雑談(150) 音楽よもやま話(36) マーラー交響曲第3番とその「作曲小屋」のこと
2025年5月30日


マーラーの交響曲のこと
年ぶりの「音楽よもやま話」シリーズである。国内外ともに激震が続いているが、隔週更新にしたこともあり、4月末に書き上げていたストック原稿をアップする。前回は「雑談(147)音楽よもやま話(35)「ウクライナ戦争」で音楽監督を辞任したロシア人指揮者のブルックナーを聴く」だった。今回は4月27日(日)、NHK交響楽団5月定期公演(NHKホール)で、マーラーの交響曲第3番ニ短調である。指揮はイタリア出身のファビオ・ルイージ、メゾソプラノはロシアのオレシア・ペトロヴァ、それに東京オペラシンガーズ と東京児童合唱団である。全6楽章、100分近い大曲なので、開演前は男性トイレに高齢者の長い列ができていた(聴衆の圧倒的多数は中高年男性)。

元ブルックナー協会会員の私は、マーラー作品にもこだわりがある。何度か書いたが、高校2年生の時、1970年9月7日、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団でマーラーの交響曲第9番ニ長調を聴いた感動は、半世紀以上が経過しても、体が覚えている。今回の第3番については、2010年3月31日にエリアフ・インバル指揮の東京都交響楽団、ドイツ在外研究中の2016年6月19日、ベルナルト・ハイティンク指揮のバイエルン放送交響楽団の演奏で聴いている。

 

N響で交響曲第3番ニ短調を聴く

   第3番はとにかく長い。第1楽章だけで35分はかかる。これは、ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」の全4楽章分である。Googleで「第3番 第6楽章」とだけ入力して検索すれば、動画で体験できる。

 当初、この曲には「夏の朝の夢」(Ein Sommermorgentraum)というタイトルが付けられ、楽章ごとに、次のような小タイトルが付けられていた。

第1楽章:牧神(Pan)が目覚める。夏が行進してくる(Der Sommer marschiert ein)。

第2楽章:草原の花たちが私に語ること。

第3楽章:森の動物たちが私に語ること。

第4楽章:人が私に語ること。

第5楽章:天使(Engel)が私に語ること。

第6楽章:愛が私に語ること。

これらは、1898年の楽譜出版前にすべて削除された。ただ、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団のCDには、「夏の交響曲」というタイトルが付いている。

 4月27日は日曜日だった。14時からの昼公演。NHKホール前の代々木公園の喧騒とは別世界に入っていった。3年前の10月に体感したロンドン交響楽団の開演前の不快な大音響(「アメリカンスタイル」というらしい)もなく、比較的静かな状態で本番を迎えることができた。

 第1楽章冒頭、ホルン8本による気合抜群の咆哮からは、よく評される「宇宙的な神秘」というよりは、むしろ人間的な喜びの正直な発露を感じた。金管や木管も基本的によく鳴っており、不安定さが一瞬見え隠れするものの、目立ったミスもなく熱量高く進んでいく。第2楽章の「草原の花たちが私に語ること」は、マーラー自身が婚約者のアンナ・フォン・ミルデンブルクに宛てた手紙のなかで、「私がこれまで書いたなかで最も気ままなもの(Unbekümmertste)」というだけあって、第1楽章の35分の緊張のあとのオアシスのような時間だった(Gustav Mahler: 3. Sinfonie d-moll, :Musik und Politik, 2007参照)。

第3楽章は、随所に動物たちが登場し、カッコウやナイチンゲールなどのさえずりなどでホッとする。木管ソロは大過なく聴かせる。トリオでは、舞台袖にいるポストホルンが至福の音色を奏でる。郵便馬車を象徴するこの楽器。第1楽章で牧神の目覚め、第2楽章で植物たち、第3楽章で鳥や獣などの動物たちと進み、この楽章の終盤に近いところになって、ようやく人間が登場するわけである。

第4楽章はアルト独唱(今回はメゾ・ソプラノ)で、「おお、人間よ」(“O Mensch!”)で始まるニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節が歌われる。「人が私に語ること」。9分少しで、第5楽章の天使の語りが、少年合唱と女性合唱で透明感あふれる声を響かせる。「子どもの不思議な角笛」のオマージュといえる。そして、一瞬の静けさの後に、第6楽章「愛が私に語ること」に入るのだが、この日の演奏で指揮者ルイージは、弦楽合奏を、ほとんど聞こえないくらいの弱音pppで、しかもテンポを通常よりもさらにゆったり始めた。流麗かつ濃密な弦の響きに息を呑む。もどかしいほどの弱音が長く続いたあとに、ゆっくりと、しかし確実に感情を盛り上げていく。このあたりは心憎いほどに計算された演奏である。第6楽章は25分近い長さをもつが、全体として滔々たる流れのなかに浸りきって、気がついたら最後の頂点に向かって上昇していった。コーダは長く、2人がかりのティンパニの連打が続き、最後の一打で曲が終わるのだが、フォルテ×3ではなく、絶妙な抑制でフェイドアウトしたので、余韻が長く、「嵐のような拍手」がすぐに起きることはなかった。全体として、細部まで気が行き届いた、非常に上質の演奏だったと私には感じられた。

 私とN響との付き合いは長く、80年代は、近所に団員の方(第2バイオリン)が住んでいたのでよくお茶したりして音楽談義をした。その関係で、招待券をいただいて、しばしばNHKホールに足を運んだ。1984年3月7日、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮の歴史的一回性のすさまじい演奏会にも立ち会えたことは、22年前の「直言」で書いた通りである。半世紀近く、N響を聴いてきた人間からすると、何にでも対応できる器用なオーケストラで、面白みがいま一つという印象だった。今回のマーラーの3番は、私個人としては、かなり満足し得る演奏の一つといえるだろう。

   なお、私が4月27日に聴いたプログラムも含めて、N響はヨーロッパ公演(ポスター参照)に出発した (5カ国、6都市8公演)。マーラーの第3番は、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウという伝統ある大ホールで演奏された(5月11日)。大方好評だったようだが、厳しい評価もある。でも、日本のオケが海外で評価されるのはうれしいことである。

 話は変わるが、交響曲第3番は、マーラーの自然理解と深く関連している。「岩山から花々や動物たちへ、そして最後には人間の精神へとつながる大きな弧を示している。 交響曲第1番と同様、これは人間の成長の物語である。人間になるためには、生命を持たない鉱物、植物、動物の自然から解放されなければならない。しかし、これは決して、マーラーにとって自然そのものが囚われ、苦しめられており、人間が芸術によって与えることのできる何か別のメッセージを待つことを意味しない」(前掲、Musik und Politik, 2007参照)と。とりわけ第3番の2、3楽章は、それが作曲された「場所」と関係があるとされている。

 

アッター湖畔の「作曲小屋」訪問

1891年からハンブルク市立劇場の指揮者を務めていたマーラーは、1893年からオフ・シーズンの夏の間、オーストリアのザルツカンマーグート(Salzkammergut)地方にあるアッター湖(Attersee)のシュタインバッハに滞在した。作曲は、湖の際にある小さな作曲小屋で行っていた。

私は2017年8月から9月にかけて、オーストリア、ハンガリーの旅をした(直言「ハンガリー国境の「汎ヨーロッパ・ピクニック」の現場へ―中欧の旅(その1)」)。フランクフルト空港でレンタカーを借りたが、日本から予約したフォルクスヴァーゲンではなく、米国フォード社製の「エコスポーツ」だった。加速が悪く、ブレーキの効き具合もよくなかった。16日間これに付き合って、アメ車の問題(アラ)がいろいろ見えてきた。

 アッター湖はオーストリア最大の湖で、南北20km、東西4kmと細長い。透明度は抜群である。8年前に、この「作曲小屋」を訪ねた際のことを、次のように書いている(直言「雑談(116)音楽よもやま話(23)ブルックナー・オルガン再訪―中欧の旅(その6・完)」)。

…風光明媚なザルツカンマーグートに2泊して、その間、アッター湖にあるグスタフ・マーラーの作曲小屋に立ち寄った。ホテルのフロントで鍵を借りて、湖畔にある小屋を探す。キャンピングカーがびっしり並び、ビキニ姿の女性が歩き回っており、目のやり場に困るほどだ。湖畔に小屋があったが、すぐ近くで中年の夫婦が並んで日光浴している。水着姿ばかりなので、服を着ている私たちの方が目立つ。ト音記号の形をした重いキーホルダーが付いた鍵でドアを開けると、センサーが作動して、マーラーの交響曲第2番ハ短調の一節が流れてきた。ここで交響曲第3番ニ短調の全部と第2番の一部が作曲された。本当に小さな部屋だが、マーラーは窓から見えるスカイブルーの湖を眺めながら、長大で雄大な第3番を書き上げたのだろう。…」

 マーラーはここに1894年6月から8月までこもって、第3番の作曲に没頭した。狭い室内にはピアノが一台。壁には、関係する楽譜や手紙がパネルにして展示してある(写真参照)。この風光明媚な場所、夏という季節だったからこそ、この背後の山並み、咲き乱れる花々、鳥や動物たちといった、夏の自然が曲想に反映したのだろう。一番弟子だった指揮者のブルーノ・ワルターがここを訪れた時、マーラーは、「君はもう何も見る必要はない。私が、音楽として描き尽くしてしまったのだから」と語ったというエピソードがある(この下りは、千葉フィルのサイト参照)。

 というわけで、病気入院する前に書き上げていたストック原稿をアップする。国内外の状況がきわめて緊迫しているなかで、趣味的な文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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