「トランプ大学」と日本学術会議解体法案――「学の独立」が失われていく
2025年6月11日



「トランプ大学」への道?
ランプ2.0の発足から140日あまり。「恣意の支配」を本質的属性とする「反憲法的国家改造」は、独特の宗教的背景を持ちながら、「関税ハンマー」と「チェーンソー政治」(推進者のイーロン・マスク自身の首も飛ばして)の手法を駆使しつつ、さらなる「高み」へと歩みを進めている。その終着点はどこにあるのか。2026年11月3日の米国中間選挙までの1年4カ月あまりが、トランプ2.0の絶頂期となるだろう。中間選挙で共和党が敗北すればブレーキが効いてくる可能性があるが、ことトランプのことである。何が起きるか予測することは困難である。確実なことは、トランプ政権が、とりわけ学問・研究の分野に巨大かつ重大なダメージを与え続けていることであり、その「復旧・復興」には膨大な時間を要するだろう。
   今年1月、トランプ政権が発足するとすぐに、大学・研究機関への攻撃が開始された。とりわけハーバード大学に対しては、ここまでやるかという「仕打ち」を続けている。『朝日新聞』6月8日付「時時刻刻」は、トランプによるハーバードへの激しい敵意と圧力の背景と狙いを分析している。研究助成金の停止あるいは削減、留学生受け入れ停止措置、大学運営そのものに対する露骨な介入は、入試や教員人事を含め、大学のあらゆる領域に及んでいる(『東洋経済』4月26日)。同大法科大学院のアンドリュー・マニュエル・クレスポ教授はこれを、「独裁者のように権力を集中させようとする際に使われる典型的手法」とみる。「歴史を振り返っても世界を見渡しても、こうした指導者は自由な言論機関や裁判所、そして大学を攻撃する」「政権の望みは、ハーバード大を実質的に『トランプ大学』に変え、思想教育をさせることだ」と非難する(前掲「時時刻刻」より)。

 反知性主義と不寛容の突出は、ハーバードを「生贄」「見せしめ」にして、すべての大学、研究機関に迎合と忖度の空気を生み出していく。既視感があるのは、ナチスが権力を掌握してから3カ月あまりたって、「ドイツ的でない」「アーリアの伝統に反する」という書物や芸術作品などが徹底的に排斥されたことである。「焚書」運動である(直言「焚書と「美しい国」の80年」参照)。焚書の対象リストには、マルクス主義やユダヤ関係の書物はもちろんのこと、多様な分野の文献が挙げられていた。トランプの「デジタル焚書」のすさまじさは被害の規模を誰もまだ想定できていない。大学や研究機関へのナチスの攻撃もひどかったが、トランプのそれは予測不可能な、「あっけらかん」としたところがあり、とてつもない破壊力を発揮している。さすがのナチスも、権力を握るまでは慎重にことを進めた(直言「憲法の手続を使って憲法を壊す―ヒトラー権力掌握から90年」。「トランプ2.0」の場合、権力行使に対する一片の抑制も躊躇もない。抵抗運動に対する州兵や連邦軍を使った抑圧についても、5年前のような軍内部の抵抗も想定する必要がないので、「スピード感」を増している。ハーバード大学の学生が抵抗をすれば、海兵隊の投入も辞さないだろう。
 トランプの米国と比べて、日本の場合は、大学、研究機関への攻撃は実に陰湿である。


6教授任命拒否から始まった
 冒頭の写真は2020年10月1日、菅義偉首相(当時)が、日本学術会議の新会員の候補者105人のなかから、6人の任命を拒否したことを記者会見で説明したときのものである(テレビ朝日10月1日夕方のニュース)。菅は、記者から任命拒否の理由を質問されても、「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した」と繰り返すのみだった(直言「日本学術会議6教授拒否事件」参照)。

安倍晋三第2次政権では、「憲法蔑視」(トランプのメンタリティと響き合う)が定着し、「科学的根拠なき政治―議事録も記録も、そして記憶もない」が行われていた。学術会議の存在が煙たくて仕方のない安倍政権は、2016年頃から、学術会議会員の任命過程に、さまざまな形で介入するようになってきた。これを引き継いだ菅政権は、安倍時代から9年近く官房副長官をやった杉田和博(警備公安警察のレジェンド)を軸に、学術会議会員の任命手続きに露骨に介入した。会員の任命手続については、あの中曽根康弘首相ですら、「実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております」(1983年5月12日の参議院文教委員会(308番))と述べて、抑制的な姿勢を保っていたのとは実に対照的であった。

 6教授の任命拒否への抵抗が予想以上に大きかったことに懲りた政府は、今度は、学術会議そのものを改変することによって、組織・運営への政府介入を「合法化」する方法をとるに至った。それが、日本学術会議「法人化」法案である。「独立行政法人化」は、2004年に国立大学について先鞭が付けられていた。大学に企業の思想と行動原理が持ち込まれ、運営費交付金の削減(兵糧攻め)とあいまって、国立大学の停滞と低迷を生んだ最大の原因となった(直言「大学にガバナンス?─「大学の自治」はどこへ」参照)。さまざまな「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」「やっかみ」を巧妙かつ執拗に利用して、学者・研究者と一般の人々を分断し、理系と文系を分断し、大学間を分断し、研究者を批判的か否かで分断し、批判する者を孤立させる(直言「学問研究の自由の真正の危機」参照)。そして、ついに学術会議の組織および運営に対する政府の介入の巧妙な回路がつくられようとしている。それが法人化法案である。直言「「学問の自由」の危うい状況、さらに」でも書いたが、自民党だけでなく、新自由主義、国家主義、歴史修正主義を特徴とする日本維新の会による大学や学術・科学研究への介入の主張も軽視できない。立憲民主党も残念ながら、学術会議を実質的に解体する法案の審議に対して総力で抵抗する姿勢に欠けている(個々の議員の奮闘はあるが)。そういう国会の状況のなかで、学者・研究者、危機感をもつ市民を除いて、この法案に対する市民の関心は高くはならなかった。メディアの問題意識の低さは、別個検討に値するほどひどいものだった。

  『東京新聞』5月29日付社説は、東京地裁が、6教授任命拒否に関わる法解釈の検討文書の全面開示を命ずる判決を出したことを取り上げ、「(学術会議の)組織見直しの契機となった任命拒否の経緯を政府は明らかにしていない。検討文書の速やかな開示に加え、任命拒否と法案の撤回を政府に求める」としつつ、国会の審議を止めるべきだとはっきり求めた。ここまで踏み込んだ新聞社説はなかった。


「学術会議解体法」成立――軍事研究強化が狙い

日本学術会議法案は、610日、参議院内閣委員会おいて採決され、11日の本会議で可決・成立した。それを当日朝、1面トップで伝えたのは『毎日新聞』11日付だけ。しかも「独立性懸念」という危機感のなさである。「令和の米騒動」や豪雨災害などのニュースの間に埋もれて、異例のスピードで成立した(左の写真の『東京新聞』12日付は1面トップ・追記)。

 そもそも日本学術会議は、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として戦後発足したが、その原点は、原爆の開発にたずさわった仁科芳雄博士の手書きの声明(1950年) にあるように、「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意」にある。1967年の声明には、「日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が又平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する」とある(直言「科学者が戦争に協力するとき―「科学技術非常動員」文書から見えるもの」参照)。今回の法案には、日本学術会議法前文にあった「平和」という文言が消えている。

 2022年12月の「安保3文書」の一つ、「国家安全保障戦略」には、「研究開発成果の安全保障分野での積極的活用」「アカデミアを含む最先端の研究者の参画促進」が掲げられている。2017年3月、学術会議は「軍事的安全保障研究に関する声明」を出して、防衛省の「安全保障技術研究推進制度」(防衛装備(武器と武器技術)に使えそうな基礎技術の研究の公募)に対する批判的姿勢を基本的に崩さなかった。軍事研究の推進のためには、この学術会議が「目の上のたんこぶ」である。6教授の任命拒否は、学術会議解体の手始めだった。そして、いよいよ組織そのものを、無害化・無力化しようとしてきたわけである。

 法案では「特殊法人」に切り替えることで、「財政基盤が多様化し、自律的な活動が拡大する可能性が広がる」というのだが、これは馬の前にぶら下げられた人参である。法案の最大の問題点は、学術会議の独立性が形骸化され、侵害されかねない仕掛けが随所に仕込まれている。

 まず、法案では学術会議を特殊法人化し、政府による管理・統制が実質的に強化される。予算や決算、中期計画について口をはさむ運営助言委員会、主務大臣が任命する監事、主務大臣が任命する外部有識者により構成される評価委員会という3方向からの介入の回路が、学術会議の独立性を大きく阻害する。「財政基盤の多様化」という名による産業界への資金的依存(金も出すが口も出す)の仕組みも問題である。

何より会員選定の仕組は巧妙で、会長が任命した外部有識者からなる選定助言委員会を置き、その意見を聞くことが義務づけられている。政府に批判的な意見をもつ研究者が選定される「心配」はほとんどなくなるだろう。6教授任命拒否の「合法化」の完成といえる。
    この狙いを明け透けに語ってしまったのが、5月9日の衆院内閣委員会での坂井学・内閣府特命担当大臣の答弁である。「特定のイデオロギーや党派的な主張を繰り返す会員は、今度の法案で解任できる」と。
 なお、この法案の問題点については、日本弁護士連合会会長声明参照のこと。

なぜ、メディアも市民も関心が低いのか――「日本学術会議が日本会議に」という悪夢

80年近い歴史を有する日本学術会議の歴史が終わる。5年前の直言「科学者が戦争に協力するとき」でこう書いた。「日本の学問研究や科学技術の世界に、国家権力がここまで露骨に踏み込み、細かく統制を加えてきたのは、かつてないことだった。イエスマンの科学者ばかりを集めた日本学術会議から「学術」をとってしまったら、日本会議になってしまうという悪夢を見ないためにも、この問題を曖昧にしてはならない」と。

 この悪法が成立する背景には、メディアのみならず、一般市民の関心の低さがある。というよりも、学問、学術、研究、科学といった世界については、そこにおける「専門家」の思いや危機感というのは、一般の人々(「素人」)にはなかなか理解されにくい。もっと「専門家」は伝える努力をすべきなのだが、「米騒動」や物価高と同じ程度に関心をもってもらうことは困難だった。国会前に研究者が座り込んでも、メディアはほとんど報道しない。

 直言「日本学術会議問題の本質は何か―ニコラウス・クザーヌス「専門家-素人」相関の視点から」において、中世哲学の八巻和彦・早稲田大学名誉教授が述べたことを改めてかみしめている。 

「学術会議問題は、二種類の〈素人〉による〈専門家〉の挟撃として捉えるべきである。研究資金の提供者としての、広い意味での〈権力〉という〈素人〉が、提供している研究資金は税金が原資であるから一般民衆(国民)という〈素人〉にも発言権があるのだと、もう一方の〈素人〉に語り掛けることで、多数の〈素人〉を〈権力〉という〈素人〉の側に動員している。日本の学術会議問題において、〈素人〉である政府は、もう一つの〈素人〉である国民の耳に(まさに俗耳に)入りやすい任命拒否の「理由」を挙げた。例えば、「日本学術会議は年間10億円の予算を使っている」とか、「学術会議会員の所属機関に多様性が見られない」等々。この根底で働いているのは、〈専門家〉に対する〈素人〉の反感、不信感であり、それと密接に関わりながら、近年急速に醸成されつつある反知性主義的雰囲気である 。さらに日本では、他者ならびに他者の意見に対する批判を無前提的に「よくないこと」と見なす傾向が顕著である。…」

 今回の法律についても、上記と同じことがいえるだろう。この法律の成立により、政府は軍事研究を推進しやすくなるし、学術会議も次第に政府の意向を忖度する機関になっていくだろう。ノーベル物理学賞を授賞した真鍋淑郎さんは、この状況をどうお考えだろうか。「トランプ大学」化と称される米国の悲惨な研究状況のなかで、日本に帰ろうと思う積極的理由にならないことだけは確実だろう(直言「学問の自由」の危うい状況、さらに―「だから日本に帰らない」参照)。

   昔もいまも、「学の独立」が危うくなれば、市民生活にも大きな影響を及ぼしていくことを知るべきだろう。

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