続・なぜ教育基本法の改正なのか  2006年5月22日

週16日、衆議院で、教育基本法改正案の審議が始まった。私は、 5年前、「なぜ教育基本法の改正なのか」を書いた。ずいぶん間があいてしまったたが、こういう状況なので、今回はその続編を書くことにしたい。当該直言にもリンクしてあるが、その 1年前の 2000年 12月、首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」の最終報告が教育基本法改正を提言した直後に、私はNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のなかで、報告内容を批判的にコメントしたことがある。人はその時に何を語り、何をしたのかを記録しておくという意味でも、以下、NHKラジオで行った私のコメントの一部を再現しておこうと思う。


〔…〕報告はまた、「新しい時代」にふさわしく、教育基本法を見直せと書いていますが、いまなぜ教育基本法の見直しが必要なのか。この報告からは説得力ある解答は得られません。むしろ、ことさらに「日本人」の育成や過度な伝統・文化・国家を強調するなど、教育の現場をあえてぎくしゃくさせるおそれはないか。教育基本法10条が、教育は「不当な支配」に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものと定めた意味は、教育が実にデリケートなものであり、対症療法的にカンフル剤をあれこれ打っていじるべきではないということです。およそ教育の現場の声が反映したとは思えない、性格も曖昧な私的諮問機関が特定の方向を押し出すことは、「不当な支配」に限りなく近づく機能をはたすおそれがあるのではないか。報告は末尾で、「国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」と明記したのは、議論の進む方向がそうした傾向とまったく無縁ではないことを暗に認めたようなものだと思います。


  「新聞を読んで」の枠のため、各紙の論調を紹介した上での一言である。当然舌足らずで終わっている。ただ、ここで言いたかったことは、教育基本法10条の重要性である。


10条(教育行政)

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


  いま、教育基本法改正問題が焦点となっているが、 6年前にラジオで指摘したこの論点は、ますます重要性を増しているように思う。当時は「国民会議」という怪しげな組織だったが、いまや正式の法案の形になり、具体的審議に入っているからである。そこで最も注目されているのは、「愛国心」の問題だろう。これについてはいろいろと言いたいことがある。与党内だけでなく、最大野党の民主党も、表現やトーンの違いはあれ、「愛国心」的要素を法案に盛り込む点では微妙な一致が生まれつつある。この点については、西原博史『良心の自由と子どもたち』(岩波新書、 2006年)第4章が鋭い指摘を行っているので参照されたい。

  「愛国心」と並んで、あるいはそれ以上に重大なのは、教育行政に関する第10条の骨抜きだろう(法案16条)。どんなに「愛国心」をマイルドな表現に変えたとしても、この10条骨抜きのもつ意味は限りなく大きい。この条文のタイトルは「教育行政」になっている。そこに手を入れ、「権力にやさしい教育基本法」にすることが、教育基本法改正の重要な狙いの一つと言えるだろう。


  そもそも教育基本法はなぜ制定されたのだろうか。それは、戦前の「教育勅語体制」に対する反省の上に立って、教育内容に対する国家統制や、行政の安易なコミットを遮断することに狙いがあったと言っていいだろう。戦前においては、教育は、その正当性の根拠を憲法に置くのではなく、天皇の権威に直接基づいていた。議会で定める法律の形をとらず、「勅令主義」をとり、教育行政権は圧倒的な支配力をもっていた。その具体化が「教育ニ関スル勅語」(1890年)である。詳しいことは省くが、国家が教育全般に介入し、これを操縦・支配した結果は、悲惨な戦争の惨禍となって現出した。戦後教育は、この「教育勅語体制」との決別から再出発をしたわけである。詳しくは、水島朝穂「戦後教育と憲法・憲法学」(樋口陽一編『講座・憲法学』別巻〔日本評論社、1995年〕)参照。

  教育基本法10条は、教育と教育行政を分離して、行政があれやこれやと教育内容に介入することを抑止し、行政の任務を教育の周辺的諸条件(校舎、教室、教員人件費など)の整備に限定しようとしたところに意味がある。教育内容を決めるのはもっぱら国民の付託を受けた教師集団であるという主張は、戦後一貫して論争の焦点となり、教科書裁判や学力テストなどをめぐる裁判の論点ともなってきた。「国民の教育権」という形で主張されたこの理論もまた、教育の主体たる子どもたちを軸にして考えると、いろいろな問題・弱点をもっていた。この論争については私自身も意見があるが前掲拙稿や西原氏の書物に譲り、ここでは、「不当な支配」から行政権を外す試みについて注意を喚起しておきたい。

  教育法学の多数説に立てば、「教育行政による法的拘束力をもつ教育支配は、その制度的強さからして、定型的に『不当な支配』に当たる」ことになる(兼子仁『教育法(新版)』有斐閣、 1978年)。旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決(1976年5月21日)もまた、「教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けているもの」と明確に指摘し、「その意味において、教基法10条1項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるといわなければならない」と判示している。最高裁は、教育基本法の出自を、「戦前における教育に対する過度の国家介入、統制に対する反省から生まれたもの」という歴史認識を示し、「同法10条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する」と述べている。ただ、行政権力の「不当、不要な介入」だけが排除され、「許容される目的のために必要かつ合理的と認められる」ものは禁止されていないという立場から、結論的には、国の施策は肯定された。最高裁も、30年前の大法廷判決で、行政機関が法律に基づいて行う教育への介入に歯止めをかけていた点は記憶しておく必要があろう。


  制定から60年近くたったし、教育をめぐる条件も変化した。だから教育基本法を変える必要があるとか、荒れる学校や少年犯罪などを例に出して、教育基本法改正につなげる乱暴な議論が横行している。もちろん、教育をめぐる状況は大きく変化している。だが、教育の世界においても、「変わるべきもの」「変わっていいもの」、そして「変わってはならないもの」を慎重に腑分して議論する必要があるだろう。最も大切なことは、教育の現場に、その時々の政権や、世の中で力をもつ人々、あるいは少数派とはいえ、束になって集団でいろいろと口を出すことで、教育の現場が混乱することがあってはならないということである。

  誰でも教育については一言ある。教育の重要性は誰もが感じるし、現場への思いや注文があるだろう。元教育関係者という立場から、自分の経験をあれこれ述べたてて、「いまどきの教育」や「いまどきの教師」に対して注文をつけたい気持ちもわかる。だが、そうした無数の思いや思い入れ、あるいは思い込みが束になって教育現場に向かうとき、それは一つの圧力となる場合がある。教育に関連した審議会や、「教育改革国民会議」のような教育行政に対するオリエンテーション(方向づけ)機能をもったものは、とりわけ問題である。 審議会や会議体の構成は決して公正ではなく、時の政府や役所の方針をオーソライズするような報告書を出すのが仕事となってしまっている嫌いがある。 「ゆとり教育」から小学科校英語必修化、入試制度の改変まで、そうした審議会やらで決まったその時々の提案によって、どれだけ教育現場が混乱させられてきたことか。その悩ましい症例は、小中学校から大学での法曹養成に至るまで無数にある。

  教育は、公教育として行われる場合には、法律によって規定される。教育基本法というのは、一般的な法律の形式をとりつつも、前文をつけて、一般の法律やそれに基づく行政の活動に対して、教育世界のデリケートな性格を強調し、「気づかせる」という役割が与えられてきた。教育基本法が「準憲法的法律」(有倉遼吉)と呼ばれた所以である。戦前の教育勅語体制の体験から、過剰な介入がもたらす負の教訓を踏まえ、法は教育内容に対しては、徹底的に抑制的であるべきであるという構えを示しつつ、同じ法律にも関わらず、他の法律や行政を理念的に拘束し、過剰な介入を遮断してきたわけである。


   いま、衆議院で審議されている法案は、大事で大切な教育基本法10条に手をつけ、下記のような、何とも饒舌な条文にとって代えようとしている。


法案16条(教育行政)

 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。

3 地方公共団体は、その地域における教育の新興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。

4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。


   先の10条と比較してみてほしい。法案16条に、教育行政がピシッとするような厳しい規範的縛りを感じるだろうか。 「不当な支配に服することなく」が残っているから変わりないと感じられた方は、後に挙げる文部科学相の発言からも国家を縛る規範が骨抜きにされていることがわかるだろう。「法律の定めるところ」さえあれば、教育内容のどんな分野にも行政は介入できることになる。戦前の反省から「変わってはならない」とされてきた部分が変えられてしまうことになる。10条が存在したからこそ、教育内容をめぐって国の関与の仕方などを争うことが可能だったが、法案16条では何の意味もなくなる。法案16条は、教育内容への国家介入ルートに法的根拠が与えられたとさえ言えるだろう。

  国と地方の「適切な役割分担」や、財政措置における国と地方のパラレルな定め方など、財政難の地方自治体が、国に対して要求できるような道も塞がれている。何とも国の側に都合のよい、「権力にやさしい教育基本法」であることか。


  教育基本法は、国・教育行政の教育への介入を制限しながら、他方で、国民・父母(親)・教師の側が教育に対してどのように向き合うかについては「開かられた」形をとっているため、「国民の教育権」説の弱点を含めて、いまだに多くの課題を残している。たくさんの教育をめぐる問題も、早急な対応を迫られている。教育基本法改正案は全18カ条からなり、やたらと父母や家庭、教員などにも注文をつけている。教育をめぐるさまざまな問題の解決は、教育基本法を「改正」して達成できるものではない。国・行政が安易に介入できるルートが確立されることによって、いま以上に、上からの統制的な仕方が定着することになろう。

  小坂憲次文部科学相は衆議院での法案審議のなかで、「我が国を愛する心情や態度」の指導にあたることについては「法令等に基づく職務上の責務」として、教職員が拒否できないという姿勢を明確にしている(『朝日』 5月17日付)。また、文部科学相は、法案16条に「不当な支配」の文言を残したのは、「国民全体の意思とは言えない一部の勢力に、不当に介入されることを排し、教育の中立性、普遍不党性を求める趣旨」であると述べて、国が教育内容を決めることは可能であるとした。つまり、「不当の支配」の担い手から、国家機関などを排除したわけである。

  すでに学習指導要領の拘束力を高め、実質的に文部省(後の文科省)が教育内容にかなり踏み込んできた歴史がある。それを教育基本法を改正して、だめ押し的に確認する意味しかないだろう。教育のあり方は、国の未来を決める。戦前への反省の上に立った教育基本法にいま手をつけることは、この国の行く末に大きな禍根を残すことになるだろう。

  なお、このテーマにおける最新の著作として、永井憲一編著『憲法と教育人権』(日本評論社、 2006年)を参照されたい。

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