雑談(117)音楽よもやま話(24)音楽における「帝王」?
2018年9月3日

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年初めての「雑談」シリーズで、しかも今年初めての「音楽よもやま話」である。前回の「音楽よもやま話(23)」は、昨年8月、オーストリアのザンクト・フローリアン修道院で、ブルックナー・オルガンの演奏を聴いたことなどを書いた直言「雑談(116)音楽よもやま話(23)ブルックナー・オルガン再訪—中欧の旅(その6・完)」だった。思えば、このオルガン演奏が始まる直前、日本からの電話で、同僚の今関源成氏が癌のために入院したことを知る。その1カ月後に今関氏は60歳で急逝した。直言「雑談(39)音楽よもやま話(4)「ながら音楽」」に、今年2月20日、追記を加えて、今関氏が好きだったマーラーの交響曲第5番について触れた。

このところ、テレビのワイドショーの世界では、猛暑・豪雨・台風といった気象ネタのほかは、アマチュアスポーツ・音楽や大学における不祥事が繰り返し、くどいほどに取り上げられている。日大アメリカンフットボール部の反則タックル問題(5月)から日大の大学運営の問題に発展し、いまだに理事長が記者会見しないという、まさに「加計理事長」状態が続いている。そして、日本ボクシング連盟「終身会長」をめぐる問題、早稲田大学交響楽団の「永久名誉顧問」の問題。さらに東京医大の入試不正問題(裏口入学・女子差別等)では、前理事長・前学長の在宅起訴に発展している。これらの問題で共通しているのは、トップが絶大なる権力をもって長期にわたって君臨し、周囲に迎合と忖度の構造が生まれていることである(TBS「あさチャン」8月1日放送)。そこに登場する人物の自己顕示と自己保身が際立っている点も共通している。現政権の「モリ・カケ・ヤマ・アサ・スパ」問題に通ずることがあまりに多いのにも驚かされる。

ところで、メディアに注目されながら、日大や東京医大と違って、途中から見えなくなったものに「ワセオケ」問題がある。これは私の大学の問題であるので、慎重な表現にならざるを得ない。私が個人的に出しているメルマガ「直言ニュース」7月30日号のなかで、次のようにこの問題について書いた。以下、引用する。

 ・・・先週木曜日〔7月26日〕発売の『週刊文春』で、早稲田大学交響楽団(ワセオケ)の「永久名誉顧問」の問題が取り上げられました。私が会長をしている早稲フィルこと早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団と勘違いされた読者の方から、「先生も大変ですね」というメールがきましたので、この場を借りて一言しておきます。私は早稲フィルの会長です。「ワセオケ」と「早稲フィル」は別団体です。この人物についてはコメントしません。どんな世界でも長期政権になると問題が出てきます。今週の「直言」冒頭のアクトン卿の言葉がそのままあてはまります。音楽を愛する学生たちのサークルですので、学生たちが中心になって再生するのを見守りたいと思います。・・・

この問題についての私のコメントは、これに尽きる。ただ、私が会長をしている早稲フィルは、40年ほど前、この「永久名誉顧問」なる人物が指導者になった時に、そのやり方に納得できず、ワセオケを出た学生たちによって創設されたということは書いておきたい。来年、早稲フィル創設40周年を迎えるが、その1年前に、早稲フィル創設の原因をつくった人物が退任するというのは感慨深い。

私は13年前に早稲フィルの会長になった。その頃はまだそうした事情についてまったく知らなかった。会長就任の挨拶には、このオケの自由な雰囲気と多様性について書いてある。それは、強い指導者による統制と指導に抵抗した人々によって創設されたことと無関係ではないだろう。

というわけで、詳しいことはこれ以上書かないが、この人物が指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの信者で、ワセオケに「カラヤン詣で」を強いてきたことは、『週刊文春』を通じて世に知られるところとなった。そこで、この人物が崇拝していたカラヤンについて書いておく。彼は、クラシック音楽の世界で「帝王」と呼ばれていた。その「帝王」を崇拝する者がそれを周囲に押しつけ、自らを「尊師」と呼ばせる。負の連鎖である。

このカラヤンのことを、身近でずっと観察してきた人物が著した『あるベルリン・フィル楽員の警告–心の言葉としての音楽』(音楽之友社、1996年)について、2005年11月14日付直言「雑談(45)音楽よもやま話(7) 指揮者と教師、再論」で紹介したことがある。著者はベルリンフィルの打楽器奏者のヴェルナー・テーリヒェン。フルトヴェングラーからカラヤンまでの巨匠たちのもとで、ベルリンフィルの「栄光の時代」を生きた人物である。以下、長文になるが、13年前の「直言」の関連する下りを引用しよう。

私はこの本を8年前に確かに読んだ。表紙に「Tokio, den 16. Juli 1997」と書き込んであるから間違いない。赤線や頁を折った跡も残っている。当時は、超一流オーケストラが「バベルの塔」を築いてしまったことに対する「警告」や、その歴史におけるナチスとの関わりなどに興味があったようで、そうした叙述に赤線が引いてある。とりわけ印象的だったのは、長年このオーケストラに君臨した首席指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンに対する鋭い批判である。「個人的利益の野放図な追求」、音楽の商品化・広告化、いまふうにいえば「音楽界の市場原理主義者」に対する「内部告発」にとどまらない根源的批判である。さらには、人間の内面を侵食する「現代」の普遍的兆候への警鐘ともなっている。風刺のきいた、奥の深い文体がまたいい。

今回、この本と8年ぶりに「再会」し、空き時間に30分ほど頁をめくっていると、線を引かなかった別の箇所に関心が向かった。それは、音楽大学で教えたこともある著者の、指揮者と教師を対比した部分だった。

「音楽家はいかに目立ち、また自分でそう感じていようと、いずれの場合にも自分の能力、自分の技芸をもって共同体に奉仕するのであり、そのなかで各人が他者によって生かされ、かつ体験を得る。アンサンブルを完璧に保ちたければ、ひとりだけ共同体から突出したり離れたりすることはできない——個々の成長が全体の質を上げるのだ」。でも、指揮者が自分の個人的威信を前面に押し出すと、どんなにすばらしい指揮者でも、オーケストラが輝きを失い、「萎んで」しまう。「このような場合、指揮者があまりに高くオーケストラの上に屹立しているので、指揮者の業績は驚嘆の的になっても、オーケストラは彼の楽器に格下げされてしまう」と。

興味深いのは、長年にわたり著者が接してきた「きわめて著名、かつきわめて珍奇な芸術家のキャラクター」について、おおむね4つのタイプに区分けしている点である。それは、「共感者」「作為者」「偽聖者」「貪婪(どんらん)者」である。「共感者」の対極にあって、最も質が悪いのが「貪婪者」である。その誇大妄想、欲求衝動、自制不能は、もはや音楽とは呼べない。「自分自身の響きを食いつぶし、その響きはもう新しくなることも発展することもない。強そうにかまえているが、じつはなにかに隷属しているにすぎない。その同じ隷属を『貪婪者』は自分のまわりのすべてのものに強制する。むしりとった権力をふるってみんなの生活圏を圧迫したり、ときには破壊することによって、物質的世界が貪婪者によって荒廃させられるように、彼らは精神と魂の果実をもむさぼり食う。そして感情がひからびれば、生命は危うくなる。もはや花は開かず、育たず、繁らず、収穫するものも、提供するものもない。こうして音楽も死ぬ」と。

抽象的な言葉の向こうに「ベルリンフィルの帝王」と称されたカラヤンの顔が浮かぶ。東アジアツアーで、二人の楽員がタラップの隙間から6メートル落下して負傷したときも、付き添い医師を自分用に身近に置いて、楽員の搬送が3日も遅れたという「告発」も行っている。日本公演の「第九」で、緊張に耐えられず昏倒した女性合唱団員を、すぐ後ろに立つ2人の合唱団員が速やかに後ろに下げて演奏を続けたときの描写も、「マエストロはこの出来事に—いつものように目を閉じていたにもかかわらず—気づいており、のちに女性歌手たちの行動についてお誉めの言葉があった」というもので、カラヤンが目を閉じて指揮することを知る者には、この叙述に毒がこもっていることがわかる。

ティンパニー奏者は指揮者とオーケストラの双方を見渡せる位置に立っている。著者テーリヒェンの持ち前の観察眼だけでなく、その「立ち位置」からも、本書の指揮者・オーケストラ分析が鋭く、興味深い所以である。なお、著者は、現役時代につらかったこととして、指揮者の権力的姿勢のみならず、「われわれの無条件に屈伏する姿勢」を挙げている。「暴君指揮者」の非難に終わらないところに、著者の叙述の誠実さを感じる。

また、著者はいう。「指揮者はいかにして棒を振って正確さを強要しようとするか、いかにしてピアニッシモを沈黙すれすれまで絞りこみ、フォルティッシモを熱狂的な噴出へと導くか、そもそも指揮者はなにを全員に信じこませなければならぬのか。…肝心なのはそんな能力や作為ではなく、まなざしに表れている内的な連帯感であり、信頼に満ちた献身であり、ごく個人的な感覚の表出であると悟った」と。「指揮者こそ最初に心を開いて、他者の情動を受け入れ、それを尊重し、自分の情動と調和させる心がまえがなければならない」。著者の理想的指揮者像は、「帝王」カラヤンを「反面教師」として考えればわかりやすい。・・・

 

たくさんのレコードを出し、自ら出演・演出したDVDまで作らせ、超一流オーケストラを使って自己実現をした「帝王」は、いま、どれだけ愛されているか。そこそこの演奏や、ものによっては「名演奏」もないではない。だが、カラヤンの残した膨大な演奏のうちで、いまも愛されているのがどれだけあるだろうか。カラヤンの演奏は、父の代からのレコードを入れれば20枚以上になるが、CDで買い換えたものは一枚もない。レコードをたまに聴くときにも、カラヤンの演奏に手がのびることは、ここ十数年で一度もない。クラシック音楽の市場原理主義的な拡張をはかり、クラシックをポピュラーにした「功績」を除けば、次世代まで引き継がれていくカラヤンの演奏はどれだけあるだろうか。」(「雑談(45)音楽よもやま話(7) 指揮者と教師、再論」より)

13年前にアップした「直言」だが、同じ頃に出した、早稲フィル定期演奏会のパンフレットの会長挨拶(2005年))をここに掲げておこう。ちなみに、これは最近の挨拶(2015年)である。東日本大震災の際の追悼音楽の演奏や津波で被害を受けた閖上・陸前高田でのボランティア演奏活動なども思い出深い。学生オーケストラに必要なことは、音楽を愛する者たちが集い、音楽をともに楽しみ、そして音楽を通じて社会と関わりをもっていくことである。それが大学4年間を、勉学とともに、音楽を通じて豊かにしていくということである。その意味で、カラヤンとカラヤン信者を通じて出来上がった音楽のありようというのは、反面教師ならぬ、「反面指揮者」というところだろうか。

なお、早稲フィルには、OB/OGのオーケストラが4つ以上ある。大学を卒業してからも、仕事をしながら練習を続け、コンサートを開いている。学生時代に自由と多様性を伝統とするオーケストラで過ごした経験が、社会人になってからもずっと続いている。カラヤン信者による「権威と服従」によってつくられた世界との違いかもしれない。その一つ、「アンサンブル・ジュピター」は、40年ほど前にその「永久名誉顧問」の人物と対立して早稲フィルを創設した安藤亮さんが音楽監督をしている。これまでなかなか参加できなかったが、9月のコンサートには参加しようと思う。

《付記》
本稿はドイツ・デンマーク滞在(8月20日∼31日)のために、8月18日に脱稿したものである。

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