大統領の「抵抗」  2005年2月7日

「よっ、大統領!」。これが「景気づけ」のかけ声に使えるのは、日本が大統領制をとっていないからである。「よっ、首相(総理)!」では、座はしらけてしまうだろう。ところで、世界の大統領のなかで、最も「著名」なのは米国のブッシュ大統領である。お隣の韓国、ロシアの大統領も知名度は高い。フランスの場合、シラク大統領は有名だが、首相の名前を知っている人はわずかだろう。ドイツは逆に、シュレーダー首相はそれなりに知られているが、現大統領の名前を読者はご存じだろうか。戦後40年の時点での「過去の克服」演説で有名になったヴァイツゼッカー元大統領の知名度は抜群だったが、現在のホルスト・ケーラー大統領(前・国際通貨基金(IMF) 専務理事)については、私自身、そのファーストネームがわからなくて調べ直したくらいだから、推して知るべしだろうか。検索エンジン「Google」(2月6日現在、日本語のページを検索)で「シュレーダー首相」は16200件ヒットするが、「ケーラー大統領」ではわずか442件だった。20年前の「ヴァイツゼッカー大統領」が1190件と、ネット上では元大統領の方が有名である。さて、そのあまり知られていないドイツ現大統領が、最近、法律公布の際にちょっとした「抵抗」を試みて注目された。今回はそのことについて書こう。

  ドイツの「航空安全法」(Luftsicherheitsgesetz) については、議会で成立した直後の昨年10月4日付「直言」(「あのエアバスを撃墜せよ!」)でいち早く紹介した。制定の背景には、「9.11」事件とともに、2003年1月にフランクフルト高層ビル街にセスナ機が侵入し、それに対処すべく空軍機が緊急発進した事件がある。そのとき、空軍の国内出動が、その法的根拠を含めて問題となった。「航空安全法」は、連邦国防相に、ハイジャックされた民間機を撃墜する権限を与えている(14条3項)。そのショッキングな内容から連邦参議院が異議を申し立て、連邦議会のより高いハードルの再可決(しかも、わずか2票差の)でかろうじて成立した経緯がある。
  
この1月12日、ケーラー連邦大統領は、「航空安全法」の認証に際して、「憲法上、最大級の疑義」を首相宛書簡で表明した。ただ、署名はすることで、法律の認証行為そのものは行われた。これにより、法律は連邦官報に公布され、施行された。大統領がこだわったのは同法14条3項のみであり、当該条文について憲法上の疑義を呈しつつも、法律全体についてはこれを認証したわけである。同法14条3項は、ハイジャックされた航空機が都市部の重要施設などを攻撃する手段に使われた場合、連邦国防相はこれを撃墜することができるわけだが、大統領は、こうした「生命対生命」の衡量は基本法(憲法)違反であり、「生命への権利」(基本法2条2項)と「人間の尊厳」の不可侵性(同1条1項)に反するとした。そうした連邦軍の国内出動を基本法(憲法)改正なしに行うことができるかについても疑問を提起した。
  
法案段階から野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) や自民党(FDP) は、憲法改正をしないで、かかる重大な権限が国防相に与えられることについて強く反対していた。連邦参議院の異議もその延長線上にある。今回、連邦大統領は、法律の認証は拒否することなく、議会の決定を尊重したが、同法について連邦憲法裁判所が憲法判断をすることに期待を表明した。つまり、大統領は、この法律について憲法訴訟を起こすことを促したのである(Frankfurter Rundschau, Die Welt, taz vom 13.1.2005)。

  一般に、両院で可決・成立した法律は、連邦大統領が認証(署名)して官報に公布される(基本法82条)。この大統領の行為には、首相または関係大臣の「副署」が必要とされる。大統領が副署なしでできるのは、首相の任免など、基本法に列挙されたわずかな行為である(基本法58条)。ヴァイマール憲法下の「大統領の独裁」(強大な権限)に対する反省から、ドイツ基本法は連邦大統領の地位・権限を限りなく縮小したわけである。そのため、連邦大統領は、半世紀以上の間、政治的対立には直接コミットせず、「国民統合の象徴」のような役回りを演じてきた。だから、議会で成立した法律について、それを認証しないということはあまり想定されてこなかった。首相の「副署」を必要とすることからも、大統領が自らの判断で法律の公布を阻止することは制度上も困難である。
  
例えば、日本の天皇が国事行為として法律を公布するときは(日本国憲法7条1号)、内閣の助言と承認(同3条)を必要とするので、天皇が法律の内容を審査して、公布するしないを判断したり、あるいは公布を留保したりすることはあり得ない。天皇が「御名御璽」を入れて法律は公布されるが、その行為は、純粋に形式的・儀礼的性格のものである。だが、連邦大統領の場合は純粋に形式的なものではなく、法律の適法性について実質審査できるとされている。ただ、どの程度それができるかについては学説上争いがある。一部の学説は、大統領は、法律が形式上適法に成立しなかった場合、例えば連邦に当該法規定の権限が欠けているような場合にのみ署名しないことができるとする。他の学説は、大統領に法律内容に関する実質的な審査権が認められるとする。
  
実務はどうか。J・ラウ前大統領は、「疑問の余地なく」かつ明らかに違憲である法律のみを拒否するという理由を述べて、移民法に署名したことがある。これは、違憲の疑いを感じながら署名したということを表明したわけである。今回のケーラー大統領の場合はさらに踏み込み、実質的な中身の違憲性について疑問を提示し、連邦憲法裁判所の憲法判断を促したのである。K・カルステンス元大統領が、1981年、国家賠償改革に関する法律について重大な疑義を提示しつつ認証したが、その際、当時の連邦首相H・シュミットに書簡を送り、連邦憲法裁判所への抽象的規範統制(法律の合違憲性について、事件にならなくても、一定の機関〔連邦および州の政府、連邦議会議員の3分の1〕の訴えで審査できること〔基本法93条1項2号〕)について具体的に言及した。これは、今回のケーラー大統領の場合とよく似ている。なお、R・v・ヴァイツゼッカー元大統領は、1990年に、航空交通管制民営化法への署名を拒否したことがある(FR vom 14.1) 。というわけで、ケーラー大統領のように、認証しつつ憲法裁判所への提訴を促すという手法は際立って異常なわけではないが、近年では相当珍しいケースであることは否めない。

   「直言」の枠ではあまり立ち入れないが、今回の問題には、憲法学的に見れば興味深い論点が多々ある。まず、基本法35条2、3項の解釈が問題になったが、この点はすでに触れたので省略する。なお、O・シリー連邦内相(社会民主党[SPD] 、元赤軍派[RAF] 弁護人)は、大統領の主張を「間違い」(irrig) と切って捨て、当該法律においては、「生命対生命」の衡量は行われておらず、「〔ハイジャックされた〕航空機内の人々は命を落とすのが確実であって、その機が向かう目標〔高層ビル、原発など〕でさらなる犠牲者を出さないということが肝心なのである、と厳しく反論した。これに対して、保守のコール政権時代に国防相も務めたことのある憲法学者、R・ショルツ教授はいう。憲法上、連邦軍をテロのような国内の危険に対処するために出動させてはならない。それゆえ、空軍は、テロの武器として濫用されている航空機も撃墜してはならない。憲法上は、国内の危険に権限があるのは警察だけである、と。これに対して、射撃に際して「生命対生命」が衡量されてよいかどうかの問題は法律的に新しい問題ではないとして、警察官の拳銃使用の例を挙げている(Deutschland Radio(Interview) vom 3.2.05) 。保守派の議論はあくまでも空軍を使った撃墜行為が、基本法上の明確な根拠を欠いたまま行われることに批判の重点があるようである。逆に言えば、基本法改正により、連邦軍に国内出動の根拠を与えれば反対ではないということだろう。
  こうした保守野党のラインとは異なる立場からの批判がある。小説『朗読者』などで作家としても高名なB・シュリンク教授は、「法の境目で」という論争的な一文を『シュピーゲル』誌に寄せている(Der Spiegel vom 17.1.05, S.34-36) 。シュリンクは、航空安全法による航空機撃墜の論理は、バス、列車、人質への射撃と同様、より大きな数の生命を救うという見込みのために、より少ない数の人間の生命や尊厳を犠牲にするというふうに構成する。そして、「この論理は新しい」とし、ドイツ基本法は別の「古い」論理に従うとする。それによれば、人間の尊厳を侵害したり、放棄したりすることが禁じられ、かつ生命を生命で差引勘定してはならないのである。「個々の生命の保護は、別の生命を救うという、それ自体尊重に値する目標が追求されることを理由にして放棄されてはならない。いかなる人間の生命…も、それ自体等しく価値があり、それゆえに、何らかの形に変えた異なる評価、あるいは数による衡量に服させることはできない」。この連邦憲法裁判所判例を改めて引用しつつ、「新しい論理」に批判的に向き合う。そして、シュリンクは、生命を生命で差引勘定するという論理を「戦争の論理」であるとして、「新しい論理」の支持者たちに戦争に向かうトーンを見て取る。本法をめぐる議会討論では、戦闘機のパイロットに責任を負わせてはならないということが言われたが、シュリンクはこの議論は説得力がないと批判する。そしてシュリンクは、より根本的な問題に踏み込んでいく。
  法の要請は、感情や信念、良心の要請とぶつかる状況を完全に避けることはできず、社会は、法に、社会的な共同生活のルールを定めかつ貫徹することを放棄できない。個人は、例外的に、法よりも、その感情、信念あるいは良心に従ってしまうことを放棄できない。このため、紛争が発生しうる。法が個人に紛争を全く起こりえなくしたり、法が紛争において個人に全て譲るようなことがあれば、法は自らを放棄することになろう。法は、個人に、紛争に耐え、決断をなし、そして、責任を負うことを求める。法は、個人に、理解や寛大さ、慈悲へ期待をよせることを妨げない。だが、法は、個人が法を破ったら、制裁を免れないということをあくまでも求める。そのことは、悲劇的な結果に至ることもありうる。法の境目に、もろもろの紛争もあるし、また悲劇もある。紛争は私たち人間存在(Menschsein)に属しているのであり、私たちはそれとともに生きなければならないのである、と。小説家でもあるシュリンクの文章からは、他の学者よりもこの問題の「悩ましさ」が伝わってくる。

  超レアケースとはいえ、「極限状態」の可能性と日々向き合う人々がいる。民間航空機のパイロットたちである。パイロット協会「コックピット」の代表M・キルシュネックは、先週3日のドイツ第一放送のニュース番組“tagesschau(NHK衛星第一放送で流すのは第二放送〔ZDF〕 の“heute”。ごくたまに“tagesschau”も放映される)で、次のようにシリー連邦内相を批判した。内相は、ハイジャック機内の人々は「いかなる場合でも(auf jeden Falls) 」命を落とすとしているが、自ら機内にいないのに、そのような危急事態であるとどうやって確信できるのか。「我々の意見では、機内の状況がどの程度絶望的なのか、それとも見込みがあるのかを決めるのは、地上の誰にとっても完全には不可能である」。「航空機は時速800キロで空中を飛行しており、最後の瞬間にどうなるのかを誰も知ることはできない」と。説得力ある指摘である。

   なお、シュリンクが向き合うのは、ハイジャックされた民間機の撃墜問題だけではない。今回は省略した、2002年10月に起きたフランクフルト市警における「拷問」事件も同時に論じている。市警の副長官が銀行頭取の息子の誘拐事件に関連して、容疑者に対して、子どもの居場所を言わせるために拷問による威嚇を命じたという事件である。拷問は「人間の尊厳」に反するとして、絶対的禁止として理解されてきたが、近年、子どもの生命が脅かされるような事例では許されるという風潮が高まってきた。世論調査では6割以上の人が副長官の「拷問」威嚇を支持している。昨年12月に出されたフランクフルト地裁刑事27部の判決は、副長官の行為を「人間の尊厳」を侵害すると認定し、10800ユーロ(執行猶予付き)の罰金刑を言い渡した。一般世論においては、「拷問の絶対禁止」はテロリストには適用されないとか、ハイジャックされた航空機の撃墜問題など、「法の境目」にある問題が目白押しである。「人間の尊厳」の相対化という風潮のなかで、そう簡単に「古い」論理を捨てないシュリンクの「悩み」に共感を覚える(「人間の尊厳」の特定の価値観の移入、「個人の尊重」との異同などの問題はここでは論じないこととする)

  ちなみに、1月末段階で、複数の弁護士が、「航空安全法」をめぐる憲法異議(訴願)の申し立てを行った。本日(2月6日)現在、連邦議会の野党議員団や保守野党系の州政府も訴訟を準備中という。連邦憲法裁判所の判断が注目されるところである。

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