もう一つの9.11 2002年2月4日

「9月11日だった。意を決した数人のパイロットによって異常な針路をとった飛行機が、彼らの憎む政治体制のシンボルを壊滅すべく、大都市の中心部に向けて突進した。瞬時の爆発、四方に飛び散る破片、地獄の轟音のなかで崩壊する建物、愕然として瓦礫のなかを逃げまどう人びと。そして、この惨劇を生中継するメディア…。これは2001年のニューヨークではない。1973年9月11日、チリのサンティアゴだ。アメリカの後押しで、ピノチェト将軍が社会主義者サルバドール・アジェンデに対してクーデタを起こし、空軍が大統領官邸を集中爆撃した時の模様だ。数十名が死亡し、以後15年にわたる恐怖政治が始まった」。月刊誌『ル・モンド・ディプロマティーク』(インターネット日本版)イニャシオ・ラモネ編集長の文章の出だしである。これは、昨年11月20日の「憲法再生フォーラム」で発言した際に紹介したものだ。フォーラムの8日後、『朝日新聞』に劇作家アリエル・ドーフマン(米デューク大教授、アジェンデ政権の文化顧問)のインタビューが掲載された。そこでも「二つの9.11」が語られていた(2001年11月28日付)。さらに、『朝日新聞』の「論壇回顧」でも、ラモネ編集長の言葉が紹介されていた(12月12日付)。やはり同時代を生きた人々は、同じような連想や発想をするものだと思った。その後、フォーラムに参加していた方から、1973年の「9.11」と絡めた原稿の依頼がきた。新規の原稿・講演の大半をお断りしているなか、その方の問題意識に共感して特別にお引き受けした。私自身、寡聞にして存じあげない医療関係誌だった。今回、そこに掲載予定のエッセーを転載する。
なお、昨年11月の「憲法再生フォーラム」での発言は、加藤周一・井上ひさし・樋口陽一・水島朝穂『暴力の連鎖を超えて――同時テロ、報復戦争、そして私たち』(岩波ブックレット)として来週刊行される。

もう一つの9.11

それだけで意味をもつ日付がある。アメリカ人にとって、7月4日(独立記念日)と並ぶ日付として、去年から9月11日が加わった。昨年12月、全米通用語学会は、「9.11」を時代の言葉に選定している。だが、私の記憶のなかで「9.11」は、南米チリのアジェンデ政権転覆の日をずっと意味してきた。

1973年9月11日。CIAに支援されたピノチェット将軍らによる軍事クーデターが起こり、アジェンデ大統領が殺された。テレビには、爆撃で破壊されるモネダ宮(大統領官邸)が映し出された。大学2年の夏休みあけ、大学近くの喫茶店でそれを見たときのショックは今も忘れない。
テロやクーデターが相次ぐ中南米で、選挙を通じて適法的に左派政権が生まれた。当時、この「チリの実験」に対して、世界でも日本でも、多くの希望と期待の眼差しが存在した。筆者より6つ年上で、当時ドイツ社会民主党青年部(Jusos)のラインラント・プファルツ州議長をしていたR・シャーピングもその一人だった。彼はクーデター直後、マインツ市内で抗議集会を組織し、「ピノチェットの背後にCIAがいる」と激しく非難した。
今シャーピングは、シュレーダー政権の国防大臣を務めている。9 月11日の米国テロ事件が起こるや、彼は、かつての反原発闘争の闘士で、「緑の党」幹部のJ・フィッシャー外相とともに、「ブッシュの戦争」に積極的に参加していったのである。

人のおこないは、人の容貌を変える。28年前の「9.11」に怒りの演説をしていたシャーピングの毅然とした顔はもうない。彼は1999年3月、「コソボ戦争」のNATO空爆を積極的に推進したとき、すでに「ルビコン」を渡っていたのだ。筆者は、空爆開始の翌日からドイツのボンに一年間滞在して、「コソボ戦争」下のドイツを定点観測した。シャーピング自身を間近に見たこともある。NATO空爆は、国連憲章にもNATO条約にも根拠がなく、ドイツ基本法上の根拠も薄弱だった。それでも空爆を正当化するため、首相はNATOへの「無制限の同盟忠誠」を語り、シャーピングは「他に選択肢がない」と繰り返し語った。世論は空爆もやむなしに傾く。ノーム・チョムスキーは、こうした手法を「ティナ」(TINA:There Is No Alternative.) と呼ぶ。「ティナ」と言えるには、他に手段が本当になかったのかどうかが問われる。だが、「コソボ戦争」に関する事実が次第に明らかになるにつれ、空爆開始を、コソボ・アルバニア系住民の「人権侵害」を止めるための「ティナ」で正当化することは困難となった。ベオグラードの市民の死(空襲の犠牲)は何だったのか。同じ誤りが、アフガニスタンでも繰り返されたのである。アメリカのアフガン攻撃は、テロを防ぐための「ティナ」では断じてなかった。

1990年まで続いたピノチェット政権のもとで殺された人は約3000人。いまだに約1000人が行方不明という。CIAの後押しがなければ、ピノチェット政権は一日たりとも存続しえなかった。アメリカ人の多くが忘れてしまった「もう一つの9.11」。他国の政治に介入して、さんざんかきまわした末にポイッと捨てるのは、アメリカの対外政策の常道である。冷戦時代、アメリカは対ソ戦略の必要上、アフガンやアラブ世界全体から「自由の戦士」をつのり、養成し、その暴力を助長・利用し、そして捨てた。同時自爆テロは、長期にわたるアメリカのそうした「国家政策としてのテロ利用」に対する残虐・非道なリアクションともいえる。アメリカが自らの「罪」の深さと、チリの人々の「痛み」に気づかない限り、「新たな9.11」の根は消えることはない。シャーピングは今、チリの「9.11」をどう思っているのだろうか。
(『民医連医療』2002年3月号巻頭随筆)