「愛○心」について  2005年6月27日

「愛○心」とか「帰属意識」について考えてみた。ある企業、団体、学校、組織などに属していることを自覚し、それに何らかの積極的意味づけを与えれば、「帰属意識がある人」ということになるようである。一歩進めて、その組織に愛着をもつレヴェルにまでいけば、「愛○心」があるということになろう。
  学校現場では、愛国心が強調され、「国歌」を「大きな声で」歌うことが求められるなど、どうもおかしな風向きである。「愛社心」(愛社精神)を強調して、社歌を毎朝歌わされる企業もある。なにがしかに愛着をもつ心というのは、外から押しつけられる筋合いのものではないと思うのだが。では、私に「愛校心」があるかと問われると、答えにつまる。卒業した学校が4校、勤務した学校が3校。ただ、卒業した大学(+修士課程修了、博士課程満期退学を含む)と、いま勤務している大学が同じだから、小学校以降、私が関わった学校は計6校(非常勤講師は除く)ということになる。それぞれに思い出がある。

  私は早大の教員になって9年が経過し、10年目に入った。在職30周年の表彰を受ける同僚もいる。私も20代で助手になっていれば、数年後には在職30年ということになっていただろう。でも、北海道や広島の大学での貴重な体験や出会いがあったことから52歳で「早大在職9年」に後悔はない。むしろ、この「運命」に感謝さえしている。
  
北海道でも広島でも、その大学に在職中は「私の大学は」とか「うちでは」といった言い方をした。当然、自分が所属していた大学をよくしようと一生懸命だった。学生の教育にも全力をあげた。私にとっては、その時、その大学で一緒にすごした学生や教職員との関係において、その大学への「帰属意識」が生まれたわけである。ただ、私は高校から大学まで、同窓会・校友会というものにあまり縁がない。というよりも、その学校の出身、ないし先輩・後輩という関係だけで懐かしがる気持ちが起きないのである。常に、その時を共にすごした人々との関係で、その学校に懐かしさと愛着を感じるといっていいかもしれない。それが私にとっての「愛校心」ということになろう。だから、どの学校でも、関係したクラス会やゼミOB会などには出るが、その学校の出身者というだけで集まる同窓会などとは距離をとっている。一度、在外研究中に、外国のある都市で開かれたその地域に住む早大出身者の会合にでかけたことがあるが、いい印象は残らなかった。もともと、私たちの世代(1969、70年の高校紛争世代)は、会費まで払って同窓会に入るという意識が一番少ないようだから、「帰属意識」の薄い世代なのかもしれない。でも、この世代には、ものごとに情熱を燃やす個性派が多いのも特徴である。

  各地に行って「早稲田出身です」と自己紹介されても、私の関心をひくことはあまりない。でも、早稲田の教員とわかると、「○○先生はご存じですか?」といわれることがある。ちなみに、2004年度の数字だが、助手から教授まで、さらに高等学院教諭を含む専任教員の合計は1636人である。これに、専任扱いの客員教員267人、非常勤扱いの客員教授193人を含む非常勤教員3342人を加えると、「早稲田の先生」という人々は、合計で5245人(うち女性は870人)いることになる。専任職員は745人(嘱託職員を入れると874人)。常任理事(近年「副総長」と対外的には称している)のうち、職員理事までが同窓会誌などで、「本日は副総長の○○先生が参加され…」と紹介されることがあるので、「早稲田の先生」といわれる人物の数はさらに増える。ドイツのある町で、「あなたは日本人か。高橋さんを知っているか」と聞かれたことがあるが、「高橋」という名字をもつ日本人は80万人は下らない。それと同じように(とはならないが)、「早稲田の先生」も多いのである。
  
その早稲田に対しては、私なりのスタンスで愛着を感じている。ただ、過剰な「早稲田ナショナリズム」には違和感を覚える。早慶戦のあと、「都の西北」を絶叫しながら、歌舞伎町あたりで迷惑をかける学生たちが毎年あとをたたない。試合の興奮に加えて、酒が入って、校歌を歌うと気が大きくなる。ワールドカップなどで興奮した観客が暴走するのは、いずこも同じだろうが、いずこでも、「ナショナリズム」は覚醒剤的な機能をもつ。何事も過剰な一体感は危ない。

  いろいろと批判される早稲田もある。それぞれの人が、どの早稲田と触れるかによって、早稲田のイメージは大きく変わる。2001年6月から02年10月までの1年半、早大教員組合書記長をやったから、早稲田の悪い面も含めて、全体をみる視点ができた。法学部の一教員でいたときよりも、高等学院から海外の関連校などの問題についても関心をもつようになった。自分の大学のいい面も悪い面もいろいろ知るなかで、「早稲田」への愛着が一層わいてくる。これを「愛校心」というなら、そう呼べばいいと思う。
  忘れてはならないのが、「外」からの眼差しだろう。大隈重信はそれを非常に重視した。早大全体で、留学生の数は1769人。内訳は、中国が697人、台湾91人、韓国390人などである(いずれも2004年5月現在)。この留学生一人ひとりが、これからの日本やアジアにとって、大変貴重な人材である。だが、留学生に対する施策はまだまだ十分ではない。留学中の不快な思いが、「日本嫌い」に連動しないよう、留学生は大事にしなければならない。そのためにも、自分の所属する「国」や「場」について広い視野でコミットし、それを相対化する姿勢が重要だろう。これは、隣人との関係についてもいえることである。
  韓国の自由主義的保守主義者として知られる評論家の卜鉅一(ポク・コイル)氏は、韓国『時事ジャーナル』と『週刊金曜日』との合同アンケートのなかでこう述べている。「この世に良い隣人はありえない。韓国と日本の市民たちはお互いに対する期待の度合いを緩め、もっと寛大になる必要がある。そのような態度は自身の政治資産をやすやすと手にしようとする、民族主義的感情を激発させる政治家たちに対する唯一の対策である」(『週刊金曜日』05年6月24日号)と。重要な指摘だと思う。

  話は突然変わるが、「日本」をどう発音するだろうか。「ニホン」か「ニッポン」か。国立国語研究所の調査によると、8200件の日本関連語で「ニホン」と発音されるのが圧倒的多数で、「ニッポン」は数%程度という(『朝日新聞』2005年5月11日付)。「ニッポン」と発音するときは、単に語呂だけでなしに、何らかの「勢い」や「力」がこもる場合が多いようだ。私はいまの憲法について「ニッポンコクケンポウ」と発音したことはないし、「ニッポンダイガク」と発音する日大生もめったにいないだろう。その昔、日本社会党は「ニッポンシャカイトウ」と発音していた。故・成田知巳氏が委員長だった70年頃、彼が「ニッポンシャカイトウ」と発音するとさまになっていた。それに対して、日本共産党は「ニホンキョウサントウ」である。当時議長をやっていた野坂参三氏(100歳で除名された!翌年101歳で死亡)だけは、「ニッポンキョウサントウ」と発音していたように記憶している。この人は、戦後、中国から帰還してから、「愛される共産党」「真の愛国者」などといっていたから、「ニッポン」への思い入れは強かったのだろう。
  
近年、「ニッポン!」と発音する例は、何といってもサッカーだろう。私はここ数年、サッカーの国際試合で「ニッポン!」と熱狂する人々を見ながら、別世界の様子をみる気分になっている。そこまで応援する感覚は私にはわからない。オリンピックもそうである。「ニッポン」と叫んで、ナショナルな気分にひたるのも、まだスポーツなら許される。ことさらに学校現場で愛国心を教え込むという傾きが強まっているが、自分の国を「愛する」かどうかは、その人のなかに自然に生まれる思いに委ねるべきで、外から「注入」すべきものではないだろう。ことさらに愛国心が強調された時代は、あまりいい時代ではなかった。21世紀に、なぜ愛国心なのか。これは別個に論ずる必要があるが、私は、愛国心よりも「憲法パトリオティズム」(「愛憲心」)という視点を重視する。国民は、祖国愛や愛国心というものによってではなく、共通の憲法のもとに、その規範価値のもとに結合されるという考え方で、ドイツ統一過程で特に議論された。「国民全体は価値についての実質的なコンセンサス(合意)によって結合するのではなく、正当な法制定や正当な権力行使のための手続に関するコンセンサスを通じてのみ結合することができる」(J.Habermas, Die Einbeziehung des Anderen, 1999, S. 263f.)等々。いずれにしても、「愛○心」というのには注意が必要だろう。

  というわけで、話があちこち飛んでしまい、まとまりのない文章になってしまったが、最後に、2年ほど前に書いた小論を転載することにしたい。所属学部の部内誌『Themis』が「外から観た早稲田」という特集を組んだ際に、在外研究時のエピソードをまとめた一文である。一般にはほとんど知られていない部内誌なので、この機会に紹介しておこう。

 

ドイツで歌った「都の西北」

法学部教授・水島朝穂  

  ドイツの首都がベルリンに移った1999年、私はボン大学で在外研究中だった。この首都移転は、「ライン川からシュプレー川へ」(Vom Rhein an die Spree)とも表現された。ドイツでは都市と川は密接な関係にある。前任校(広島大学)のときの在外研究では、シュプレー川にほど近い旧東ベルリン中心部に住んだ。1991年6月20日(木曜)、「ボンかベルリンか」を決める11時間におよぶ議会審議の模様を、テレビ中継で見守っていた。夜9時48分。わずか18票差で「首都ベルリン」と決まった。疲れた目をこすりながら、外の通りを「ベルリン子」の車がクラクションを鳴らしながら走るのを眺めていた。その8年後、連邦議会がベルリンに移転するのを、ボンで見送ることになった。
  
1999年7月1、2両日。「ドイツ民主主義50年・ボン祭」。50年間首都の役割を果たしたボンに、連邦議会と連邦参議院が感謝するというお祭りである。本会議場でジャズやクラシックのコンサートも開かれた。周辺はビアガーデンと化し、髭で知られる連邦議会議長が、市民と談笑しながら、ビール片手に焼きソーセージ(Bratwurst) を頬張っている。
  
人口30万のこじんまりした首都ボンに、1991年、早稲田大学ヨーロッパセンター(ボンセンターと略称される)が設置された。私が滞在したとき、商学部の八巻和彦教授(現・広報室長)が館長代行をされていた。事務職員はA・シュプリングマンさん。このお二人には、家族ともども大変お世話になった。日本の大学で、海外に常設の研究センターをもつ大学はあまり聞かない。経済効率を重視する企業の場合、目に見える成果を期待できない海外拠点はリストラの第一候補になる傾向にある。でも、研究・教育・文化の分野では、あまり短射程の発想はしない方がいいのではなかろうか。
  
ドイツでも大学間競争が激しい。同じ州にある大学でも、ケルン大学は規模と総合性を、アーヘン大学は歴史と伝統をメリットにしているのに対し、ボン大学は国際交流の進展を特徴としている。特に日本の早稲田大学と学術協定を結んでいることは、州政府により高く評価されている。これは州文部省の調査を受けたあとに、ボン大学の学長が八巻館長代行(当時)に直接語ったことである。研究や文化は、人とテーマの出会いが大切だと思う。どんなに資金を投入しても、すぐに成果が出るわけではない。そうした「出会い」を演出し、支援できるセンターをもっていることは、大学にとって貴重な財産だと思う。
  人口350万の大都市ベルリンに首都移転が決まったとき、早稲田のセンターをベルリンに移すという話もあったと聞く。でも、種々の事情が絡み合って、この話はすぐ立ち消えになったようである。政治・経済・文化すべてが首都に集中する必要はない。文化は地方に分散し、それぞれの地域の特徴を活かした方がよい。中央集権化は文化の本質にも反する。だから、早稲田大学ヨーロッパセンターはボンに存置されるべきだと私は思う。ポッペルスドルファー・アレーの美しいマロニエの並木道に、わが早稲田のセンターはある。  ボンは北緯51度に位置するから、いわば「日本の西北」である。「都の西北」を人前で高唱することを好まなかった私も、ドイツ滞在中、チューリンゲン州の山間部で道に迷ったとき、暗い夜道を走りながら、自然とこの歌を口ずさんでいた。日本で学生たちと歌うときは気にもとめなかったが、こういう異様な状況下では、歌詞がビンビン心に響いてくるから不思議だ。現実を踏まえながら、久遠の理想を追い求めよ。たくさんの人々との出会いと別れがあるけれど、みんなの心には共通の理想がある。まさに「故郷とは遠くにありて思うもの」だとつくづく思う。日々忙しくしている私には、まさに「早大もと暗し」であった。海外にいる方が、早稲田のよさがいろいろと見えてくる。校歌に惚れなおしたことも、ボンに滞在した成果の一つといえるかもしれない。
  
なお、「ドイツからの直言」は、ボンで毎週欠かさず更新し、全54本をアップした。私のホームページ(http://www.asaho.com/)の「バックナンバー」1999年、2000年にあるので参照されたい。(みずしま・あさほ)

早稲田大学法学部報『Themis』22号(2003年3月25日) 所収

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