わが歴史グッズの話(5)伝単 2002年3月18日

週の日曜日は東京大空襲57周年だった。5年前、52周年について書いた。新聞各紙は、毎年3月10日が来ると「空襲」という言葉を自然に使う。だが、91年の湾岸戦争あたりから、「空爆」という言葉がマスコミでは主流になった。私もコソボ紛争でのNATO空爆という形でこの言葉を使った。「空襲」と「空爆」。前者が「落とされる側」、後者は「落とす側」の論理を反映していると一応いえるだろう。「空襲する」とはいわずに、「空襲された」「空襲を受けた」と常に受動態が使われる。それに対して、「空爆」の場合は能動態が多く、「空爆した」とか「空爆を行った」という形で使われ、「空爆された」というのはあまり聞かない。ボン滞在中に書いた直言「ボン空襲55周年に寄せて」でも、当時ボンに住んでいた私の眼差しは「落とされる側」のそれだった。拙宅の庭に残る機関銃弾跡の話も、「落とされる側」の目線で書かれている。

  一転して、今回の「わが歴史グッズの話」は「落とす側」の資料である。米軍が日本空襲の際、事前に空から巻いた警告の「伝単」(ビラ)の数々。汚れているのは日本側で回収したもの裏面の文章これには青森、西ノ宮から宇治山田、東京までの12都市が記載されている。もう一つは、水戸、八王子から高岡、長野までの12都市を記載したものである。保存状態がいい方は、アメリカ在住の人から購入し、航空便で送ってもらったものだ。久留米と西宮、郡山の3都市が両方にだぶっている。1945年2月17日に八王子などに初めて「伝単」が散布されたという記録があるから(朝日新聞企画第一部編『日本大空襲』原書房参照)。2月17日以降、2月下旬頃までに散布されたものだろう。いずれも裏面の文章は同じ。その内容は、軍事施設や軍需工場のある都市から逃げろというものだ(文章引用の際、句読点等をつけた)。「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくありません。ですから裏に書いてある都市から避難して下さい」「アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です。アメリカの考へてゐる平和といふのはたヾ軍部の壓迫からあなた方を解放する事です。さうすればもっとよい新日本が出来上るんです」「戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか」。この文章の傲慢さは何だ。アメリカの人道主義は皆の認めるところ(ご承知)と自分でいってしまうところがすごい。こんなこといわれて、市民の厭戦・反戦感情を呼び起こすことにはならない。同じことをいうなら、別にもっと適切な表現があったろうに。しかも、住民側には当時、自分勝手に避難できない事情があった。防空法8条ノ3には、住民の退去の禁止・制限が定められており、また、市民に対しては、非科学的な精神主義によって、その場に踏みとどまり焼夷弾を消すことが鼓舞されていたのだ。そうした日本側の事情があって、避難が遅れ、犠牲を大きくした。東京大空襲の4日後、現地を視察した貴族院の大河内議員は、内務大臣に対して、住民に避難するよう指導するように求めた。曖昧な答弁に対して、大河内は、「人貴きか、物貴きか」と鋭く迫った(貴族院秘密会議事速記録3月14日)
  なお、米軍が巻いた「伝単」のなかで、「二度ある事は三度ある」というのもすごい。これは米空軍の威力を強調した、「こうなるぞ」という恫喝タイプの伝単である。裏面には、爆撃前と後のエッセン市(ルール工業地帯)の航空写真が添付されている。

  さらに爆弾の絵の形をした伝単爆弾は、もっと奇妙である。民衆と軍部との離反を狙った文章だが、その上に「一に養生、二に薬」というのある。この養生と薬という言葉をなぜここに載せるのか、理解に苦しむ。爆弾を降らせるにあたり、こんな言葉を使えば、とうの住民から反発をかうだけだろう。「薬」と「爆弾」を一緒に降らせる手法は、クラスター爆弾と食料を同時に落とした、昨今のアフガン「空爆」のそれを想起させる。半世紀にわたって、米軍の発想は変わっていないとみるべきか。アメリカ人は「空襲」を受けたことがない。初めてその恐怖を体験したのが9.11だった。「空から襲われる」ことのなかったアメリカ人が、空を見上げて恐怖にすくむ。「空爆」をしていた戦闘機が、どこからともなくやってくる民間機を使った自爆テロの「空襲」に備える。少年が操縦するセスナ機に、最強のF16戦闘機が対応できなかったのは記憶に新しい。米軍が半世紀以上前に空から巻いたビラから、いろいろなことが見えてくる。

トップページへ