雑談(52)小学校の先生のこと  2006年8月14日

派の文章が続いたので、ストック原稿の「雑談」シリーズからUPすることにしよう。
   「9.11」からまもなく5年というなか、イラクは内戦状態、中東情勢は悪化の一途を辿り、英国で米国行き旅客機同時爆破未遂事件まで起きた。全容は不明である。このタイミングで、またもブッシュ大統領は「言葉の暴力」を行使した。「イスラム・ファシスト」である。一見、思いつきの簡単な造語のように思えるが、この言葉の影響は甚大である。「暴力の連鎖」を加速することは明らかである。
  だが、目下、締め切りを過ぎた原稿やら、前期試験答案の山に加えて、さまざまな仕事が舞い込んできて、こうした重要問題について新稿を書く余裕がない(関係する読者の方には、この場を借りてお詫びしておきます)。自分の能力を超える仕事を引き受けているわけで、自業自得と言えばそれまでである。というわけで、今回は、私自身の「原点」、つまり「元」の「気」を確認すべく、小学校時代に影響を受けたおふたりの教師に関するパーソナル・ストーリーをUPすることにしたい。

  「ホリエモン」とともに、「勝ち組」「ヒルズ族」などといってメディアに持ち上げられた村上ファンドの前代表・村上世彰氏。彼はいま被告人の立場にある。その彼は、2000年2月にこう述べたという。「初めて株式に接したのは小学校3年生のとき。ある日、突然、父親から『今後2年間、小遣いはやらない。代わりにこのお金を自由に運用しなさい』と言われた。お金は運用次第ではなくなることもあるというリスクを教えようとしたのではないか。この資金でまずサッポロビール株、次に同和鉱業株を購入した」。村上氏は、「株主こそすべて」「株式の価値がゼロになったらおしまい」「どうやったら株式投資がもうかるか」だけを考えてきたという(『読売新聞』2005年11月15日付)。

  だが、株式会社は「株主こそすべて」ではない。株式会社には、経営の目的、ミッション(使命)がある。これを最大に実現させることが企業価値の意味とされる。上村達男「村上ファンドはなぜ挫折したか」(『世界』2006年8月号)は、「わずか30名の人間が、カネを借りられた、株を買えたことのみによって、無数の人間の営みである阪神鉄道、阪神球団の意向を指図できるとのファッショ的な妄想にとらわれたのである。このことは日本の民主主義の実情を示す重大な問題である。村上前代表は、『自分は天下の嫌われ者になった』といっていたが、彼の基本的な会社観、企業社会観、経営観に、人間社会の営みのための経営という視点が欠落していたために、人間社会から嫌われたというべきだろう」と、村上ファンドとそれをめぐる問題の本質を鋭くついている。

  それにしても、子どもにとって、親の姿勢、家庭の教育は大切である。特に小学校低学年の教育の重要性を思う。3年生から株を始めた村上氏からすれば、「でも、皆さん、お金儲けは悪いことですか?」と記者会見で言ってしまうのも、村上氏の頭と体と心に染みついた「常識」なのだろう。だが、残念ながらそれは、一般の常識から完全にズレていた。あるテレビ番組で、村上氏の小学校時代の教師がコメントするのを観たが、「とにかく変わった子でした」というだけ。「株をやる小学生」に影響を与えた先生はいたのだろうか。

  世間をアッと言わせた究極の「勝ち組」(この言葉は好きではないのだが)として、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんがいる。彼の生き方と、小学校低学年のときの出会いは、村上氏のそれとはかなり異なるものだった。家族が読んでいた国松俊英『理科室から生まれたノーベル賞――田中耕一ものがたり』(岩崎書店)を横から眺めていて、改めて田中さんの「偉大な素朴さ」を思った。

  早くに母を亡くした田中さんは、のこぎりの刃を研ぐ仕事をしていた父の姿を見ながら育つ。古くなったのこぎりの刃をもとに戻すには、とても時間と根気がいる。この父の仕事から、田中少年は「時間をかけて育てあげていくこと」の大切さをしっかり教えられたという。他方、母代わりの祖母の口癖は「もったいない」だった。田中少年が紙をまるめて捨てようとすると、「そんなことをすると、もったいない」といって、広げて鼻紙にするように言われた。そこから、「どんなものでも捨てたりしないで、大切に使う心」を学んだという。
  幼稚園の担任の蜷川先生は、「お米ひとつぶ、ちいさな紙一枚でも、これをつくってくれた人の汗と苦労がつまっているのよ」と言って、「どんなものでも大切にしよう」と教えた。これは、「もったいない」という祖母の口癖と重なった。ちなみに、昨今の滋賀県知事選挙でアッと驚く知事が誕生したときも、キーワードは「もったいない」だった。シンプルだが意外にインパクトの強い、しかし根源的な言葉ではある。

  ところで、田中さんが小学校低学年のとき、担任になった沢柿先生は、大学で化学を専攻。理科教育に力を入れ、実験と観察をたくさんとりいれた授業をやった。田中さんにとって、この先生との出会いは決定的だった。
  沢柿先生は、いろいろな教材や実験器具を準備するため、放課後に理科準備室によく残って仕事をした。夜になっても理科準備室に灯がついていることが多かった。学校の近くに住んでいた田中少年は、友だちと一緒に夜の理科準備室をのぞきにいった。田中少年は、先生の実験の準備の手伝いをし、このことでますます理科が好きになっていった。
  沢柿先生の理科の授業は面白かった。透明な液体を試験管に加えていくと、次々に色が変わっていく実験。砂糖に硝酸をかけると、火山噴火のあとのような茶色の小さな山ができる実験。みんな目を輝かせたという。
  あるとき、沢柿先生が磁石の力を観察する実験をしようと、理科室で準備をしていた。水に浮きをつけた針を浮かべ、磁石で引き寄せる。ところが、磁石の力が強く、引き寄せるのが速すぎて、じっくり観察できなかった。先生は針の動きを見ながら考えていた。そこへ田中少年がやってきて、磁石に引き寄せられる針を見ながら言った。「先生、水のかわりに油を入れたらどうかな」。先生がその通りにやってみると、浮きをつけた針は、油のなかをゆっくり磁石に引き寄せられていったという。「うん、これなら、針が動くところをじっくり観察できるよ。ありがとう、耕一くん」。

  東北大学に進学した田中青年の存在は地味だった。大学院への進学をすすめられたが、島津製作所への就職を決めた。そこで田中青年は、専門の電気工学ではなく、化学分野の研究をまかせられた。入社2年目の秋。田中青年は仲間4人と、たんぱく質にレーザー光線をあてて、たんぱく質を壊さずに細かく分ける研究をしていた。失敗の連続だったが、「もったいない」と思って捨てなかった補助剤をたまたま混ぜ合わせた結果、レーザー光線の力を弱める補助剤の発見につながったという。これが「ソフトレーザー脱着法」として、2002年度のノーベル化学賞を受賞することになる。

  『理科室から生まれたノーベル賞』はとくにドラマチックな話でもなく、文章も淡々としていて、けっこう地味である。家族が読んでいたのを横入りしてみたが、読了してみて「うーん」というものはあまりなかった。確かに真面目で誠実な人柄であることはわかったが、ノーベル賞受賞後の田中さんの言動すべてに共感できるわけではない。ただ、小学校低学年、特に3年生のときにすばらしい理科の先生と出会ったことが、田中さんにとって決定的とも言える影響を与えられたという点に、私は興味を覚えたのである。

  小学校3年生は、人間の成長にとって実に重要な時期である。ロストウ流に言えば、「離陸への先行条件期」と言えるだろう。実は私自身も、小学校3年生のときの先生の影響が大きい。私の場合は、理科の和知光儀先生だった。いつも腰に手拭いを下げていて、とにかく気さくで、おもしろい先生だった。私が理科が好きになったのは、この先生の影響が大きい。とくに「季節便り」というものを毎日書かされた。登校してまずこれを提出。「見ました」の印を押されて、下校時に返却される。キーワードは「今年はじめてです」である。これが必ず入っていることがポイントだ。
  「今日、ダイコンの花を見つけました。これは今年はじめてです」「今日、お滝のところでマムシを見ました。今年はじめてです」「今日、東郷寺の桜が満開になりました。これは今年はじめてです」という形で、毎日の変化を書きとめていく。A5の大きさに切った画用紙に、絵はクレヨンで書く。とにかく、これを毎日続けさせられた。3年が終わる頃には、大きな束になっていた。

  私の場合は、本来の「季節便り」からどんどんズレていった。「今日、夕飯でトリの唐揚げを食べました。今年はじめてです」。先生に、「なんだこれは、お前の家だけが初めてなんだよ」と笑われた。毎日、「何か新しいこと」を見つけなければならない。ネタを求めて、あちこち歩きまわった。これは、新聞の地方支局で記者一年生が必ずやらせれる「地ダネ」の取材のようなものである。歩いて、歩いてネタを探し、それを短い文章にして記録する。コツコツやる。面白いものを見つけるために、まずは足が動きだす。これが、小学校3年生のときに和知先生から教わり、私の体に染みついたと言えるだろう。当時、庭の誘蛾灯の下には水を入れたタライがあり、毎朝、そこにはかぶと虫やクワガタ、カナブンなどがたくさん泳いでいた。それを「救助」に行き、珍しいのがいると捕まえて、昆虫標本を作った。当初、「季節便り」は虫のレポートが多かったように思う。

  だが、私の観察は、季節感あふれる自然観察から、しだいに地域の出来事など、「社会」の観察へと移っていった。「季節便り」というよりも、社会的事象が多くなっていたように思う。だから、私の「季節便り」を級友の前で読み上げさせらたとき、よく笑われたものである。この頃から、「朝穂君は変わった人」になっていた。

  社会科学の道に進むのを決定的にしたのは、5、6年の担任になった中島進先生の影響だろう。私の実家は、東京競馬場が目黒にあった時代からの馬の獣医だった。1936年にいまの府中に移り、それ以来、いずれは獣医の四代目を継ぐものと思って小学校や中学校時代を過ごした。だが、私の運命は、理科から社会への転換によって生じた。5、6年生のときに、中島先生の影響で、地理や歴史、政治経済に関心を抱くようになったからである。中島先生は、毎回の授業で、ご自身で準備された模造紙の教材を黒板に張る。世界や地域の地図や産業の統計、歴史の資料などの教材は、きれいな字で、カラフルに、しかもビジュアルにつくられていた。これを見つめながら、世界や日本全体のことに心をはせていった。

  6年生の冬休みのこと。私は自由研究で、長い長い「巻物」を作った。画用紙を100枚近くも張り合わせ、世界各国の人口、面積から政治、経済、文化、軍事に至るまでのデータを書き込んでいくのだ。大晦日も正月もなく、ひたすら百科事典などを調べて、各国のデータを書き込んでいった。タイトルは「世界の国々」。何十カ国も書いたから、25メートル以上にもなった。休みあけ、学校の長い廊下に張り出された。いま思えば、何の意味があったのかはわからない。でも、産業や地理的データに比べて、妙に軍事データが詳しかったことを覚えている。今にして思えば、それだけたくさんの国々の軍事力や軍事費について調べたことになる。25メートルの「巻物」を作ったときの私の心象風景を今から思うと、中島先生への「対抗心」だった。大きな紙に見事に地図や統計データを書き込むのを授業で見ていて、だったら「量」で張り合うしかないと思って、かくも長い「巻物」を作ったのである。中学に入ると、理科から社会への関心の転換は決定的になっていた。一見無意味に見えて、実は無意味なことだが、私にとっては、社会や軍事への関心を広げる大きな契機となった。まさに「無意味の有意味」である。

  もう一つ、中島先生の戦争体験の話も印象に残っている。先生は中国戦線(北支か中支かは忘れた)に従軍した。下士官だった。分隊長(?)として、何人かの部下を連れて、遮蔽物の何もないだだっ広い丘のふもとで動けなくなる。丘の上には中国軍の機関銃座があって、正確に射撃してきたからである。飛び出せば、確実にやられる。固定した重機関銃の命中精度は高い。先生は、部下に申し渡す。「これより昼寝をする」と。どれくらいたっただろうか。あたりは暗くなっていた。そして、丘の上の機関銃座に気づかれないように、そーっと通りすぎていったとのことである。
  悲惨な戦闘の話は出なかった。あえて抑制したのだろう。しかし、私の心に残ったのは、勇ましく「適中突破」するというのでなく、「昼寝をする」という、何とものどかな、しかし確実に生き残れる賢い方法のことである。その少しあと、たぶん中学生の時に観たテレビ映画「コンバット」で、同じようなシーンに出会った。ドイツ軍のトーチカが小高い丘の上にあって、サンダース軍曹らがそれを攻撃するのだが、中島先生の場合の「昼寝」とは対照的な結果となった。スティーブン・スピルバーク監督作品「プライベート・ライアン」にも、のどかな丘の上にドイツ軍陣地があって、それを潰すために、数人で攻撃をかけ、何人も仲間が死傷する場面が出てくる。トム・ハンクスの虚しい表情が印象的だった。遮蔽物のない、見晴らしのいい小高い丘の上に据えられた重機(MG) を制圧するのは、砲兵の援護がない限り、きわめてむずかしい。現実感覚と適切な判断力、それにユーモアをもって「昼寝」を命じた分隊長。私は極限状態でも、人間くさくユーモアを忘れず、気張らず、本音で生きる人間に好感をもつようになったのは、中島先生の話からかもしれない。こうした問題意識は、その後、札幌で久田栄正教授と出会い、その戦争体験を聞き取って本にするときに確実に役立ったように思う。拙著『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年。絶版につき、図書館などで参照されたい)に流れる、他の戦争体験記にない視点は、おそらく、小学校のときに出会った中島先生の影響が大きい、と今にして思う。

  以上の話を通じて言えることは、小学校の先生の存在は非常に大事だということである。この10年あまりの間の様々な施策によって、教育現場はますます息苦しくなっている。でも、小学校の先生たちには、自分たちの仕事の重要な意味について思いを致し、希望を失わずに、真剣に子どもたちと向き合ってほしいと願う。

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