6月17日事件から半世紀 2003年6月9日

ルリンを訪れた人ならば、有名なブランデンブルク門を東西に貫く大通りを歩いたことがあるだろう。東方面に延びるのが「ウンター・デン・リンデン大通り」。その東側で接続するのが「カール・リープクネヒト通り」である。旧東独時代、軍事パレードが行われた通りである。1991年2月から8月末まで、私はその9番地に住んでいた(左の建物の8階)。正面がアレクサンダー広場とテレビ塔。右斜め前には、森鴎外『舞姫』で知られるマリーエン教会がある。滞在したのはドイツ統一直後で、階下のポーランドやブルガリアの文化センターは空き家。周囲は閑散としていた。その後、ベルリンを訪れるたびにこの近辺に来るが、毎回、その変貌ぶりには驚くばかりである。さて、ブランデンブルク門から西方面に延びる大通りが「6月17日通り」である。ドイツでは地名や、人の名前の通りは多いが、日付を冠した通りは珍しい。旧西独時代、この日は「ドイツ統一の日」とされた。1990年10月3日にドイツが統一されると、10月3日が「ドイツ統一の日」となったが、6月17日は記念日として残った。

  6月17日が特別の意味をもつようになったのは、今からジャスト50年前の事件に起因する。1953年3月5日、独裁者スターリンが死亡した。当時、旧東独(DDR)は深刻な経済危機に陥っていた。その年の5月に決定された労働ノルマの10.3%引き上げは、労働者に大きな不満を呼び起こしていた。支配政党の社会主義統一党(SED)は6月9日に「新コース」として、さまざまな妥協策を打ち出す。だが、人々はこれを「政治的破産宣告」と見ていた。6月16日午前、ベルリンの労働者が始めたデモが、自然発生的に1万人にまで拡大。自由な選挙やSED支配の打破を訴える政治的色彩の強いものに発展していった。これに建設労働者が職場放棄で呼応。翌6月17日には、旧東独400箇所以上、600以上の経営で、100万人以上が決起した。たまりにたまった不満が、ベルリンから全国に、短時間で飛び火したのである。

  6月17日13時、ソ連軍のベルリン地区司令官は戒厳令を布告する。通りおよび広場、公共の建物におけるすべてのデモ、集会、示威行動、「3人以上の集まり」が禁止された。違反すれば軍事即決裁判所で処罰された。ソ連駐留軍司令官は旧東独の217の市や郡のうちの167に戒厳令を布告。ソ連軍2万と人民警察(KVP)部隊1万5000が出動した。どれだけの人がデモに参加したのかは不明だが、40万人から150万人の間とされている。どれだけ犠牲者が出たのかも不明だが、50人から125人の間とされている。東ベルリンのホーエンシェーンハウゼン刑務所水牢や拷問施設をもつ政治弾圧の暴力装置についてはすでに書いた。自由選挙やノルマ軽減を求める人々が多数逮捕され、ここに収容された。

  この事件の際、40人の赤軍兵士と20人の人民警察官が、労働者・民衆のデモに発砲することを拒否したため、軍法会議にかけられ銃殺された。これらの兵士のことは、民衆を撃てなかった「良心的なソ連兵」として、西側のプロパガンダに使われた。ところが、先月、有名週刊誌『シュピーゲル』が、これら「冷戦の英雄」「悪に対する戦いにおける悲劇な犠牲者」について疑問視する動きを紹介している。今回明らかになったのは、マグデブルク市(現在のザクセン・アンハルト州の州都)に駐留していたソ連第73狙撃連隊所属の18人の兵士の粛清(銃殺)事例である。この連隊は1953年6月17日に、デモ隊への発砲命令を拒否したことになっている。だが、この連隊は6月17日に旧東独に駐屯していなかったことが明らかになった。これらの事実から、歴史学者Kowalczukは、6月17日にソ連軍兵士が旧東独民衆に銃を向けることを拒否したことに疑問を呈する(Der Spiegel vom 12.5.2003,S.64)。東西冷戦の激しい時代においては、いずれの側も、さまざまな事件の誇張や捏造など朝飯前だったことに留意すべきだろう。いま、「6月17日事件」についても、さまざまな角度から検証されるようになった。来週、ドイツでも各地で記念行事が予定されている。マスコミも一斉に特集を組むだろう。少し早いが、この日本の地で、「6月17日事件」50周年の意味を考えたかったのである。

  思えば、私が「6月17日事件」を意識するようになったのは、12年前の91年ベルリン滞在中、書店で、当時の新刊T.Diedrich, Der 17.Juni 1953 in der DDR, Diez Verlag 1991.を買い求めたことに始まる。Diez Verlagといえば、旧東独時代は、社会主義統一党(SED)の公式見解を伝える代表出版社だった。その出版社から、旧東独で「タブー」とされた「6月17日事件」を本格的に扱う本が出版されたわけだ。12年前、東ベルリンの部屋で、一人これを感慨をもって読んだのを覚えている。それまで東側では、「帝国主義秘密機関の道具」に操られた「社会主義に対する反革命暴動」とされてきたものが、豊富な資料に基づいて再検証されている。そして、1952年〜53年に労働者大衆の不満が、大規模なストライキやデモをせざるを得ないほどに高まっていたこと、ソ連軍の介入だけがSED支配の転覆を阻止できたことなどが明らかされている。旧東独の政府首脳は、労働者や民衆の決起に恐れをなし、空港から逃亡する寸前だった。ソ連軍戦車によってのみ維持された政権とは何だったのか。旧東独政権は1953年6月17日の時点で、労働者・民衆から「不信任」されていたのである。「壁」崩壊で消滅するまでのそれは、労働者・民衆を幽閉し、抑圧する「装置」でしかなかった。「6月17日事件」は、そうした「装置」に対する最初の民衆蜂起であり、1956年のハンガリー事件、1968年のチェコ事件、1980年代ホーランドへと続く苦難の歩みの「最初の一突き」といえるだろう。それは、スターリン主義的国家社会主義体制の「終わりのはじまり」でもあった。

  1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊を契機に、国家社会主義体制は「あるいは徐々に、あるいは急速に」消滅の過程に入った。朝鮮半島には、スターリン主義と封建的君主制の奇怪なアマルガム(合体)が存在する。これをいかにしてソフト・ランディングさせるか。これは北東アジアにおける平和と安全保障の上で重要な課題となっている

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