大虐殺の傷痕(1) ―― カンボジア・ラオスの旅(1) 2001年4月9日

年冒頭で予告したように、3月中旬の8日間、タイ、カンボジア、ラオスをまわった。最大の狙いはカンボジア取材。来年はPKO協力法制定10周年。自衛隊の本格的な海外派遣が始まって10年を前に、「その後のカンボジア」を直接取材しておきたかったからだ。

自衛隊の宿営地タケオにも行く予定だったが、この機会に「世界一不思議な国」と言われる「ラオス人民民主共和国」に足をのばすことにした。両国ともビザが必要。カンボジアは東京・赤坂のカンボジア大使館で申請・取得したが、ラオスは特定の業者を経由しないと観光ビザがとれないと知り、ビザ取得のため、タイのバンコクに2日間滞在した。朝一番でラオス大使館に行くと、同じ目的のドイツ人の若者2人が待合室にいた。男性の方はラオスに入るため、バンコクに1日滞在したそうだ。幸い、1時間待っただけでビザはとれた。雨が本降りになったので、若者2人を私の車で市内まで運んであげ、「ラオスで会いましょう」と言って別れた。

翌日、タイ航空でカンボジアに着いたときは、快晴で34度。ムワーッという暑さと、整地されていない道路の土埃に、鼻がムズムズする。ホテルのマネージャーに「ポル・ポト派の惨劇のあとを詳しくみたい」と連絡しておいたので、多少英語のできる年輩の運転手を待たせておいてくれた。プノンペン生まれの52歳。妻と子ども2人がいる。ポル・ポト時代、郊外の強制収容所に入れられ、生死の境をさまよったという。4つ年上とは思えないほどに年老いて見えるのは、苛烈な収容所体験のゆえだろう。彼に取材の趣旨を告げると、さすがに顔がこわばった。それでも、プノンペン郊外のデコボコ道を慎重に運転して、虐殺ポイントを詳しく案内してくれた。

  今から26年前の1975年4月17日(木)。クメール・ルージュ(カンボジア共産党〔ポル・ポト〕)の部隊がプノンペンを「解放」した

  当初、マスコミはポル・ポト政権の誕生を歓迎したが、それこそ壮大なる勘違いだった。1979年1月7日にベトナムの軍事侵攻(その評価は分かれるが)により崩壊するまでの3年8カ月と20日間、ポル・ポト政権は「200万人」に死をもたらした。プノンペンから南西に15キロほど走ると、今やカンボジア観光の「名所」となった観のある「キリング・フィールド」(Killing Field)に着く。その1キロくらい手前から、ハンドルを握る運転手の右手が不自然に震えるのに気づいた。看板の解説には、「絶滅収容所Choeung EK」とある。約2万人が収容され、1万人が殺されたという。

入場料として2ドル(ここでは大学教授の月収が20ドルだ!)を払いなかへ。

慰霊塔のなかには無数の白骨の列(→画像へ)。

人骨を焼いたときのあの独特の臭いが鼻をつく。下顎骨だけの棚もある(→画像へ)。8985体分の頭骨。ガイドの話を横で聞かせてもらったが、こん棒やナタなどの原始的手法による殺戮(→画像へ)なので、死に切れない人々の悲鳴がずっと聞こえたという。そうやって殺し続けた死体が、穴の中に何層にもなっているとのこと。その種の大量埋葬地(Mass Graves)→画像へ)はここだけで129カ所。うち86カ所は発掘されたが、残りはまだ土中にあるという。犠牲者の衣服の山(→画像へ)は、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を想起させる。だが、ナチスのように、ガス室で殺害して灰にしてしまう、オートメーション的「合理的」殺戮方法とは異なり、犠牲者の断末魔と直接向き合い、その返り血をもろに浴びる「手工業的」方法は鬼気迫る。

草むらには人骨や衣服の切れ端がころがっていて、思わず足がすくんだ。そうした手法で多数の人々を殺し続けたエネルギーは一体何だったのか。もっとも、そうしたポル・ポトの蛮行を、カンボジアの特殊事情に還元することはできないだろう。根本的には、異文化・異分子から社会を浄化する「粛清」の思想が背後にある。それはスターリンの「大粛清」の延長線上で捉えるべきだろう。とくに中国「文化大革命」の思想と行動は、ポル・ポト政権に強い影響を与えたとされる。カンボジア「200万人」の犠牲を含め、旧ソ連や東欧、中国など、前世紀に地球規模で展開された「粛清の思想」の犠牲者の総数は1億人を超える(『共産主義黒書』,Das Schwarzbuch des Kommunismus, Muenchen 1998,S.16)。「階級敵」の抹殺をはかる「粛清」を、ジェノサイド=民族皆殺し(Genozid)と区別して、同一民族内における系統的殺戮という意味で「ソシオサイド」(Soziozid)と呼ぶ論者もいる。「古い社会」を根底から破壊しつくし、「新しい子どもの国」を作ろうと夢想したポル・ポト。司法を通じた「過去の克服」の試みは始まったばかりである。

さて、そうしているうちにも、車は悪路のなかプノンペンに近づいた。カローラに乗っていても腰が痛い。次の取材先は、ツール・スレーン(Tuol Sleng)収容所である。

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