ある交通事故のこと―さだまさし「償い」2002年6月17日

月23日午後11時過ぎ。東京・多摩市の都道で、19歳の専門学校生がバイクを運転中、会社員(36歳)運転のワゴン車にひき逃げされ、脳挫傷で死亡した。会社員はその日の午後6時から5時間にわたってはしご酒をし、最後のパブを出た時は、路上でふらついたり転んだりして、車のキーを鍵穴に入れられないほどに酔っていたという。制止する友人をふりきって車を発進。その直後、停まっていたオートバイに追突して、男子高校生を負傷させたが、会社員はそのまま時速80キロで赤信号を無視して暴走。先を走っていた専門学校生運転のバイクに追突したものだ。会社員は飲酒運転の発覚をおそれ、事故発生後、近くのコンビニで日本酒を購入して飲んだという。東京地検八王子支部は会社員を、業務上過失致死罪(刑法211条)で起訴した。

死亡した専門学校生の両親は、昨年12月25日施行の「危険運転致死傷罪」(刑法208条の2)で起訴するよう、訴因変更を求める署名運動を始めた。私の身近でも、署名に熱心に取り組む者があらわれた。近しい友だちへの同情と、若者らしい正義感から、学校で60人もの署名を集め、私にも署名を求めてきた。

事実関係に誤りがなければ、これはかなり悪質なケースである。19歳まで育てたわが子を一瞬にして失った両親の気持ちも理解できる。業務上過失致死傷罪の最高刑は懲役5年。ひき逃げなどを加重しても、最大で7年である。7年は決して軽くはないが、一般人の感覚ではそうは感じられないのだろう。高速道路上の追突事故で子ども2人を失った両親らによる、悪質なドライバーへの重罰を求める運動がマスコミで大きく取り上げられ、昨年11月、国会で「危険運転致死傷罪」の新設が決まったものだ。「危険運転」とは、「アルコールまたは薬物の影響により正常な運転が困難の状態で四輪以上の自動車を走行させる行為」や「人又は車の通行を妨害する目的で、通行中の人又は車に著しく接近し」「赤信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し」「かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で四輪以上の自動車を運転する行為」などを指す。死亡事故を起こすと、最高で懲役15年。負傷事故では10年以下の懲役と、かなり重い。そのかわり、業務上過失致死傷罪に比べ、「通行を妨害する目的」という行為者の内心的側面を立証しなければならず、また、赤信号の無視も「殊更」でなければならない。新聞検索で見る限り、新設の危険運転致死傷罪で全国初の有罪判決は、5月8日、三重県の津地裁で出された。懲役4年だった。今回の多摩市の事故で検察官は、業務上過失で有罪判決を早く得るという確実な道を選択したのだと思う。起訴するかしないか、いかなる罪で起訴するかは、すべて検察官が決める。不起訴ケースでないため、検察審査会で問題になるわけではない。こういう仕組みのもとで、重い罪に訴因を変更せよと、署名を集めて担当検察官に要求していく「運動」をどう評価するか。むずかしい問題がそこにはいろいろある。

 

本件については、『読売新聞』多摩版の突出した報道が目立つ。『朝日新聞』が事件直後にベタ記事を出したきりになっているのとは対照的だ。交通事故の加害者への重罰を求める動きでは、世田谷区で起きた「隼君事件」での『毎日新聞』のキャンペーン報道が記憶に新しい。今回は『読売』の報道が反響をよび、10日間で15000人もの署名が集まった。地検八王子支部は6月10日、訴因変更ではなく、危険運転致死罪の「訴因追加」を行った。立証が可能となれば、危険運転致死に変更する腹だろう。この時点で『読売』は11日付第2社会面(東京本社発行)で大きく扱い、『朝日』も12日付多摩版で、この事件に初めて言及した。『読売』多摩版は、署名運動に取り組んだ両親が息子の墓に花を手向ける写真と、「天国の○○〔紙面では実名〕も納得のはず」という声を載せている。

この国では、被害者救済のために重罰化を求めるという風潮がある。和歌山カレー事件でも、黙秘を続ける被告人に怒った遺族などが、担当弁護人に対して、被告人に自白させるよう求める署名運動を行ったそうだ。ここまで来ると、明らかに筋違いと言わざるを得ない。端的に言う。刑法は被害者の救済を目的としていない。刑罰を重くすることに被害者が納得を見いだしたいという気持ちはわかるが、「軽い罪では被害者は救済されない」という物言いで、安易に重罰規定を導入したり、刑事手続の枠組みを変更するのには慎重であるべきだろう。これと関連して、刑法38条1項が大切だ。「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない」。故意犯の処罰が原則であり、過失は法律に特に定めがあるときにのみ処罰の対象となる。業務上過失致死傷罪も、特に定められたものの一つである。昔から悪質な交通事故はたくさんあった。それが、社会の風潮のなかで、昨年から危険運転致死傷罪が新設されたわけだが、刑法38条1項からすれば、故意と過失の違いは決定的に大きい。「息子を殺された」と叫ぶ遺族の気持ちはわかるが、交通事故である限り、過失の問題である。「未必の故意」の問題を論じうる特別なケースはともかく、一般的に「危険運転致死傷罪」という網をはって、何でもここにぶち込むのには慎重であるべきということで、前述したように、この罪の立証のハードルが高くしてあるわけである。

憲法学の立場から言えば、人権の問題は、たまたま被疑者・被告人になった個人を、強大な国家刑罰権との関係でどう守るのかに主眼がある。「加害者の人権ばかりが言われ、加害者に殺された人の人権が無視されている」という言い方がされるが、これは正しくない。「被害者の人権」と加害者(この場合は被疑者・被告人)の人権がぶつかっているのではない。被疑者・被告人となった個人の人権と国家の刑罰権力との関係が問題なわけである。この場面において、被害者の「人権」を持ち出し、過度な重罰化や手続きの簡略化を求めれば、すべての人にとって不幸な仕組みが生まれることになる。被害者の救済は、経済的、社会的、心理的なケアを含め、別個に充実させるべきなのである。

 そこで思い出すのは、銀行員の男性を暴行の上死亡させた少年に対して実刑判決を出した裁判官が、判決言い渡しの最後に、さだまさしの「償い」について触れ、「歌詞だけでも読めば、君たちの反省の言葉がなぜ心を打たないか分かるだろう」と述べたことだ。粋な説諭をしたY裁判官の「評判」については『裁判官 Who's Who』(現代人文社)に譲るとして、さだまさし「償い」は、実話に基づくもので、その歌詞は心を打つ。

「たった一度だけ哀しい誤ち」をした「ゆうちゃん」が、給料をもらうと真先に郵便局に行って、遺族に送金をする。7年目に初めて遺族から届いた手紙。「ありがとう。あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました。だからどうぞ送金はやめて下さい。あなたの文字を見る度に、主人を思い出して辛いのです。あなたの気持ちはわかるけど、それよりどうかあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」…。

 なお、この件で私が署名したか否かについては、ここでは明らかにしないでおこう。


《付記》
この「直言」を書いてから14年たって、警視庁がこういう試みを始めた(2017年2月12日追加)。

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