どこの軍隊においても、士気を保つことは重要な課題である。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め」と宣誓した自衛官については、どのような精神教育が行われているのだろうか。かつて旧帝国軍隊と自衛隊における精神教育について検討したことがある(「軍隊における精神教育」拙著『現代軍事法制の研究』第2章3節参照)。両者の違いは、例えば、命令に対する考え方や、天皇の位置づけにあらわれる。まず、違法命令(捕虜の殺戮、略奪など)に対しても服従義務があるかという問題がある。「軍隊内務書」第2章第8(軍隊内務令では第1)には、「命令ハ謹テ之ヲ守リ直ニ之ヲ行フヘシ」が原則であり、「決シテ其ノ当不当ヲ諭シ其ノ原因理由等ヲ質問スルヲ許サス」とある。命令された以上、命令が不当か否かや理由を問うことは許されないというのである。「死せよ」という命令は合法性に疑いがあるが、そうした命令は天皇の命令によってのみ正当化されるとされ、その点が旧軍の「特異なる服従関係」と言われる所以である。旧軍では、「上官の命令は朕〔天皇〕が命と心得よ」が一人歩きして、恣意的な「命令」によって多くの兵士が命を落とした。これに対して、自衛隊では、そのような無条件的・絶対的服従は批判的に評価されている。ただ、「上官の命令に服従する義務」(自衛隊法57条)が違法な命令に対しても生ずるかについては微妙である。部下が、上官から受けた命令の実質的適法性について審査権を持つのかという問題がある。犯罪を命ずるような命令に従う義務はないが、内容的に違法と考えられる命令でも、それが客観的に違法であることが明白でない場合には、部下はこれを拒否することはできないと解されている(椿幸雄『防衛刑法』成文堂)。この点、ドイツは一歩も二歩も踏み込んでいる。軍人法11条は、ナチス時代への反省から、「人間の尊厳を侵害(する)…命令」に従わなくても不服従は成立しないと明確に規定するとともに、軍刑法22条は、「人間の尊厳を侵害する」命令について抗命罪の成立を否定している。絶対的・盲目的服従を否定して、「人間指導」を重視するドイツ連邦軍の場合、軍隊内部への憲法原理の浸透は、合憲・違憲の狭間で揺れてきた自衛隊よりも格段に高い。
次に、天皇との関係はどうか。手元にある『精神教育(陸士本技用・陸士練成教育用)』(陸上幕僚監部)を見ると、「天皇」という言葉は一つも出てこない。自衛隊の精神教育において天皇の占める位置は、戦前と比べれば限りなく小さいと言っていいだろう。では、自衛隊員の精神教育の支柱はなにか。日本国憲法に基づく民主国家日本ということになる。各種の精神教育用資料を読んでも、旧軍における「天皇」のような決め手に欠ける。美しい日本、すばらしい伝統と文化といっても、それ自体は各人の感受性に委ねられる面も少なくない。とはいえ、旧ソ連から日本を守るという場合、「国土防衛」という「大義」は隊員の理解を得やすかった。それは「郷土の守り」という形で自己の内部に取り込む回路としてはそれなりに明確だからである。各部隊の隊歌にも、郷土をイメージする歌詞が数多く登場する。例えば、第32普通科連隊歌には、「朝日をうつす利根川」「武蔵野原」「秀峰富士」などが出てくる(『陸上自衛隊隊歌集』改訂3版)。PKO 等協力法が制定されると、隊歌にも変化が生まれた。例えば、第2次モザンビーク派遣部隊の歌「平和の兵士」。その3番までに共通して出てくる歌詞が二つある。「故郷遙か遠く」と「United Nations(国連)」である。国連加盟国の多数が反対し、安保理において決議を得ることに失敗して、むきだしの武力行使に踏み切った米国。これに追随する小泉政権が、ついに自衛隊をイラクに出した。このイラク派遣部隊の隊歌が作られれば、「United Nations(国連)」ではなく「Coalition of the willing(有志連合)」になるのだろうか。
それはともかく、本隊第一陣の指揮官(一陸佐)がイラクの飛行場に降り立つなり、「イラク人のため、国際平和のため、ひいてはわが国の国益のため」と挨拶したのは印象的だった。もはや「郷土」も「国連」もない。「ひいては」でつなげられた「国益」とは一体何か。「守るべきもの」が郷土や国民ならばイメージ可能だが、「国益」といっても定義は一様ではないからである。近年、政治家も学者もジャーナリストも、あまりにもおおらかに「国益」という言葉を使いすぎるように思う。「日米同盟」を維持することが「国益」だというなら、目的と手段の混同も甚だしい。安全保障の一つの手法が目的になろうはずもないからである。
さて、ハマコー(浜田幸一元代議士)の息子、浜田靖一防衛副長官は、昨年12月8日、次のように発言した。「たとえ70%の人に反対されても、国益のために必要なら決断しないといけない。責任はすべて政治家が取る」(『朝日新聞』2003年12月9日付)と。自衛隊イラク派遣基本計画の閣議決定を翌日に控えた、公的な場での発言である。責任をとるいう政治家の言葉が何と軽くなったことか。ここでも、「国益」の突出が見られる。
なお、「国民保護法制」が何を守るのかという点で、興味深い発言がある。それは、山内敏弘龍谷大学教授と対談した久間章生元防衛庁長官のものである(『朝日新聞』2003年6月30日付)。
久間:国民の生命・財産を守るために自由や権利を制限することはある。
憲法も公共の福祉の名の下にやっている。
山内:憲法上、公共の福祉というのは人権相互間の調製原理だ。
公共の福祉は国家の独立や安全などという人権を超える外在的な価値ではない。
特に9条は軍事に公共性を認めていない。
久間:国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。
が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る。
山内:判断の正しさが疑われるときに、
判断の犠牲になった国民はたまったものじゃない。
久間:それで救われた方は助かる。
山内:そういう犠牲を生まないために戦争をしないことが、
憲法の要請する政治の責任だ。
国民の70%が反対しても、10%が犠牲になってもやむを得ないとする政治家の姿勢が問われる。彼らは、自衛官の命もまた、米国の「有志連合」に参加するための「必要経費」と考えているのではないか。本物のミリタリー(軍人)よりも、頭のなかが生半可なプラモ・ミリタリーに彩色された大臣や、自己陶酔型の首相の方がはるかに危ない。米軍は、自衛隊の「国際政治的利用」の道をさらに押し進め、米軍撤退後に日本に尻拭いをさせようとしているように見える。
やや角度は異なるが、政治家の言葉の軽さという点では、次のことも想起されていいだろう。1993年5月、カンボジアで文民警察官が射殺された時のことだ。宮沢喜一首相(当時)は静養中だった。第一報を聞いて発した言葉は、「まあ、仕方がないな」であった。これは、警察官が射殺されたこと自体に対しての言葉ではなかったが、言葉が短時間で一人歩きして、物議をかもした。慌てた河野官房長官(現衆院議長)がすぐに記者会見を開き、「仕方がない」というのは、死亡したことに対してではなく、休日途中で東京に帰らざるを得なくなったことに対する言葉だったと説明した。語るに落ちるとはこのことである。今の政治家たちは、もしそうした事態になったとき、どのような言葉を発するだろうか。