自己責任と無責任 2004年4月19日

「自己の責任(危険)で」(Auf eigene Gefahr) 。ベルリンのブランデンブルク門近くの「お立ち台」にあった警告文である。「6月17日通り」を進み、「壁」にぶつかって右に迂回したところにあった(他にも何箇所かあった)。壁に向かってせりだしていて、そこから東ベルリンが見える。「注意! 今あなたは西ベルリンを去る」(Achtung. Sie verlassen jetzt West-Berlin) という標識も立っている。もし足を滑らして下に落ちたら、そこは西ベルリンではない。危険を承知でのぼってほしいというメッセージである。1979年秋に初めてそこに立ったとき、東西冷戦の最先端にいることを肌で感じ、大変緊張したのを覚えている。西ベルリンを訪れるたびにそこに行ったが、「壁とともに去りぬ」で14年前に撤去された。それにしても、25年前に「お立ち台」で見たその言葉は鮮烈だった。だが、ここ10日ほどの間に、日本でもその言葉が飛び交った。「自己の責任で」である。

  個人が「移動の自由」を行使する以上、危険な場所に立ち入るときは、そこで発生する損害やリスクは自分で負わねばならない。例えば、外野席に座っている人にホームランボールがあたって怪我をしても、それは「危険への接近」ということで、普通の道路でボールにあたって怪我をするのと同じような損害賠償は得られない。また、登山者が遭難したときの救出費用を一部負担させることについても、社会的な認知は高いだろう。外国で遭難したときのために、海外旅行保険に救助費用が含まれていることもよく知られている。だが、冬の雪山でどれだけ多くの山男が命を落としたか知れないが、「冬山立ち入り禁止法」を制定せよという話は出てこない。海外の危険な国・地域にいる旅行者のうち、待避勧告に従わない人を強制的に身柄確保して連れ帰ることもあり得ないし、逆にそうした国への渡航を禁ずる「海外旅行禁止法」を制定することもないだろう。なぜか。危ないから「あなたのために」旅行を禁じますというような国のあり方を拒否したところに、自由な社会のありようがあるからである。自由であることに伴う責任の重さを自覚しつつ自由を享受する。だが、この国では、自国民の保護義務を負うべき政府関係者が「自己責任」を簡単に口にして、無責任ぶりを内外に示してしまった。自由と自己責任が自然に定着した欧米の社会では、人質になった個人の責任を、その家族にまで声高に追及し、あまつさえ家族が「世間」に対してわびるという「一族郎党」的なパフォーマンスは理解できないだろう。成人した大人にまで、老親の「おわび」を求めるのも異様である。
  どこへでも自由に旅行できるが、万が一のために旅行保険を厚くかけるということも、旅行者個人の自由である。結果的に、万一の時の負担額が多くなっても、それこそ自己に帰すべきことである。だが、そうした旅行者が遭難したとき、「勝手に行った以上、政府は何もしない」ということはあり得ない。なぜか。それは、国家には自国民保護義務があるからである。だが、小泉首相を先頭に、対米追随路線を最初から選択した結果、この義務を実質的に放棄して、人質の命を切り捨てた瞬間があった。それが、4月8日の緊急記者会見における福田官房長官の発言である(『毎日新聞』4月14日夕刊・拙稿「撤退する理由はない」?)。結果的に人質が助かったからよかったが、彼らはその「バツの悪さ」を人質となった3人、さらにはイラク行きを止めなかった家族の「自己責任」にすりかえてきたのである。
  イラク人質事件と自衛隊撤退問題についての私の見解はすでに書いたので、ここでは繰り返さない。夕刊紙でも、『日刊ゲンダイ』と『夕刊フジ』では、この問題についての論調は対照的である。例えば、4月20日付両紙を比べてみると、前者が「イラク人質救出、隠された大失態」として政府・外務省の対応を批判しつつ、米軍占領と自衛隊派兵が問題の根本だとするのに対して、後者は、「解放ありきの誘拐」として、聖職者協会と武装勢力とが「スンニ派の一体組織」として仕掛けたものだという視点に立ちつつ、帰国した人質3人が「自己責任」を肉声で語らないことを非難している。『夕刊フジ』19日付では、「自己責任」という巨大見出し。一般の新聞各紙にも「自己責任」という言葉が目立つようになった。人質解放が長引いた数日間でマスコミの論調は大きく変わり、2ちゃんねる系の荒廃した言説だけでなく、言葉づかいまでもが、『週刊新潮』などに活字化されるに至った。危険を承知でイラクに入ったのだから「救出費用を負担すべきだ」から始まり、人質の一人ひとりとその家族に至るまでのプライバシー暴露は執拗かつ異様なものとなった。

  なぜここまで人質3人とその家族がバッシングされたのか。その理由は二つある。一つは、この事件により、自衛隊派兵のウィークポイントが鋭く突かれ、国家的メンツが丸潰れになったからにほかならない。二つは、外務省の情報力やネットワークの貧困さも暴露され、「邦人保護」任務をまっとうできない不甲斐なさが見えてしまったことである。人質の命を救ったのは、市民やNGOなどによるイラク民衆や関係者への働きかけと、アルジャジーラという独立系メディアの存在だった。小泉政権は、自衛隊の活動地域が「非戦闘地域」であることの説明責任を常に問われるという恒常的プレッシャーにさいなまれている。だから、人質たちの命が自衛隊撤退とバーターにされたことは痛かった。そこで、単なる居直りにとどまらず、逆襲に転じたわけである。その結果、自衛隊派兵の根本問題はいつの間にか、マスコミ報道から消えてしまった。政府に忠誠を誓わない、批判的な国民は「非国民」として保護の対象にしないとでも言わんばかりの声も政府関係者から飛び出した。ここまであけすけに政府の自国民保護の任務の放棄に等しい言葉が飛び交ったのは、おそらく戦後初めてのことだろう。古典的な「夜警国家」ですら、自国民保護の任務を放棄することはない。アグレッシィヴな「自己責任」の一人歩きは、雇用、福祉、医療、教育、税金、年金など、社会のあらゆる領域で進行する新自由主義的な「改革」や「規制緩和」と密接に絡んでいる。この間、この「自己責任」という言葉は、「自助」「自立」「自律」などと結びついて、政府の任務放棄や無責任の正当化に使われてきた。今回、ついに、外務省設置法4条9号の「在外自国民保護」の手抜きを正当化する言説としても登場してきたわけである。
  自衛隊の海外派兵のルート開拓が目指された1996年前後には、「在外邦人救出」が盛んに言われたが、テロ特措法やイラク特措法ができて、海外派兵の太いルートができた今となっては、自衛隊海外派遣の理由づけとして、ことさらに「在外自国民保護」を持ち出す実益はなくなった。そうした事情もあって、今回の3人の人質に対する政府の対応の冷たさは際立っていた。
  もう一つの背景は、まさに、自衛隊イラク派兵部隊(550人)そのものが実質的に「人質」にとられていることがある。自衛隊駐屯地近傍での迫撃砲の着弾で「戦闘地域ではない」という政府説明の説得力は地に落ちた。人質の命の重さに比して、自衛隊派兵の正当化論理があまりに弱いことが見えてしまったことへの焦りは並大抵のものではなかった。米軍による占領の一角を占める日本。それに対するイラク民衆の怒りが明確になるにつれて、自衛隊派兵の根拠が崩れていく。そこを糊塗するため、ことさら人質3人の弱点が暴かれ、家族の対応が非難されたのである。ここに、壮大なすりかえの構図があった。

  そこで思い出すのは、1997年のペルー日本大使公邸人質事件である。この事件が私のホームページ「直言」の第1号だった。100日後にゲリラの皆殺しで「決着」したが、私はこれを「日本大使公邸の大量虐殺」というスタンスで書いた。フジモリ大統領自らが防弾チョッキを着て、特殊部隊とともに突入作戦を指揮。彼は一気に「英雄」となった。だが、その後、この突入作戦では、無抵抗のゲリラ(女性)が無造作に殺されるなど、フジモリ政権の暴虐の実態が明らかとなり、論調は逆転した。そしてフジモリ氏は今や、ペルー当局から犯罪人として引き渡しを求められるに至ったのである。日本国政府はそうしたフジモリ氏に対して、手厚い庇護を与えている。

  都合のいい時には過剰な保護を与え(保護の名目で市民生活に過剰介入し)、都合が悪い時には放置する。これを恣意という。いま、この国には近代的な法治国家の体をなさず、「瞬間タッチ断言法」の首相のもと、ブッシュ政権へのひたすら追随の道のためには手段を選ばずの無責任状態が現出している。政府首脳の口から無責任な「自己責任」言説が飛び出し、それが2ちゃんねる系のネットダストから新聞各紙にまで広まったこの国の異様さは、この国の個人のありようの未熟さを象徴する事例として記憶されていいだろう。

★お断り:4月10日に人質事件関連「緊急直言」を出した直後にパソコンがダウンしました。復旧までに時間を要し、その間の仕事が失われました。直言更新も遅れ、各方面にご迷惑をおかけしました。

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