『軍縮問題資料』2000年11月号所収

憲法論議に求められるもの
                                水 島 朝 穂
◆動物愛護で憲法改正?
 昨年九月からベルリンの旧帝国議会の建物が、ドイツ連邦議会議事堂になっている。新設された半球天井(ドーム)は総ガラス張り。朝八時から夜一二時まで、予約なしで見学できる。夜ともなれば、市民や観光客は、ガラス天井ごしに審議の様子をのぞくこともできる。こんな国会議事堂はほかにはない(拙稿「日本政治の耐えがたい不透明性−ガラス張りのドイツ国会議事堂から」『マスコミ市民』八月号参照)。
 今年四月一三日。その連邦議会で、一つの憲法改正案が否決された。ドイツの憲法は基本法(Grundgesetz)というから、正確には基本法改正法案である。その中身は、「国家目標」を掲げる原則条項に「動物愛護」を加えるというものだ。「国家目標」としては、九四年の基本法改正の際に「自然的生活基礎の保護」〔環境保護〕が追加されている(二〇a条)。男女同権の促進(三条二項二文)と障害者の不利益除去(同三項二文)が追加されたのも、この時である。
 動物愛護規定を新設することについて、社民党(SPD)と緑の党の連立与党だけでなく、野党の自民党(FDP)と旧共産党系の民主社会主義党(PDS)までが賛成した。しかし、保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)がこれに反対したため、基本法改正は行われなかった。
 投票の内訳は、賛成三九二、反対二〇五、棄権六。通常の法律なら可決されている数字だが、なぜ通らなかったのか。答えは簡単である。基本法の改正には、連邦議会議員の三分の二が同意し、かつ連邦参議院の表決数の三分の二を必要とする(基本法七九条二項)。だから、両院で三分の一以上の勢力をもつ最大野党CDU/CSUが一致して反対すれば、このハードルを越えることは不可能となるわけである。
直前の世論調査では、基本法に動物愛護規定を入れることに賛成と答えた市民は七七%に達していた(九六年調査では六〇%)。動物愛護団体は激怒。「八割の人が支持しているのに、なぜ改正ができないのか」と激しく反発した。
 ドイツでは九二年以降、動物実験をめぐる議論が活発化し、基本法を改正して動物愛護を「国家目標」として取り入れるべきだとの主張が行われるようになった。しかし、研究者のなかでは、動物愛護を憲法原則にまで高めると、科学技術研究を圧迫しかねないという危惧の声が強い。今回、動物愛護を加える基本法改正の試みは、九四年と九七年に続き、三度目の挫折をみたわけである(州のレヴェルでは八つの州憲法に動物愛護規定あり)。
 さて、基本法改正が否決された翌日、保守系新聞に興味深い評論が掲載された。タイトルはずばり「憲法とは何か」。
 「良いこととは何か、正当なこと、正しいこととは。何が愛すべきこと、高潔なこと、立派なことなのか。それをすべて憲法に書き込もうとしたら、基本法〔憲法〕は、ブロックハウス大百科事典と同じになってしまう。憲法が誰にでも理解でき、弾力的なものであるためには、短くかつ簡潔なものでなくてはならない。憲法とは何か。それは、国家の基本秩序、諸々の権力関係や勢力集団の規制体系、そして保護されなければならない価値の構造である。詳細は憲法の下にある法律でこれを定める」。
 こんな一般論を展開したあと、評論は、動物愛護を憲法に書き込むべしとする連立与党と一部野党をこう批判する。
彼らは「この〔短く簡潔であれという〕原則を緩和しようとしている。すべてを何らかの仕方で規制するために、動物愛護のような安易な国家目標に、これから基本法上の根拠を与えるというのだ。これは動物愛護団体を喜ばせるだろうが、動物にはほとんど助けにならない。動物を本当に助けようとする者は、法律を強化すべきであって、基本法に過重な負担をかけるべきではない」(Die Welt vom 23.4.2000)。
 結論から言えば、この主張は正当である。世論調査の結果から、国民の多数が望んでいるからといって、直ちに基本法〔憲法〕の改正に連動するものではない。憲法で定める内容としてふさわしいかどうかも含めて、慎重な審議と手続が必要となるのである。

◆何でも入れればいいのか?
 ドイツ滞在中から、インターネットで日本の憲法調査会の審議の模様を見ていたが、正直言って読み続けるのに難渋した。「押しつけ憲法」論議が佳境を迎えていた頃は、一体どこで議論しているのかとあきれる場面も少なくなかった。端的に言って、日本の議論の特徴は、まず最初に憲法改正ありき。憲法を改正すること自体に妙な力みが感じられる。私はこれを「改正オブセッション(強迫観念)」と言ってきた。
憲法を改正することは、憲法自身が改正手続規定を置いている以上、当然のことだろう。ただ、何を、どのように変えるのかという中身の問題と同時に、「憲法とは何か」に関わる基本的な論点が存在することに注意する必要がある。ここでは、次の三点のみ指摘しておこう。第一に、憲法に何でも入れればいいのかという問題、第二に、憲法改正の頻度の問題、第三に、憲法改正手続規定の改正の問題、である。
 まず第一の問題。「動物愛護と憲法」をめぐる動きはすでに紹介したが、日本でも、「環境権がない」とか「プライバシー権を入れよ」といった主張がにぎやかである。最近では「犯罪被害者の権利」の新設提案まで登場した(読売改憲第二次試案)。何でもかんでも憲法で定めればいいかと言えば、そう問題は単純ではない。
 例えば、もし動物愛護を憲法上の原則とした場合、学問・研究の自由との調整など、やっかいな問題が増えるだろう。学問・研究の自由のためとはいえ、動物実験を野放しにしていいのか。その主張は理解できるが、それを憲法で定めることが果して妥当なのかどうかはまた別問題である。
 先端科学技術の発展は、憲法学が解明すべき多くの問題を提起している。しかし、そうした問題に対応するために、直ちに憲法改正が必要ということにはならない。憲法ではなく、むしろ法律で定めることが適切な問題領域も多い。動物実験の規制はまさにそうした事例と言える。また、いかなる経済体制を選択するかなど、憲法が意識的にオープンにしている問題もある。
さらに、「新しい人権」を憲法に入れれば、その権利が保障される考えるのも錯覚である。現行憲法のもとでも、環境権やプライバシー権を求める市民の運動と判例の蓄積のなかで、それらの権利は確実に定着してきた。だから、例えばプライバシー権が憲法上明文の規定をもつに越したことはないが、この国では、通信傍受法(盗聴法)を推進した人々が、プライバシー権導入のための憲法改正を熱心に説いている。ここに、現在の改憲論議の危なさがある。
 なにがしかの権利を憲法に入れることに急なあまり、その権利の実現を支える市民の主体的努力の問題が視野から落ちてはいないか。市民の憲法意識の向上のためにも、「憲法のコンビニ化」は望ましいことではない。
次に、改正頻度の問題について述べよう。
 
◆何度も改正すればいいのか?
 「お宅は何回したの?」「四六回よ」「ウワーッ、すごい。うちなんか、まだ一回もしていないのよ」。
 井戸端会議の感覚で、憲法改正が語られている。その際、ドイツが半世紀の間に頻繁に改正を行ったことに言及されることが多い(直近の改正は、九八年一〇月二六日施行の第四六次改正)。憲法改正の頻度を問題にするならば、なるほど日本国憲法はまだ一度も改正されてはいない。だが、憲法改正を行っていないことをもって「普通でない」とする物言いはいかがなものだろうか。
 世界の三二カ国について、その憲法改正の難易度を比較・測定した研究がある(D.Lutz,Toward a Theory of Constitutional Amendment,in:American Political Science Review 88[1994],2,p.369) 。それをOECD加盟二〇カ国についてみると、ニュージーランドが〇・五で難易度の指数が最も低い。議会の単純過半数で憲法改正が可能だから。以下、オーストリア(〇・八)、ポルトガル(〇・八)、スウェーデン(一・四)、ドイツ(一・六)、ギリシャ(一・八)、ルクセンブルク(一・八)、フィンランド(二・三)、フランス(二・五)、デンマーク(二・七五)、アイスランド(二・七五)、ベルギー(二・八五)、アイルランド(三・〇)、日本(三・一)、ノルウェー(三・三五)、イタリア(三・四)、スペイン(三・六)、オーストラリア(四・六五)、スイス(四・七五)、アメリカ(五・一)の順番に難易度は上がっていく。
 意外なことに、日本国憲法の改正難易度は二〇カ国中一一位にカウントされている。憲法改正手続を数値に置き換えて比較したものだから、実際の難易度はその国の政治的諸条件に大きく依存している。それゆえ、数値上では日本より難易度が高い国でも、すでに憲法改正を何度も経験している国もある。他方、ドイツ基本法の場合、改正が容易な方の四番目で、改正頻度は最も高い。
 具体的に言えば、この半世紀の間、四〇箇条が追加、三箇条が削除され、同一条文内の追加・修正を加えると、計一九一箇所に手が加わった。すべての条文が平均一・一九回ずつ改正され、毎年平均三・三八回の改正が行われた計算になる(A.Busch,Das oft geänderte Grundgesetz,in:Demokratie in Ost und West,1999,S.553ff. 四六次改正を加算して一部修正)。ただ、これはあくまでも平均である。七六年から九〇年までの一五年間は一度の例外をのぞき改正はほとんど行われていないし、改正箇所も、連邦の立法権(三・五四回)と財政制度(二・二七回)に集中している。こうした「質」の面も見なくてはならないだろう。だが、問題はこうした改正頻度の評価である。
 ドイツの憲法学では、基本法改正の頻度を問題にする研究は多くはない。昨年退官した連邦憲法裁判所のD・グリム裁判官は、珍しく基本法改正の頻度を問題にした(Süddeutsche Zeitung vom 22/23/24.5;4.6.1999)。
 グリム前裁判官は、改正の頻度が高いことの原因として、基本法自体がかなり詳細な規定の仕方をしていることを挙げる。憲法が個別に立ち入れば立ち入るほど、頻繁な改正が必要となる、と。もう一つは、政治が迅速な改正を求めていることを指摘する。「憲法は、短命な政治の営みを、長期に妥当する諸原理に結びつけるべきなのであり、かつ、政治の営みに抑制をかけるべきなのである。憲法は変化のなかでの連続性を保障する。すべての憲法改正がそのことを考慮に入れたわけではなかった」。その例として、盗聴器の使用を可能にした基本法一三条(住居の不可侵)の改正などを挙げる。「憲法は国民主権の表現であり、政治に対して行動のための諸前提を付与する。だから、政治は自己の必要性に合わせて憲法をつくってはならない」。グリム前裁判官のこの指摘は傾聴に値しよう。
国家権力の統制という観点からすれば、憲法が、その時々の政権によって頻繁に改正されることは望ましいことではない。むしろ、憲法と現実政治の緊張関係がある程度存在している方が健全な姿と言える。改正の回数を誇張して、一度も改正されない日本国憲法に「世界最古の憲法」といったレッテルを貼るような姿勢は、世論を迷わすものだろう。

◆改正手続だけ変えればいい?
 三つ目は、改正手続規定の改正の問題である。
 最近、憲法調査会の訪欧団のことが新聞に載った(『朝日新聞』九月一六日付夕刊)。そこでは、訪欧団が、ローマ在住の日本人女性作家から憲法改正「私案」の聞き取りを行ったことが紹介されている。多額の税金を使った公的機関の「調査」なのに、作家との会合が最大の話題とはいかがなものか。記事は訪欧団に同行した記者(政治部)が書いたものらしく、その点に関する批判的視点は感じられなかった。それはともかく、問題は作家の「私案」の内容である。その主張とは、改憲手続きのハードルを低くするということに尽きる。
 憲法九六条は、(1) 衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成で国会が発議し、(2) 国民投票の過半数の支持を得るという二段構えになっているが、作家は、衆参各議院の総議員の過半数の賛成だけで改正できるよう、九六条改正を憲法調査会メンバーに提案したという。
 そう言えば、六年前の読売改憲第一次試案も、憲法改正手続のハードルを下げることを提案していた。その際、(1) 各議院の在籍議員の三分の二以上の出席で、出席議員の過半数の賛成、国民投票における有効投票の過半数の賛成という方法と、(2) 各議院の在籍議員の三分の二以上の出席で、出席議員の三分の二以上の賛成、という二つの方法を提案していた。これは、その時々の改憲多数派が、三分の二以上の議席を確保できたときは国会だけで憲法改正を行い、議席が三分の二にとどかないときは、国民に直接訴えて国民投票で多数をとることに賭ける。いずれにせよ、憲法改正を容易にすることだけを主眼にした恣意的な提案と言えよう。今回の作家の「私案」は、この読売案よりも単刀直入に、通常の法律案の議決に近いところまでハードルを下げている(法律案は「出席議員の過半数」で可決、作家の案では「総議員の過半数」)。憲法は法律並みに改正が容易になるという仕掛けだ。
 ところで、憲法改正手続規定の改正というのは、実はやっかいな理論問題を含んでいる。まず前提問題として、憲法改正の手続を踏めば、いかなる改正も可能かという問題がある。これを肯定するのが「憲法改正無限界説」である。それに対して、国民主権や基本的人権、平和主義といった基本原理の変更は許されないとする立場が「憲法改正限界説」である。憲法学界の通説は後者である(何をもって限界の内容とするかに違いあり)。憲法改正の手続さえ踏めば何で変えられるわけではなく、憲法の基本原理の変更は許されないのである。
 では、憲法改正手続規定の改正を、同じ改正手続で行うことが許されるか。改正限界説をとる論者でも、これを肯定する者もおり、学説上微妙な相違がある。ただ、憲法改正国民投票を廃止するような改正は、国民主権の根幹に関わるので許されないとする立場が有力である。筆者は、憲法改正規定は、国民主権原理と密接に結びついている以上、主権原理それ自体の除去が許されないのと同様の論理で、その改正は許されないと解する。ちなみに、憲法九条の平和主義の問題を「国会と立法権」の一個別テーマとして軽く扱う松井茂記『日本国憲法』(有斐閣)も、憲法改正規定の改正についてはこれを許されないものとして、重く解釈している(七六頁)。
このように、憲法改正手続の改正問題は、憲法上重大な問題を含むのである。ところが、憲法改正国民投票の廃止を説く女性作家の主張に、国会の憲法調査会という公的機関のメンバーが「引き込まれていた」というから、これを素人の思いつきといって軽視することはできないだろう。

 憲法改正論議で一番奇妙なことは、現行憲法の規範内容を実現することに冷淡だった人々の発言が目立つことである。憲法改正を主張する人々が、本来憲法によって規制を受ける側の人々であるとすれば、それは疑ってかかるのが筋だろう。なぜなら、憲法は、国家権力を抑制するところに存在意味があり、権力の側がこの拘束を弱めようとするとき、市民には決して利益にならないからである。改正手続を簡易にして、時の権力に都合の悪い憲法規定を改めることができるようになれば、それはまさに「国家権力にやさしい憲法」と化すだろう。憲法論議においては、「規範」と「現実」の矛盾ということから性急に規範の変更に向かうのではなく、規範に反する現実のありようをしっかり見据え、その現実を変えていく努力こそ求められているのである。
なお、筆者のホームページ(http://www.asaho.com/)参照。
                     (みずしま あさほ・早稲田大学教授)

付記:字数の関係で削除した部分を一部復活してある。