伝わる言葉を考える  2005年7月4日

のを書き、語る仕事をしていると、言葉には細心の注意を払う。それでも、誤用や不適切な言葉を使ってしまうことがある。そういうとき、読者の批判は大変ありがたい。
  批判されても意に介さない御仁もいる。小泉首相である。一番驚いたのは、靖国参拝について、韓国や中国の首脳に何度も自分の考えを説明したと述べた上で、「もちろん『わかった』ということはないが、理解を得られたと思っている」と語ったことである(『朝日新聞』6月8日付)。首相にとっては、「わかった」と「理解を得られた」というのは異なる意味で使われているようである。相手が納得していないことが「一見きわめて明白」なのに、「理解を得られた」といってしまう神経には驚かされる。立場や見解の違いがあっても、言葉を交わし合うときの、紳士的で真摯な姿勢が大切だろう。それは、例えば、改憲をめぐり見解が異なる人と討論するときでも、団体交渉で組合が理事会側を批判するときでも必要なことである。中身ではなく、入口のところで罵倒し合うやりとりに接すると、何ともさみしい。相手がこちらの見解を受け入れなくても、少なくともこちらの「気持ちが伝わる」ということが必要だろう。だから、「より打撃的でない他に選びうる言葉(手段)」(LDAテスト) が大事なのである。

  電子メールも同様である。実に便利だが、思わず「書きすぎた」という時がある。就寝前に目をこすりながら送信したメールを、朝になって読んで、送信したことを後悔することもある。やはり「言葉」を発信するときは「見直し」が大切だろう。ハガキや手紙を出すときは、その熟慮の繰り返しである。ペンをとって便箋に向き合うとき、文章を何度も書き直し、書き上げたものを封筒に入れるとき、さらにそれをポストに入れるときなど 、いくつものハードルがある。半世紀の人生のなかで、投函する前に出さなかった手紙もある。だが、電子メールは瞬間操作で送れるから、その分、言葉が軽くなると同時に、傷つける言葉を発信してしまう「相当の蓋然性」がある。電子メールを出すときにも「熟慮」が求められる所以である

  改憲状況を反映して、このところ講演依頼がひっきりなしにくる。9.5コマの授業(持ち出しを含む)をやっているので、授業期間中はその多くをお断りしている。この場を借りてお詫びしておきたい。先週、千代田区の組合関係者が主催する「千代田平和集会」というところで講演したが、演題は「憲法9条を変えて何が悪い」にした。事前の打ち合わせで、主催者はこのタイトルにためらいをみせたが、私はあえてこのタイトルで通した。案の定、関係者の間では、「この演題は何だ」という意見も出たという。一応私はその世界では無名ではないので、私の名前と演題をセットで考えてくれる人たちは、好意的にとってくれたようだが、怒った人々もいたようである。
  
実は、私も執筆した奥平康弘編『破防法でなにが悪い』(日本評論社、1996年)を意識したネーミングだった。この本には「自由を守るための多角的視点」という副題がついている。この講演でも、「憲法9条を変えるとこう悪い」ということを3点にわたって「多角的に」指摘した。「揺るぎない護憲派」の人々が、「憲法9条好き」とか「9条守れ」ということを自分たちだけで「決意表明」するだけでは足りない。私は、「揺るぎある護憲派」や「改憲かな?」気分の人々にも伝わる言葉が必要と考えている。 この間に出版した『改憲は必要か』(岩波新書、憲法再生フォーラム編)『改憲論を診る』(法律文化社)は、そういう問題意識で作られている。フジテレビで放映された「憲法96条――国民的憲法合宿」も、上記の私の問題意識と響き合うもので、それが全日本テレビ製作者連盟「ATP賞」の優秀賞を受賞したことは大変うれしい。「伝わる言葉」を紡いでいくことの大切さを思う。
  
さて、今回は、現在連載中のものから一本を転載することにしたい。 読者がもっぱら労組関係者であることを念頭に執筆したものである。

 

言葉の脱軍事化

 ◆「脅迫標語」の“粛清”

  たかが言葉、されど言葉。どんな言葉を使うかで、その人の「思想」がはっきりあらわれる。人を動かす言葉には力がある。人に怒りを与えたり、悲しませたりする言葉には「負のオーラ」が充満している。戦前日本でも、「欲しがりません、勝つまでは」に見られるように、窮乏生活から目をそらすように誘導するスローガンも多々存在した。ナチス宣伝省の資料を見ると、「ここまでやるか」というほどの煽動言葉(スローガン)が研究されている。いずこも同じ。支配者はスローガンや言葉を重視する。
  近年、中国では、「脅迫標語」をソフトにする動きがあるという(『読売新聞』2004年12月25日付夕刊)。国民管理や大衆動員の手段として、「口号」(スローガン)を多用してきた中国で、強制色が強いために民衆の反発をかってきた標語を「文明的」なものに変えるそうだ。例えば、雲南省政府は、2003年に、約15000の「庶民感情を害する命令調、強制的な標語」を廃止したという。よくもそんなにたくさん作ったものだと驚くばかりである。
  
「不良標語」の代表例としては、「一人超生、全村結紮」(一人が多く産めば、全村民に強制不妊手術)がある。「一人っ子政策」を徹底するためのものだ。「今天不交税、明天牢里睡」(今日税金を払わなければ、明日は刑務所で一晩)、「小孩放火、父親座監」(子どもの放火、父親を収監)というものまである。あまりに威嚇的な側面が強いので、例えば、「多生(多産)処罰」という言葉を「少生(少産)奨励」に変えて、イメージアップをはかろうというわけである。
   だが、言葉を変えただけで、「上意下達」の政策が変更されたわけではない。そもそも中国の政治体制は共産党一党独裁である。この根本部分に手をつけない限り、この国の「民主主義」への信頼度が高まることはないだろう。とりわけ、世界一の死刑執行国という現実は否定しがたい。世界の死刑の9割は中国で行われている計算になる。北京オリンピックまでに、どこまで市民的・政治的自由を拡大できるか。世界中が注目している。

 ◆「動員」という言葉はやめましょう

  労働組合にも、若い組合員などからすれば「?」という言葉がまだたくさん生息している。無意識のうちに使われているのだろうが、もともとの語源は軍事・軍隊用語であることがけっこう多い。戦術、指令、動員等々。
  戦後の労組指導者たちには、陸・海軍の下士官出身がけっこう多かった。「泣く子も黙る」憲兵将校出身の労組委員長もいた。押しが強く、言葉にも迫力がある。人々を一定の方向に導くのはお手のもの。そこで使われる言葉は威勢がよく、戦闘的で、煽動的になっていく。
  「そういう主張は、運動を武装解除するもの。私たちは、平和憲法を守るため、断固として理論武装する必要があります」。こんな言葉を平和運動や市民運動のなかで聞くと悲しくなる。理論「武装」して、思想「動員」をはかるという発想自体が、平和という目的から見れば「?」である。とりわけ、私は「動員」という言葉が嫌いである。
  「動員」(mobilization)は、典型的な軍事用語で、軍隊や人的・物的資源を戦時態勢に移行させることをいう。軍動員、軍需動員、国家総動員がある。戦争末期は、「物資動員」で、寺の釣り鐘までが「供出」させられた。これは各地の寺に残る「トラウマ」の一つである。
  
私は全国(最近では韓国も)で講演するが、労組が主催者の場合、聴衆はけっこう「動員」された人たちが多い。ただ、主催者から、「我々の知らない方たちが遠方から参加しておられますよ」といわれることが多い。私のホームページの「お知らせ」欄をみて参加した方たちもいる。うれしいことである。「動員」ではなく、自発的に参加してくれる聴衆のためにも、私はいろいろな「歴史グッス」を講演に持参して、全力投入する。
  他方、動員された聴衆を前にして、「皆さんのなかには、動員で仕方なく来られた方もいると思いますが、来てよかったという話にしますのでご安心ください」といったら、会場から何ともいえない笑いがもれたこともあった。
  常々、私はいろいろな機会に、労働運動や平和運動における「言葉(用語)の脱軍事化」が必要だと指摘してきた。私が早大教員組合書記長を務めた一年半ほどの間、できるだけ軍隊的な組合用語をやめようと提唱してみた。組合は学内における提案者集団であり、「プロジェクト・ユニオン」というにふさわしい。
  ところで、反戦デモを「ピースパレード」「ピースウォーク」としてやっている若者たちがいる。彼らは、いうところの「動員」ではなく、携帯メールなどでつながって集まってくる。いわゆる「全共闘」世代などの年輩世代から見れば、「甘っちょろい」かもしれない。でも、平和の課題で若者たちが街頭に出ること自体、この時代においては貴重である。
   「もっと怒れ」「もっと動員を」という気持ちもわかるが、「怒る」は自動詞である。その人のそれまでの全人生と体験と人格をかけて、現実に対して怒りを抱くから「怒る」のであって、人に向かって、「怒れ」というべきではないだろう。だからこそ、悲惨な現実を淡々と伝える映像や、すぐれた記事やルポ、そうした写真を満載した雑誌(『DAYS JAPAN』等)が大切なのである。「員数」を「動かす」のが「動員」である。一人ひとりの心の届く言葉と中身があれば、人々は「動く」のである。

 ◆文化的暴力の克服

  こうした言葉の「脱軍事化」にこだわるのには理由がある。それは、言葉の果たす「暴力的」側面を自覚する必要があるからである。かつての日本語の強制使用の結果、きれいな日本語でも、旧植民地の人々にとっては「暴力の象徴」となっている。
  ノルウェーの平和学者J・ガルトゥングは、暴力を、「直接的暴力」、「構造的暴力」、「文化的暴力」の三つに分け、90年代半ば以降、宗教やイデオロギー、言語などの「文化的暴力」に着目するようになった。ガルトゥングは、「選ばれし者」に根をもち、宗教・イデオロギーを通じて正当化されるナショナリズムが、国家イデオロギーや国家統制に関わってきたことを指摘する(水島朝穂「『平和と人権』考」『法律時報』1999年1月号参照)。
  
どんな言葉でも強制することはよくない。「動員」のように、一人ひとりの個人を「束」で動かす発想を内在させる言葉はふさわしくない。労働組合も、自らの活動のなかから、「より押しつけでない、他に選びうる言葉」を探していく必要があろう。

2005年3月23日稿〕
『国公労調査時報』2005年5月号「同時代を診る」連載第7回より転載