雑談(23)清兵衛とピアニスト 2003年4月28日
想外によい作品に出会った。2本とも切羽詰まった日程のなかでみたので、その時間は、私にとって何服もの清涼剤と貴重な栄養剤になった。

  1本目は「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)。1月中旬、妻に誘われ、新宿で待ち合わせた。ある出版社の対談の仕事で2時間以上話し続けて、かなり疲れたため、予告編の間は眠っていた。本編が始まると、静寂さと淡々とした表現の世界に、気分が次第に落ちついてきた。そして、山場の白熱した殺陣には、とにかく舌をまいた。
  いろいろな取り上げ方、論じ方、評価の仕方が可能だろう。映画は面白くなければいけないから、あまり一面的な評価はよくないだろう。私の感想を一言でいえば、藤沢周平の世界と山田洋次の世界の絶妙な交差が成功したことである。中学生時代、剣豪ものが大好きだった。柴田錬三郎、南條範夫、五味康祐などを好んで読んだ。剣豪では上泉伊勢守信綱が好きだった。嵐寛寿郎主演の「戦国の剣豪」(日本テレビ系列、1964年)は小学生のころ夢中でみていた。中学生の時は剣道部長をやった。親戚の古い建物から出てきた江戸時代の錆びた脇差しを自分で研いで、庭の木を切って遊んでいた。ある時誤って自分の親指を切ってしまった。最初の晩は痛くて痛くて眠れなかった。相当深く切ったので、今でも右手親指の根元部分の感覚が一部麻痺している。だから、映画やテレビで人が斬られる音を聞くと、親指がキュッとしまる感じが今でもする。藤沢周平作品に出会ったのは30代になってからだった。単なる「チャンバラ」ではなく、生きた人間が向き合う生活感がいい。それは、山田作品にも底通する。
  作品の解説はここでは省略するが、最も印象に残ったのは、余吾善右衛門役の田中泯の圧倒的存在感だった。清兵衛役の真田広之との斬り合いは、今までみたあらゆる時代劇のなかで最もリアルだった。憎悪と嫌悪で向き合った二人ではなく、お互いに共感しあえるものをもった人間として、しかも、お互いの立場を痛いほど理解したうえでの殺しあい。これほどせつなく、これほど壮絶な決闘がかつてあっただろうか。
  以前にも書いたように、殺し合いの場面で残虐感を希釈する3つのポイントがある。「たそがれ清兵衛」は、この3つのいずれにも当てはまらない。「なぜ殺し合わねばならないのか」という不条理に、聴衆は胸を締めつけられる。だからこそ山田監督は、小太刀の形状にこだわった。日本刀らしくない、肉きり包丁のような小太刀を探し出して撮影に使った。この刀のリアリティは抜群である。殺し合いは、アングルの違いで、いかようにも描き分けられるからだ

  もう1本の映画は「戦場のピアニスト」(R・ポランスキー監督)。原題はTHE PIANIST。タイトルとしては、「ゲットーのピアニスト」の方が実際に近いだろう。
  3月中旬、20歳の娘に初めて映画に誘われた。原稿書きを中断して映画館に向かった。家族とドイツのボンに滞在していた4年前、車でダッハウ、ブーヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、ビルケナウの強制収容所(KZ)に行った。娘には、ビルケナウ収容所の「灰の池」が特にショックだったようで、この映画をみるきっかけも、この時の鮮烈な印象があるようだった。
  さて、作品内容については、これもいろいろな評価が可能だろう。アカデミー賞の主要賞を総なめにしているから、一般にもかなり知られるようになった。テレビCMで繰り返し流された、ショパンのノクターン・ホ短調(作品72)の印象も強いだろう。イラク戦争開戦直前のアカデミー賞受賞式で、主演のエイドリアン・ブロディが行った挨拶も、作品のよさと重なった。彼は、挨拶のなかで「平和的解決」(peaceful resolution) とはっきりいい、戦争への「ノー」をやさしく表明したのだった。ムーア監督の「ブッシュよ、恥を知れ」の影に隠れて地味な印象を与えるが、ブロディの挨拶は誠実だった。
  さて、ここでは、この作品で残念だった点を一つだけ挙げておこう。それは、字幕担当者がドイツ語の翻訳をきちんとしなかったため、作品の山場で、ニュアンスが十分に伝わらない部分が散見されたことだ。映画『スターリングラード』のように、ドイツ兵もソ連兵も英語をしゃべると、言葉には無神経になれる。だが、「戦場のピアニスト」では、ドイツ語は重要な意味をもつ。そこでは、恐怖の言葉と、紳士的な言葉の二つが登場する。前者は、ドイツの下級兵士や下士官が放つドイツ語の汚さである。「行け!」(los)と叫ぶ兵士。「シンドラーのリスト」でも、ユダヤ人を追い立てるときの単語としておなじみである。道路封鎖の際に、ユダヤ人に踊りを強制する兵士たちは、教養のない、野卑な人間として描かれる。「人員整理」の目的で、作業からの帰途、年寄りだけを選んで地面に伏せさせ、頭を拳銃で射って殺す兵士の淡々とした態度。どこまでも冷淡に、非人間的に描かれている。
  他方、シュピルマンが放浪の末に廃墟で出会うドイツ人将校、ホーゼンフェルト大尉(実在の人物)。彼は、音楽を愛する紳士である。シュピルマンに対して大尉は、“Was machen Sie hier?”(「何をしているのですか」)と問い、ピアノのある部屋に誘って、“Kommen Sie her. ”(「どうぞこちらへ」)という。芸術家を遇する態度をとる。ところが字幕は、「何をしている?」「こっちへ来い」だった(と思う)。
  大尉に問い詰められて、“Ich bin....ich war Pianist”とおどおどしながら答えるシーンの字幕は、「ピアニストです」になっている。本当は、「私はピアニスト…、いやピアニストでした」というニュアンスだ。「…」には、いまの自分の境遇を思い、悲しみの感情が一瞬よぎる。字幕はその微妙な心の揺れを無視している。
  映画は娯楽だから細かなところはどうでもいいということにはならない。やはり細部まできちんとするという態度こそ、作品全体にプラスの影響を与えるはずである。その意味でいえば、この作品は字幕スーパーに難があった。なお、本稿は、藤井康博君(早大大学院生)の意見も参考にした。