠地「フィルハーモニー」がある。その障害者用駐車場の横に、地味なモニュメントがある。そこが悪名高いT4作戦」(Aktion T4の本部跡である。犠牲者のための記念碑が敷地内に設置されている。だが、あまり目立たない。コンサートで訪れた際に立ち寄ったが、あらかじめ調べておかないと気づかない地味さである。

  ナチスによるユダヤ人虐殺はあまりにも有名だが(直言「ドイツ憲法史における「つまずきの石」とヴァンゼー会議」参照)、実はナチスは、「重度の精神、神経、または身体の障害を持つために、ドイツの社会と国家に即時に遺伝子的かつ経済的に負担となる個人を排除する試み」も行なっていたのである。ナチスによる障害のある子どもたちの組織的大量殺戮は、1939818日のライヒ内務省通達で始まったとされる。ナチ政権下で数十万人の病人や障害者が殺害された(詳しくは、連邦政治教育センターのパンフレット参照)。障害者は「生きるに値しない命」(lebensunwertes Leben)として、系統的、組織的に殺害されたが、「T4」によって「組織的殺人」が拡大した。1940 年から 1941 年にかけて、「T4」 の一環として 7万人以上の精神障害者および身体障害者が殺害されたという。さらに「過去の克服」の課題は他にもある。

同性愛者に対する迫害

ドイツ刑法175(18711994)は、その制定以来、男性同性愛を禁じている。ナチ期の1935年に厳罰化され、戦後も東西両ドイツでそのまま引き継がれた。西ドイツでは1969年に21歳以上の男性同性愛は非犯罪化され、統一ドイツになって、1994年にようやく廃止された(条文削除は1998年)。「同性愛者たちにとって、第三帝国は実は1969年にようやく終わったのである」(『ニューズウィーク』202376)

ドイツでは女性同性愛を禁止する法規定は存在しなかった。そのため、男性同性愛だけだと思っていたが、女性同性愛者も迫害されていたことを最近知った。同僚の弓削尚子さんが論文を発表され、私もそれを読む機会をいただいた。「強制収容所の女性同性愛者を掘り起こすこと――クィア・ヒストリーとアグノトロジー」(『現代思想』20236)である。性的マイノリティの歴史と無知学ということで、一読して、私もまた「無知」を知ることになった。これは広く知っていただく必要があると感じた。そこで、この「直言」のために寄稿をお願いしたところ、快諾していただいた。心からお礼申し上げたい。なお、法学部の学生ならば、刑法175条というと日本では「わいせつ物頒布等罪」を想起するだろうが、これはドイツ刑法の話である。

 

刑法175条と女性同性愛者――ナチ・ドイツの時代1

弓削 尚子

はじめに

19433月、オーストリアのウィーンで2人のドイツ人女性が窃盗の罪で逮捕された。所持品を調べてみると、互いに交わした恋文がみつかり、二人がレズビアンカップルであることが判明した。彼女たちは、オーストリア刑法129条1項b号の罪である「自然に反する同性行為」についても問われた。オーストリアは19383月にナチ・ドイツに併合されたが、オーストリア刑法はそのまま適用されていた。1938年から1943年までの約5年間を見ると、ウィーンだけでも、刑法129条1項b号の違反者は、男性1100名、女性66名を数えた2

もし、レズビアンカップルの関係がドイツで発覚したら、彼女たちは、刑法上、同性愛の罪に問われることはなかった。ドイツ刑法175条は「男性同士の同性愛行為」に限定していたからである。18世紀末にさかのぼると、プロイセン一般ラント法では、キリスト教規範に基づくソドミー法の伝統を受けて、男女を問わず「自然に反する行為」は処罰の対象であった。しかし19世紀に入ると、オーストリア刑法とは対照的に、プロイセン刑法は処罰対象とする同性愛の行為主体を男性に限定した。1851年のプロイセン刑法143条では、男性間および人間と動物との間の「自然に反するわいせつ」が犯罪とされ、1871年にドイツ帝国が成立すると、それをドイツ全土に広げ、ドイツ刑法175条としてこれがそのまま踏襲された。

よく知られているように、ヒトラーは政権に就く前、刑法175条の厳罰化を公約に掲げ、退廃と混乱のドイツ社会に性秩序を取り戻すことをアピールした。ナチ政権成立後の1933年以降は、同性愛者たちが集うバーやクラブは閉鎖され、同性愛者の専門誌は廃刊に追い込まれた。1935年には刑法175条が改正され、同性愛行為の範疇は拡大され、量刑は重くなった。ナチ期に同条による有罪判決を受けた同性愛者は約5万人、強制収容所へ送られたのは5000人から15000人と言われている3

しかし、その数に女性同性愛者は含まれていない。収容所の囚人服に付けられた同性愛者の徽章となるピンクトライアングルは、男性だけのものだった。

 

刑法175条は、なぜ女性同性愛を対象としないのか

ドイツ帝国が女性同性愛に無関心であったわけではない。1909年の刑法改正時には、女性同性愛の取り締まりを求める声があがり、第一次世界大戦後、その声はさらに高まった。ドイツ帝国が崩壊し、伝統的な価値観が大きく揺らぐなか、ゲイ文化同様、レズビアン文化も隆盛を見せ、女性たちの「性的逸脱」が社会の耳目を集めるようになったからだ。パーペン内閣・シュライヒャー内閣から留任したヒトラー内閣の法務大臣フランツ・ギュルトナー(1881-1941年)は、1934年から36年にかけてナチズムにふさわしい刑法のあり方を検討する諮問委員会を設置するが、そこでも女性同性愛の処罰が議論にあがった。

議論の内容はドイツ法律アカデミーやナチ・ドイツ法律家連盟などにも提起された。諮問委員会には、オーストリア司法の専門家もいたが、最終的にドイツ刑法175条は女性同性愛を対象としないことに決定した4。その根拠について、以下、4点にまとめられよう。

1. 男性同性愛者については、その「生殖力」が問題とされるが、女性同性愛者についてはそこまでの程度ではない。
2. 女性同性愛は男性同性愛ほど広まっていない。
3.女性どうしの友情関係は男性どうしの関係よりも内面的なもので、女性たちの同性愛行為の認定が困難である。女性同性愛を対象にすると、根拠のない告発と捜査のリスクが高まる。
4. 同性愛は「悪疫」のように広がり公的生活の質を貶めるという重要な指摘がなされるが、女性が果たす公的役割は取るに足りないものであるから考慮しなくてよい。

  これらの理由は、まさに「男性国家」ナチ・ドイツの男性中心的な法論議であった。


  ルドルフ・クラーレの女性同性愛犯罪化論

刑法諮問委員会終了後も、女性同性愛禁止を明文化すべきという主張が消えたわけではなかった。その論客の一人であるルドルフ・クラーレ(1913-45年)の議論をみてみたい。

『同性愛と刑法』という論文で博士号を取得したばかりの若き法学者クラーレは、学術誌『ドイツ法』(Deutsches Recht)1938年12月10日号に「女性同性愛の問題について」という論稿を発表した5。彼は、刑法諮問委員会は「女性同性愛の本質を誤認している」として、一つずつ反論している。

1に、同性愛は、男性の生殖力ほど女性の生殖力に影響を及ぼさないというが、女性を「妻や母という自然の定め」から遠ざけることになり、「民族生活の質を貶め、害となる」。

2点については、女性同性愛者が男性同性愛者よりも少ないと想定するのは間違いである。婦人科医や警察、福祉局や離婚を所轄する部局で調べると、当局の考えとは異なる資料がでてくる。また、同性愛行為は頻度ではなく、指向そのものに注目すべきで、その危険は「民族共同体の内面的価値」に及ぶものである。

 女性同性愛を認定する難しさや捜査の煩雑さを挙げる第3の点については、たしかにそのような指摘は可能だが、女性同性愛の迫害を断念するに足る理由ではない。行為の認定の難しさは、性犯罪でも同じであり、困難だからといって罪を黙過すべきではない。

 女性が果たす公的役割がわずかであるという第4の点についても、クラーレは真っ向から反駁する。「ドイツ人女性が民族生活において今日ほど大きな役割を果たしたことはなかった」として、ドイツ民族の「純血の維持と健康」という観点から女性の役割の重要性を説く。いわく、女性はこうした「国家最重要課題」に関わる存在であり、「同性愛を人種的堕落とみなすのであれば、なぜレズビアンの罪を問わないままでいられるのか、理解できない」と。

 クラーレは、女性同性愛者の実態をつかむべく、リヒャルト・フォン・クラフト=エービング(1840-1902年)の性科学の知見を添えたり、古今東西の刑罰を考察したりするなど、熱弁を振るったが、ナチ・ドイツの司法が動くことはなかった。 


女性同性愛を封じ込めるナチズム体制

 刑法175条の同性愛の範疇に女性同性愛をいれることを不要とする刑法諮問委員会の見解と、女性同性愛の明示を必要とするクラーレの見解は、一見、相対立するようにみえるが、女性の抑圧という点では同根であった。同性愛の歴史を研究するフロランス・タマーニュの言葉を借りると、

1935年に第175条が拡大されて、同性愛的欲求のあらゆる表現に適用されることになった。しかしレズビアニズムは罪とされなかったのだが、それは明らかに、女性は妻・母という伝統的な役割にもどることを強制され、また女性の性は受動的にすぎず、容易に規制できると考えられたからである」6

1930年代のナチスの女性政策は、女性を家庭に戻し、妻・母役割に専念することを強いた。公務員の職にあった女性は免職され、妻の退職を条件にした結婚資金貸付制度が導入され、多産女性が顕彰された。女性同性愛は、刑法で禁止を明文化しなくても、異性愛結婚に回収され、ナチズム体制による封じ込めが可能と考えられた。

刑法175条は、戦後の冷戦時代においても東西両ドイツで維持され、数度の改正がされるが、対象を男性に限定することに変わりはなかった。女性同性愛を捨象し封じ込める体制が、戦後のドイツ社会でも続いたと言えよう。1970年代以降の国内外の同性愛解放運動の高まりを受けて、刑法175条は次第に形骸化し、東西ドイツ統一後の1994年に廃止、1998年には刑法典から削除された。

 

強制収容所の「レズビアン」

1990年代の歴史家クラウディア・ショップマンの研究を皮切りに、ナチ期の女性同性愛者の抑圧の実態が少しずつ明らかにされている。

ナチスは1933年の政権掌握後、早い時期から、ゲイバー同様、レズビアンバーを閉鎖し、専門誌の刊行や集会など、女性同性愛者たちの活動を禁止した。医療施設で「異常な性癖」ゆえに「治療」の対象となった女性たちがいる一方、職場や隣人などからゲシュタポや警察に密告され、刑法175条ではなく、わいせつや売春などの罪状で処罰される女性たちもいた。なかには、強制収容所へ送られたケースもあった。

強制収容所の収容記録には、「レズビアン」と記された女性がごくわずかだがいたことがわかっている。19401130日のラーフェンスブリュック収容所の入所リストにマルガレーテ・ローゼンベルク(1910-85年)という女性の名がある。入所理由は「政治的」、備考欄に「レズビアン」と記されている。「反社会的」理由で入所したマリー・ピュンヤー(190442年)は、1940年に撮影された囚人写真の裏面に「既婚の完全ユダヤ人、非常に活発な(小生意気な)レズビアン」と医師による「診断」が記されている。

ローゼンベルクは4年を越す収容所生活を生き抜き、19454月に解放されたが、ピュンヤーは1942年にガス室で殺害された。ピュンヤーは、1413作戦」により、19422月から4月の間に約1600名の女性たちとともに殺害されたと推定されている。そのうちの半数がユダヤ人女性で、その中にはピュンヤーと同じく「レズビアン」と「診断」されたヘニー・シェアマン(1912-42年)もいた7

非ユダヤ人であっても「レズビアン」が収容所で殺害された例はある。入所リストの備考欄に「レズビアン」と記された「政治犯」のエリ・スムラ(1914-42年)は、ユダヤ人ではなかったが、収容所で亡くなった。死亡理由は明らかではないが、飢えと病に苦しみ、収容所の医師に殺害されたという証言がある。

 

おわりに

女性同性愛者は、ナチズムの体系的な迫害の対象ではなかったが、ナチズムにより抑圧された存在であった。こうした認識のもと、21世紀に入り、男性同性愛者だけでなく、女性同性愛者もナチズムの犠牲者と位置づけ、追悼する動きが活発になった。フランクフルト・アム・マインやベルリン、ミュンヘンなどには、そのような歴史認識に基づいた記念碑が設置されている8。累計12万人を超える女性を収容したラーフェンスブリュック収容所でも、2022年に女性同性愛者の記念碑設置が正式に認められた。こうした動きに批判や反発も少なくないが、性の多様性の尊重を標榜するドイツ現代社会の象徴的なアクションと言えよう。


【上記の写真の説明】ベルリンのジンガー通り1番地にあるエリ・スムラの「つまずきの石」。告発され、1940年9月12日に逮捕された。ベルリンのアレクサンダープラッツ刑務所に収容後、同年ラーフェンスブリュックへ移送された。1943年7月8日に「殺害された」と刻印されている。写真出典はWikimedia Commons。


  1. ^ 本稿の一部は、拙稿「強制収容所の女性同性愛者を掘り起こすこと―クィア・ヒストリーとアグノトロジー」『現代思想』2023年6月、119-129 頁による。
  2. ^ Claudia Schoppmann, Zwischen strafrechtlicher Verfolgung und gesellschaftlicher Ächtung: Lesbische Frauen im „Dritten Reich“, in: Insa Eschebach (Hg.), Homophobie und Devianz, Weibliche und männliche Homosexualität im Nationalsozialismus, Berlin, 2016 (2.Aufl.), S.35-51, hier, S.38-39.
  3. ^ 邦語文献として、星乃治彦『男たちの帝国―ヴィルヘルム2世からナチスへ』岩波書店 2006年、田野大輔『愛と欲望のナチズム』講談社選書メチエ 2012年、三成美保編『同性愛をめぐる歴史と法―尊厳としてのセクシュアリティ』明石書店 2015年。
  4. ^ „Angriff auf die Sittlichkeit“, in: Franz Gürtner (Hg.), Das kommende deutsche Strafrecht : Bericht über die Arbeit der amtlichen Strafrechtskommission, Besonderer Teil, Berlin, 1936 (2. Aufl.), S.195-210, hier, S.203-204.
  5. ^ Rudolf Klare, Zum Problem der weiblichen Homosexualität, in: Deutsches Recht, Heft 23/24, 1938, S.503-507.
  6. ^ フローレンス[フロランス]・タマーニュ「同性愛の時代(1870‐1940)」ロバート・オールドリッチ編『同性愛の歴史』東洋書林 2009年、191頁。
  7. ^ Claudia Schoppmann, Elsa Conrad - Margarete Rosenberg - Mary Pünjer - Henny Schermann. Vier Porträts, in: Eschebach(Hg.), op.cit., S.97-111, hier, 108.
  8. ^ フランクフルト・アム・マインの「天使の像」は、ナチ期の男性同性愛者と女性同性愛者の両方に捧げたものとして先駆的で、1994年に設置されている。邦語文献として、石井香江「記憶とジェンダー―「忘れられた犠牲者」の記念碑をめぐって」『女性史学』27(2017年)、15-23頁、米沢薫『記念碑論争―ナチスの過去をめぐる共同想起の闘い1988‐2006年』社会評論社 2009年、418-420頁。
(ゆげ・なおこ 早稲田大学法学学術院教授、ジェンダー史・ドイツ史)

 

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