地上の暗黒――燈火管制と法
 水島朝穂
 〜『三省堂ぶっくれっと』No.121 November, 1996



燈火管制を詠む

燈火管制の小暗き部屋に五齢蠶(れいご)*1は音たくましく桑を食むなり
白尾ゆき枝(岐阜)

海近き町にしあれば燈火管制瞬時たりともゆるがせにせず
内村弘子(静岡・沼津)

 空襲に備へて洩るゝ灯もなきに杳(はる)かに白し月夜の富士は
鈴木好江(静岡・三島)

 戦時中の『主婦之友』の短歌欄。31文字のなかに「燈火管制」を詠んだ歌である。前二者は1942年8月号と11月号の作品。ともにその月の二等(賞金5円)に入っている。選者・若山喜志子は、前者について「巧者な歌と言ふべきでせう。一点非のうちどころもありません」と絶賛。後者については、「線太く一気にうたひあげたところに実感の強さがある。女性の作としては『瞬時』が少々気になるけれど……」とコメントしている。
 三つ目は、1943年10月号で「秀逸」(賞金1円)に入選した作品。作者の住む三島の町並みも工場も、月明かりに美しく浮かび上がっていたことだろう。月や星に対して、燈火管制はまったく無力だった。

「地上の暗黒」−−燈火管制

 燈(灯)火管制とは、「もっと光を!」の逆をいく、「もっと光を遮(さえぎ)れ!」の究極の世界。市民の日常生活の光を、国家が管理・統制する。何のために。「燈火管制は要地及其附近を暗黒ならしめ以て敵をして遠方より目標発見を困難ならしむるを目的とす。……之が実施に方(あた)りては市民の規律と徳義心とに訴ふる處ところ甚(はなは)だ大なり」(『陸海軍・軍事年鑑』昭和一四年版〔日本図書センター、1989年復刻〕558〜559頁)。
 「地上の暗黒」をつくるため、市民の日常生活から「光」を系統的に駆逐する準備がなされていく。
 38頁の写真は、1933年8月の関東防空演習記念絵はがきである。二つのセットのうちの一つ(B)は燈火管制が中心である。「警報班の活躍」「最新式照空機及聴音隊の活躍」など、妙に派手な訓練が目立つ。だが、電気事業関係者が関東防空演習を調査・分析した『燈火管制調査委員会調査報告書』(1935年10月)を見ると、関東地区の電気工作物に防空を考慮した設備がほとんどないなど、灯火管制の不備が嘆かれている。
 39頁の図は、翌1934年7月に近畿2府6県で実施された近畿防空演習の際、滋賀県が家庭に配付したポスター(「燈火管制と其の警報」)である。空襲警報の方法として花火(奉祝花火と同様のもの)、警報解除の方法として太鼓が入っている。空襲のリアリティがまだ希薄だったことを示している。

防空法と灯火管制

 「夜の世界を昼の世界と同様の活動の舞台とし得るやうに、愈々(いよいよ)あかるい照明が工夫せられ、益々華やかな燈火が考案せられる。燈火管制はまさにこれに正面衝突である」(『燈火管制指針』巖松堂、1938年11頁)。その法的根拠が、防空法(1937年4月5日法律第四七号)であった。
 防空法一条は、空襲に際して民間人や自治体が行う任務を列挙しているが、そのトップが「燈火管制」であった。「消防」「避難」「救護」などの項目よりも前に置かれていた。1941年の防空法改正法(法律第91号)では、さらに「偽装」「防火」「防弾」などが加わったが、まだ「燈火管制」はトップの座をキープしていた。だが、空襲が現実のものとなってきた1943年の改正法(法律第104号)では、「監視」がトップ項目となり、「燈火管制」は一気に四番目に後退する。とはいえ、燈火管制は、市民にとっては、何にも優先して実施すべき国家的義務となったのである。
 燈火管制について直接規定するのは、防空法八条である。「燈火管制ヲ実施スル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ実施区域内ニ於ケル光ヲ発スル設備又ハ装置ノ管理者又ハ之ニ準ズベキ者ハ他ノ法令ノ規定ニ拘ラズ其ノ光ヲ秘匿スベシ」。
 「光」を秘匿する。これは存外大変なことである。夜間、無灯火でいることは危険であるばかりか、違法となる場合も少なくない。例えば、自動車取締令、軌道運転信号保安規程、海上衝突予防法は、自動車、列車、船舶にそれぞれ夜間点灯を義務づけている。防空法八条が「法令ノ規定ニ拘ラズ」としたのは、これら夜間点灯義務に対して、燈火管制を優先させるという意味である。

暗闇づくりの基準−−燈火管制規則

 防空法八条にいう「命令」とは、燈火管制規則(1938年四月四日内務・陸軍・海軍・逓信・鉄道省令第一号、1942年6月2日改正)のことである。燈火管制規則(以下、単に規則という)こそ、「地上の暗黒」を演出する基準であった。
 規則は、燈火管制を「警戒管制」と「空襲管制」とに大別し(二条)、これに対応する「光の秘匿の程度」を、別表で詳しく定めている。
 別表は七種類もある。一号表=一般の屋外燈(広告看板、装飾燈、街路燈等)、二号表=一般の屋内燈、三号表=一般〔道路〕交通、四号表=鉄道、五号表=船舶、六号表=航空機、そして七号表「火焔其ノ他ノ光」である。「其ノ他」には、「炭火、マッチ、ライター、煙草等ヨリ発スル光、写真撮影用閃光」も含まれる。ちっぽけな煙草の火まで統制の対象とは恐れ入る。「マッチ一本火事のもと」ではなく、「マッチ一本、敵機の目標」というわけか。
 「秘匿ノ程度」は、「消燈(消光)」から、「隠蔽」、「減光」、「減光且遮光」、「漏光制限」に至るまで、これまた実に細かい(以下、前掲『燈火管制指針』27〜206頁参照)。
 まず、「消燈」。ただ単に消すだけ。「隠蔽」とは、「開口部其ノ他ニ覆ヲ施シ外部ニ対シ漏光ナカラシムルヲ謂フ」(規則九条一項)。光源から直接出る直射光だけでなく、材料などに反射して漏れる反射光も完全にカットすることが要求された。次に、「減光」。完全に消さないで、一定限度以下に暗くすること。「減光」の程度は、ルクス、透視距離などであらわす。さらに、「減光且遮光」。「減光」を行った上で、「遮光」をする。「遮光」とは、「光源ニ対シ直接覆ヲ施シ又ハ之ニ準ズル方法ヲ講ジ各表ニ掲グル条件ニ依リ光ヲ遮ルヲ謂フ」(九条二項)。「遮光」の主眼は、上空に向かう光を遮ることとされた。材料も光の透過率の低いものを使う。黒布なら、厚手のもの。薄ければ何枚か重ねることが必要。光源の下端より遮光具の下端に引いた線が光源の下方に向かい水平面と20度以上の角をなすことなのだそうである。だが、末端において、実際、こんなクソ細かい規制基準が守られていたのだろうか。

燈火管制の「例外」

 完全な暗闇は、戦争遂行上も色々と具合が悪い。規則が面倒な定め方をしているのも、実は、防空法が「統一管制」(電力供給の一律停止)を採用していないことと関係がある。一切の光を奪えば、軍需工場はストップする。それを回避するため、「特別ノ事情ニ因リ必要アリト認メ」られ、かつ、地方長官(知事)の指定がなされたものは、燈火管制の適用がないことにしたのである(規則五条二項)。また、消防や人命救助など、「緊急ノ必要アルトキ」には、必要最小限度の光を使用することが認められていた(六条一項)。
 もっとも、光を使用した者は、住所氏名、使用の場所・区域・時間、光の種類・個数・程度・使用方法、使用理由を記して、所轄警察署長に速やかに届け出なければならかった(燈火管制規則施行細則〔1938年7月6日大阪府令第84号〕四条)。これを怠ったものは処罰された(拘留または科料、同細則七条)。
 暗闇で光を使うことに、ここまで面倒な手続を課して、うまくいくはずもない。いきおい、「例外」が幅をきかす。内務次官から各地方長官〔知事〕宛の「燈火管制規則施行ニ関スル件」(1938年4月4日)には、「緊急ノ必要」による光の使用は「厳ニ濫用ヲ戒ムルコト」とある。さらに、光を使用した場合は警察署長に届け、警察署長は速やかに陸海軍司令官に通報することが義務づけられた(『陸海軍・軍事年鑑』昭和一七年版571頁)。
 罰則も強化された。1937年防空法は、燈火管制違反者(八条違反)は、300円以下の罰金、拘留または科料であった(一九条)。1941年の改正で、一年以下の懲役または1000円以下の罰金に変わった(一九条二項)。「光ノ秘匿ヲ妨害」する行為は、懲役に値する犯罪となったのである。
 右のような煩雑で細かな規制により、市民生活に混乱が生じ、軍需生産の現場でも阻害要因となるに至った。そこで、政府は、「燈火管制強化対策要綱」(1944年12月29日、閣議決定)を出して、当分の間、燈火管制規則よりも優先させる方針をとった。これにより、「警戒管制」時から「空襲管制」に準ずる態勢がとられるようになった。

燈火管制の目的は

 実は、防空関係者自身、燈火管制が完全に行われても空襲による被害を皆無にしえないことを率直に表明していた(前掲『燈火管制指針』六頁)。大日本産業報国会編纂『工場・鉱山防空緊急対策』(皇国青年教育協会、1943年138頁)も、燈火管制の困難さについて触れている。灯火管制を徹底しすぎれば、軍需生産は停滞する。これは灯火管制の深刻なディレンマだった。
 では、灯火管制の目的・狙いはどこにあったのか。
 灯火管制は、「敵機」に対して、みんな一丸となって「地上の暗黒」をつくろうという「運動」である。しかも、室内の電灯に覆いをつけるなどの比較的簡単な作業で、市民も「参加」できる。だが、自分勝手な輩が一人でもいて、電灯をこうこうと点けていたら、みんなが「目標」になる。「光を出す奴は非国民」。「市民の規律と徳義心」が発揮され、市民の相互監視・統制は勢いを増す。
 1938年9月の広島で行われた防空演習の後、軍や行政関係者が「講評」を行った。第五師団防衛司令部の関係者はこう述べた。「頭隠して尻隠さず」「電車、自動車などの燈火管制はよくなっているが、裏通りはまだまだ駄目だ。『洩れる一燈敵機を招く』で、一人の不注意が大きな結果になることを認識してほしい」(『中国新聞』1938年10月1日付)。
 防空訓練と同様、灯火管制もまた、「無意味」なことの繰り返しを強いることで、市民の不満を抑えるという付随的効果を伴ったことは否定できない。燈火管制は、米軍に対するよりも、むしろ国民生活の統制という内向きの狙いもあったといえるだろう。

燈火管制の「効果」

 では、燈火管制は実際に効果があったのだろうか。  1944年11月に始まる本土空襲は、高々度昼間精密爆撃であった。昼間だから、燈火管制は無意味だった。都市に対する低高度夜間焼夷弾爆撃が開始されるのは、1945年3月の東京大空襲以降のことである。夜間爆撃能力も格段に進歩した。第二一爆撃機集団は、レーダー焼夷弾攻撃を行った。B29のAN/APQ−13というレーダー装置は、性能的には不十分さを残しながらも、次第に効果を挙げていった。しかも照明弾を散布しながらの爆撃。例えば、5月23日の東京空襲に向かったB29五六二機のうち、四四機は照明機(先頭で照明弾を散布する役割)であった(『米国陸軍航空部隊史』五巻〔『東京大空襲・戦災誌』〔東京空襲を記録する会、1973年〕三巻759頁より引用〕)。
 『米国戦略爆撃調査団報告書』(以下、『報告書』という)を検索しても、燈火管制が米軍に困難を与えたという記述は見られない。ところが、『大東亜戦争間における民防空政策』(防衛庁防衛研究所・研究資料87RO−4H 、1987年132頁)は、燈火管制が無駄ではなかった証拠として、『報告書』のなかの、「日本の目標暗黒化は絨毯じゅうたん爆撃でなく目標爆撃であったならば有効にその目的を達したであろう」という記述を持ち出す。これはミス・リーディングであろう。米爆撃機隊にとっての困難は、航空機の運航上障害となる強い西風など、日本上空の気象条件にあった(前掲『戦災誌』三巻891頁)。風速100メートルに達するほど激しく吹き、周辺に乱気流を付随して爆撃機の編隊を崩してしまう(これは戦後ジェット気流として知られるようになる)。日本側がどんなに光を遮っても、爆撃する側に支障はほとんどなかったと言えよう。
また、『報告書』No4はいう。日本の民防空の重点は、燈火管制と小型焼夷弾と火災の消火に置かれていたが、「〔東京〕大空襲後の防空活動に対する無気力さと人員の喪失とは、上級機関の指導する……訓練のほとんど全面的終始を招来するに至った」(前掲『戦災誌』五巻573頁)、と。

 この怒り必ず果す時あらむ炎群(ほむら)に映えし敵機を睨にらむ
谷 利恵(大阪)

 戦時下『主婦之友』の最終号(1945年7月)の短歌欄で一等(賞金10円)となった歌である。若山喜志子は、「『怒りを果す』といふのは如何かと思はれる」と批評しながらも、これを最後の一等賞に選んだ。そこには、冒頭の歌に見られた余裕も情緒もない。度重なる空襲で、日本は燈火管制の必要もないほどの末期的状況を迎えていた。
 次回は、防空法制のもとで、住民の避難や「疎開」はどのように行われたかを見ていこう。

*1五齢蠶(ごれいご)
「かいこ」である。「齢」は昆虫の幼虫期における発育段階を、脱皮を基準に区切った場合の各時期のこと。蚕では五齢まで成長すると繭をつくる。


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