わが歴史グッズの話(9) 2002年12月9日

力事態攻撃法案22条2号イに、「捕虜の取扱いに関する措置」がある。自衛隊が「敵兵」を捕虜にした場合、国際法上どのような取扱いをするのか、を事前に準備しておくというものだ。朝雲 
 この写真は、4月25日に熊本の黒石原演習場で、第8師団が初めて実施した「国際法等集合訓練」の一コマである。各部隊の小隊長クラスの幹部を集めて、国際法の教育を行うことを目的としたものだ。訓練は、捕虜・傷病者の取扱い、一時停戦の要領、保安警務隊による捕虜の尋問の3項目について行われた。この種の訓練を演習場で行った例は他になく、「野外での訓練はその先駆けとなる画期的なもの」とされる(『朝雲』2002年6月6日付)。一見、捕虜を「日本本土防衛戦」で捕獲するケースを想定しているかに見える。だが、それだけではないだろう。自衛隊の海外派遣拡大に伴い、「外国の領域」(テロ特措法2条)において「自己の管理の下に入った者」を守るための武器使用を行った場合(同12条1項)、相手方が降伏したときは、これを捕虜にしなければならない。他方、自衛隊員自身が捕虜になる場合もあり得る。第一次大戦のときに設置した板東捕虜収容所(徳島県鳴門)などを復活させるのか。これは冗談だが、捕虜の問題はいま、妙にリアリティをもってきた。
 ところで、旧日本軍は、捕虜になることを事実上認めなかった。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ条約)は日本も批准しており、この条約を収めた規定集も存在した。『俘虜ニ関スル法規類聚』(1943年)がそれだが、極秘の扱いがなされており、一般の兵士はその存在すら知らなかった。日露戦争や第一次大戦のときは、国際法をまがりなりにも守ろうとして「俘虜情報局」も設置され、それなりの配慮が行われた。だが、第二次大戦では、「俘虜情報局」の権限は、それ以前と比べてかなり弱められた。全体として、日本軍における捕虜の取扱いは著しく粗野だった。他方、「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の一節は、日本軍の兵士たちに呪縛的拘束力をもった。そのため、他国の兵士ならば捕虜になってもやむを得ないようなケースにおいても、日本兵の多くは死を選んだ。捕虜に関する国際法的知識を与えられず、「華と散る」「玉砕」の美学でマインド・コントロールされていた。他国の兵士はハーグ条約の知識があるから、氏名・階級のほか、不必要な情報は一切もらさない。これに対して、捕虜になることを想定していない日本兵は、いったん捕虜になるや、絶望して自殺をはかったり、必要以上にペラペラと味方の位置をしゃべってしまうこともあった。装備の脆弱性を精神主義でカバーしようとした日本軍のもろさは、こういうところにもあらわれていた。
 これに対して、米軍は、昔もいまも「米兵の生命を大切にする戦争」を徹底してやる。医療部隊の充実は世界一である。東京空襲のときには、被弾したB29搭乗員を救助するため、小笠原諸島近辺に満遍なくレスキュー隊を配置する態勢をとりながら、東京の市民10万人を殺した。米軍は、相手の士気をそぐ心理戦にも長けていた。戦場では、「助命伝単」をまいて、日本兵の投降をうながした。例えば、南方で米軍がまいた捕虜助命伝単(ビラ)。助命ビラ 「此のビラを持って居る者は戦ひを止めた者です。国際法に依って良い取扱ひをせよ。直ぐにに上官の前に案内せよ」という英文と訳文がついている。裏には「生命を助けるビラ」とある。「此のビラに書いてある方法通りにする人はアメリカ軍は必ず助けます。そして国際法によって良い取扱ひ、食物、着物、煙草、手紙等を与えます」。「両手を上に揚げて、このビラの他には何も持たないでアメリカ軍の方へゆっくり進んで来なさい」。この種の伝単(ビラ)は、「わが歴史グッズ」コレクションにはたくさんある。ここで全部は紹介しきれないが、象徴的なものだけ紹介しよう。
 まず、1950年の朝鮮戦争のときに、中国義勇兵に対して米軍が投下した伝単である。車両で移動するものはすべて爆撃するという脅しであり、士気の低下を狙ったものだろう。ベトナム戦争時の伝単は、「ベトコンを追い出そう」というもので、「なぜベトナムに米軍はいるのか」という正当性を主張する政治的メッセージが裏面に出ている。
 1991年の湾岸戦争時の伝単は豊富にある。まず、フセイン大統領の顔が書かれた伝単。喪章がついているので、死亡した写真という構図だろう。次の2枚はもう露骨。戦車や航空機で、お前たちは皆殺しだぞというメッセージ以外の何物でもない戦車に包囲されたイラク兵に向けられる助命ビラ日本文120ミリ砲。星条旗が描かれているのは何とも米国らしい。「多国籍軍」で戦っているといる意識はまったくない。一門ぐらいユニオンジャック(英国国旗)が書かれておればご愛敬だったのに。
 似た構図もある。湾岸戦争のときにイラク軍に対して使ったのと同じ構図の伝単を、94年9月、カリブ海のハイチに軍事介入する際に使っている。ヘルメットの横についている国旗が、イラクからハイチに変わっただけだが、戦車群とやしの木の違いは大きい
 2001年10月のアフガニスタン「対テロ戦争」でも、いろいろな伝単がまかれた。パラシュート投下型爆弾と車両で移動するタリバン兵。裏面は、破壊された車両と、銃を捨てるタリバン兵の絵。イラク兵と違ってイメージがつかめないのか、兵士の表情は乏しく、動きがぎごちない。実際、アザリシャリフの事件など、米軍も関与するなかで、野蛮な「北部同盟」(ドスタム将軍)が行ったタリバン兵らに対する残虐行為がしだいに明らかになりつつある
 対戦車地雷の絵、裏はそれで吹き飛ぶ軍用車両の絵。生々しい絵である。食料援助と喜ぶ子どもたちという構図。しかし、食料援助を行っていたのは米国だけではない。袋を背負う男がUSAとはっきり見えるように背負うのもいかにもわざとらしい。いま、ブッシュ・ジュニアが対イラク戦争への道を突き進もうとしている。父親のときに使った伝単を再び息子は使うのだろうか。