「語り部の話は退屈だった」か――水島ゼミ沖縄2006夏  2006年10月30日

なり遅くなったが、今年の水島ゼミ沖縄合宿について書こう。帰京した翌日、NHK ラジオ第一放送「新聞を読んで」で合宿のことを簡単に紹介した毎回台風に悩まされた沖縄合宿だったが、今年は全日程を通じて天気に恵まれ、ほとんど快晴だった。水島ゼミ生37人は、平和班、エイサー伝統芸能班基地班、産業班、久高島山村留学班の5つに分かれて、沖縄各地に展開して取材を行った。私はこのうち、平和班(班長・廣瀬由衣)が企画した「ハイサイ平和――真の継承とは何か」〔Word〕という討論会に参加した(糸満市の平和祈念資料館会議室)。なお、多くの読者は私と沖縄との関わりをご存じだが、今回初めて訪れた方は、私の見解を誤解されないようご注意いただきたい。私の発言は沖縄の事情を十分踏まえた上でなされており、私が沖縄について語った文章は、この10年で相当な数になる。地元『沖縄タイムス』紙だけでも、64件ある。同紙の全記事検索で「水島朝穂」と入力して検索すれば読むことができる。念のため。


   さて、合宿3日目(8月30日)、 那覇市内の宿泊していたホテル前からタクシーで南部に向かう。そこで思わぬハプニングが起きた。運転手が、平和祈念資料館への道を知らなかったからである。那覇を出るとき彼は、「南部に行くのは初めてです」と言ったのだが、私は「今日は初めてです」という意味に取り違えていたのだ。「ひめゆりの塔」の前などで停車しようとするので、変だなと思いはじめていた。60歳前後の運転手だったから、まさか南部が初めてということは思いもよらなかった。だが、平和祈念資料館を行き過ぎて海沿いの道を走りはじめたので、本当に南部は初めてなのだとようやくわかった。私はやや不快な顔をして、いろいろと話を聞くと、昨年、会社を定年で辞めて、タクシー運転手を始めたとのこと。今日まで南部戦跡方面に向かうお客さんにあたらなかったというのだ。
  私はどこの生まれかを訊いてきみた。1945年2月に 読谷村で生まれたという。ということは、生後2カ月で、米軍上陸を迎えたわけだ。私は道を間違えたことなどすっかり忘れて、運転手と話し込んでいた。彼はシムクガマで母親に抱かれていたという。集団死が起きたチビチリガマだったら、殺されていただろう。シムクガマは移民帰りの村民が二人いて、英語で米軍と交渉。1000人近い村民は一人残らず、無事に保護された。そのなかに、生後2カ月のこの運転手さんもいたわけである(『憲法「私」論』〔小学館〕99頁に写真、『沖縄・読谷村の挑戦』〔岩波書店〕も参照)。
  平和祈念資料館に着く。料金を少し割り引いてもらったが、別れ際、「この記念館は初めてきたので、今度、自分でも見学に来たいと思います」と私に語った。沖縄に住んでいる人がすべてこういう場所を訪れているわけではない。なかには、悲しい思い出のつまった南部には決して行かないという人もいるだろう。不案内なタクシーに乗ったことで、いろいろなことを学んだ。


   平和祈念資料館を見学したあと、学生たちは机を並べかえたり、受付をつくったりと、二階会議室の会場設営に入った。定刻になり、参加者がそろった。司会(石崎冬貴、田中美千瑠)の挨拶から討論会は始まった。
   討論会のタイトルを「ハイサイ平和――真の継承とは何か」としたのは、平和班に所属する沖縄出身の赤嶺貴子の発案だった。「ハイサイ」とはウチナー口(方言)で「分かれた人よ、ふたたび、こんにちは」という意味で、英語の「ハロー」に近い。平和をめぐって意見や立場が分かれることが多い。平和班も合宿前から徹夜の討議を繰り返してきた。そして、「平和よ、こんにちは」という感覚で、むしろ「真の継承とは何か」に主眼を置こうという結論になったようだ。私もその方向を支持した。
  冒頭、私が挨拶した。内容はパンフの挨拶文と重なるので、ここに掲げておこう


  「戦後の還暦が過ぎ、いま、戦争体験の継承の問題はどこでも重要で、また困難な課題です。
   ある高校が「語り部の話は退屈だった」という英文の入試問題を出題したことは、大きな反響をよびました。沖縄の怒りは十分理解できます。しかし、あの出題をした教師の問題意識はまったく間違っていたのでしょうか。メディアの報道の仕方にも問題があり、非常に不幸な形で沖縄に伝わり、あのような議論になったと可能性があります。どうやったら戦争体験が継承できるか、という点での問題意識は、あの出題をした教師も持っていたようです。ただ、それを入試問題という形で出したこと、解釈の余地があり、微妙なニュアンスが伝わりにくい英文だったこと、解答の選択肢に考慮が足りなかったことなど、不適切な面は否定できず、批判されてもやむをえない面があったと思います。
  『語り部の話は退屈だった』という反応がなぜ出てくるのか。この事件からも明らかなように、戦争体験をどう継承するかは、61年も経過すると一筋縄ではいかないことは明らかだと思います。私としては、戦争体験の継承は、内容的な整理から表現方法の練磨にいたるまで、本格的な検討が必要と考えています。これはヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、そして東京空襲をはじめとする空襲体験、さらにアジア諸国との関係での「加害体験」の継承の問題にも共通する問題です。
  この企画を考えた『平和班』も、おそらく私と同じように、この問題を正面から扱い、沖縄の『現場』であえて議論したいということだと思います。この問題意識を是非お汲み取りいただき、今日の企画にご協力いただければ幸いに存じます。ただ、なにぶん学生のことですので、アポイントから企画全般に至るまで、配慮の足らない面が多々あると思います。そこは『学ぶに生きる』という真昼前を歩む若者たちのチャレンジ精神と知的好奇心に免じてお許しください。どうぞよろしくお願いします。……」


  挨拶文のなかで「ある高校」としたのは、2005年6月、英語入試問題に「語り部の話は退屈だった」という文章が含まれていることが大きく報道された、青山学院高等部のことである。『沖縄タイムス』2005年6月9日付夕刊「ひめゆりの証言『退屈』――東京の私立高入試問題」という見出しの記事がきっかけだった。沖縄では、「元ひめゆり学徒ら『青山学院高許せない』」「出題に怒りと悲しみ」といった反応が直ちに起こり、「想像力が欠如している」(『沖縄タイムス』6月12日付社説)といった批判が続いた。「吐き気がする」という投書まであった。いずれも入試問題の文章をすべて読んだ上での意見ではないだろう。新聞見出しの「退屈だった」に対する感情的反発である。沖縄メディアの報道の数日後には、青山学院高等部長(校長)が沖縄入りして、元学徒らに直接謝罪した。そのあたりの経過は、『青山学院高等部入試問題に関する特集』(ひめゆり平和祈念資料館、2006年3月発行)に詳しい。

  この入試問題、よく読んでみると、決してひめゆり体験者や語り部を非難するようなものではない。むしろ逆である。平和教育に熱心な同校のこれまでの経験を踏まえて、戦争体験者が少なくなり、そのメッセージをどのように継承するかということについて、さまざまな工夫が必要なことを考えさたいというのが出題意図のようである。だから、長文読解問題文の最後はこう終わっている。「あなたが青山学院高等部の生徒になったとき、あなたは修学旅行で長崎を訪れるだろう。あなたは原爆を経験した人々の体験談を聞く機会があるだろう。そのとき、あなたはどんなメッセージを受け取るだろうか」と。

  そういう立場から10問の設問が始まる。その7番目。「なぜ筆者はひめゆり記念公園で語られた話が好きではなかったのか」というのが問題とされた。
   問題文の当該箇所。ひめゆり公園で語り部から話を聞いた問題文の筆者は、こう述べる


  「確かにひめゆり部隊で生き延びた老婦人が私達に語った体験談は、ショッキングだったし、戦争のイメージについてもすごくよく伝わった。でも、ほんとうのことを言うと、私にとってはそれは退屈だったし、私は彼女の体験談を聞いているのが嫌になってしまった。彼女が話せば話すほど、私はあの洞窟の強い印象を失った。私は、彼女がその体験談を何度も何度も、とても多くの機会に話しているからそれを語るのがうまくなっているのだということがよく分かった。彼女の体験談は、母親が赤ん坊に枕元で語る話のように、実に簡単に口をついて出てくるような感じだった。もちろん、私の友達の何人かはそれに感動したし、だから私は、彼女の体験談には何の意味がないなどとは言うべきでない。…」。


  この文章を英語で理解して、語り部の話が好きではなかった理由を選ぶわけである。選択肢は4つ。

 A:彼はすでに話の全体を知っていたから。
 B:彼はそれがウソだと知っているから。
 C:彼は老婦人が彼を子どものように扱っていると思ったから。
 D:彼は彼女の話し方が好きではなかったから。

  正解はDとなっている。語り部の話し方に問題があるということである。壕のなかで灯を消して恐怖を体験したのと違い、あまりによどみない語り口に装飾とステレオタイプ化を感じたということだろう。新聞は、問題文の方の「退屈だった」「体験談を聞いているのが嫌になってしまった」という下りだけをセンセーショナルに取り上げて報道した。

  ちなみに、この問題の10番は、「筆者は、あなたがこの学校に入った後に就学旅行で何をしてほしいか」(What does the writer want you to do at the school trip after entering in this school?) という問いかけになっていて、選択肢は4つある。

 A:防空壕を見つけるために注意深く町中を歩く。
 B:長崎よりも沖縄に行くように行き先の変更を学校に頼む。
 C:あなたが聞くであろう話について考え、あなた自身の意見を見つける。
 D:修学旅行の後に戦争を止める何らかの種類の行動を起こす。

  この正解はCなのだろう。でも、Dは完全に間違いだろうか。問題文にはsome kind of actionとあるから、デモや集会に出ることばかりでなく、戦争について新聞に投書したりすることなども含むだろう。Dが完全に間違いということにはならない。

  入試問題にこういう微妙なテーマを扱って、正答を求めるということは適切さを欠いていた。しかも、戦争体験の「押しつけ」に反発を感じ、そのことを問題にしたはずの筆者(教師)が、その思いを、ある意味では受験生に「押しつける」結果になってしまった。平和教育に熱心で、毎年広島、長崎、沖縄に修学旅行をやっている高校であり、問題作成者の姿勢も真摯で誠実なものである。ただ、教員の問題意識を十分に整理しないまま、それを入学試験という正解を要求する競争試験の場で用い、かつ設問の段階で単純化が不可避であることを自覚せずに行ったことは問題だろう。「考えさせる問題」というのが入試でも期待されるとはいえ、4択問題の選択肢にするには、あまりに重いテーマであり、そうしたさまざまな議論を要する重いテーマを入試問題の選択肢という形で軽く扱ったところに、高校側の弱点があった。沖縄メディアの投書欄に殺到した怒りの投書は、その意味では、不幸なすれ違いと言えよう。


   さて、討論会「ハイサイ平和」は、まず、この青山学院高等部入試問題の話から始まった。元ひめゆり学徒隊の宮良ルリ氏(ひめゆり平和祈念資料館証言員)はいう。「初めはひどくショックだった。校長から謝罪を受けたが、これからどう継承していくかについて継承を伝える側と受ける側が共に考えるべきだと思う」と。以下、平和班長の廣瀬由衣のメモから主な発言のみ再現しよう。

 司会:「共に考えるべきという意見が出たが、今後継承が難しくなるなか、どうやって伝えていくべきか。新しい取り組みなどをしていたら、お聞かせいただきたい」。

 仲田洋一氏(平和祈念資料館):「この資料館のような施設の存在自体が継承である」。

 平良宗潤氏(糸満市 を考える会):「教材の生かし方としては、戦跡巡りやガマに入る体験などが考えられる。これらは、各小中学校で慰霊の日前後の特設授業で取り組まれているが、普通の授業でこれらにどう取り組んでゆくかが、課題である」。

 金城善氏(糸満市教育委員会):「身近にある戦争に関係するものを掘り下げていくのがよいのではないか。例えば、兵隊の墓標などは、意外に今まで平和学習に使用されてこなかったが、その兵隊は子どもたちに対して英雄としてまつられていた戦前教育についてどう考えるかなど、戦争を考えさせるのに適切な教材であると思う」。

  ここで、司会が、戦争体験の継承の方法(伝え方)の問題を提起した。

 水島:「銃剣を例にとると、アジアの人々は日本軍の恐怖を異様に長い銃剣として記憶している。私は授業で本物の銃剣を見せている。武力の物理的恐怖。人を殺したときの実体的恐怖を学生に実感させるためには、『モノ』に語らせることが必要である」。

 高校生A:「戦車で殺されたといっても実感は湧かないが、『カミソリで殺された』と身近なもので言われると、実感がわく」。

 仲田洋一(平和祈念資料館):「平和祈念資料館では、水筒を触れられるように展示している。ただ、証言と一緒に展示しないとただのモノになり、意味がない」。

 宮良ルリ:「『モノ』に触れることは大切だが、凶器に変わるという懸念がある。代替品でいかに伝えられるかが課題だと思う」。

 普天間朝佳(ひめゆり資料館学芸員):「宮良さんの話に補足すると、例えば艦砲射撃の砲弾などを展示しているが、これを誰にでも触らせるというようなことは、危険であるからできない。ただ、今日学生のみなさんの話を聞いて、『モノ』を使う重要性を感じたので、前向きに検討したい」。

 水島:「私が言いたかったことは、『モノ』選びが大切であるということ。例えば、動物園の触れ合いコーナーでも、ライオンではなくうさぎなどの小動物が選ばれている。また、実際に触れなくてもよいから、その『モノ』を使って想像力をかきたてるような工夫が大切であると思う」。

  ここで司会が、「平和教育とは何を伝えることなのか」について問題提起をした。

 加島由美子(糸満市教育委員会):「市内のいくつかの小学校で壕の案内などをしているが、平和教育において重点を置いているのはお互いを理解することであるように思う」。

 高良鉄美(琉球大学):「学生が、小中学校の平和教育に不満を感じていないと言えば嘘になる。その不満を解消していくのが大学での『学び』であると思う。継承のバトンを受けとるのにも、手を伸ばす準備が必要だろう。その意味で能動的に継承を受けていかないと意味がないと思う」。

 真喜志美恵(琉球大学):「伝えるということは、インデックスを提示するに過ぎないと思う。教えることに関していえば、学生がもともと問題意識を持っているのに気づいていないところに、具体例を投入してあげることでその問題意識に気づかせるというような役目だと考えている」。

 平良宗潤(考える会):「何を語り、伝えるかということだが、たくさんある証言をそのまま伝えることが適切でないことは確かである。語る側は、単なるスピーカーであってはならない。たくさんある証言の中から選ばれた教訓を語ることが必要だ。例えば、壕の中で、泣いている幼子を殺せと命令したのは確かに日本兵だったが、周りの一般人もそれを黙認し、あるいは加担した。何が彼らをそのような精神状態に追い詰めたのか、そのエピソードから自分が読み取ったものを伝えることが重要だ」。

 金城善(糸満市教育委員会):「十年前、自分の息子が中学生のときに作文に『沖縄戦は怖かったのかなあと思った』と書いたところ、先生に「『沖縄戦は怖かった』でしょ?」と怒られた。息子は、当時沖縄戦を怖いと感じるほどの情報を得ていなかったのでそれを素直に書いただけなのに、これを注意されるというのはおかしいと感じた。押し付けの平和教育は、無理がある。また、自分の高校時代、『綺麗な日本の海をどう守るか?』といったテーマで考えさせられる機会があったが、これはまるで仮想敵国をつくろうとしているようなテーマだと思った。家族を守るために平和を伝える、という考え方も確かにあると思うが、それでは守りたいからこそ戦うという論理に結びつくのではないか」。

 福田(ゼミ生):「押し付け教育の話が出たが、平和教育の目的は、平和の押し付けのような価値観を伴ったものより、考える力をつけてもらうためという目的の方が適切であると思うのだが、この点皆さんはどうお考えになるか」。

 安田國重(友の会):「私は、平和教育はお互いの命を尊重するところから始まると思う。いくら戦争がなくても、親殺し、子殺しが横行している今の世の中が平和だとは思えないからだ」。

 高校生B:「小学校のときの道徳の授業で、戦争に関する資料を読まされて、作文を書かされたとき、『文章の書いている意味がわからなかった』と書いたら、先生に残されて注意を受けた経験がある。先生の意見に合わせて作文を書かなければいけないという風潮があるのはおかしい。また、平和学習の際、先生も資料に書いてあることをそのまま教えるのではなく、先生自身がそのことについてどう感じているのか話してほしい」。

 水島:「まず、平和教育は押し付けであってはならない。次に、継承の目的について、沖縄戦から導き出される本当の教訓について考える必要がある。シムクガマにいた人々はなぜ助かったのか、考えてみるとわかる。最後に、継承の手段について。手段がマンネリ化してはいけない。五感を生かした伝え方の工夫が必要だ。データなどの科学性は確かに必要だが、それだけではリアリティに結びつかない。写真など、ビジュアル面で補うといった工夫が求められる。戦争体験は『伝える』ものではなく、『伝わる』ものであるべきだ」。


  簡単なメモから3時間にも及ぶ討論会のすべてを再現することはできない。ここに紹介されていないが、私には、6人の高校生と1人の中学生の発言がそれぞれ印象に残った。ガマのなかで自分の子どもをカミソリで殺す母親の話を、身震いすることなく聞くことはできないだろう。「『カミソリで殺された』と身近なもので言われると、実感がわく」という高校生の発言は、いまに生きる人々の「日常性」のなかに置き換え可能な形で想像力をかきたてる工夫の必要性を感じる。
   私は授業や講演で、冷戦グッズやポスト冷戦グッズなどを持参して、学生に粗末に扱われたときは、大声で叱ったことがある。いま、この原稿を書いているすぐ近くに、61年前、P51ムスタング戦闘機の機銃掃射でできた貫通痕がある。これは「痛みを伴う『塀の穴』の話」として紹介した。また、砲弾が飛び散り、破片として人体を切り裂く痛みへの想像力については、「地雷と破片」で書いた。「ちゃんばら」も、切られ役がすぐに死ぬから見ていられるのであって、切られたあと七転八倒を続けたら、まず見られない。戦争映画もそうである。だから、人は映像と実際を勘違いしている。人間が一人死ぬことの悲しみの深さへの想像力が求められている。そして、言葉の使い方も重要である。「艦砲」という言葉をひめゆり記念館の方がされたが、私がその場で確認したように、「艦砲射撃の砲弾」とすぐに理解できた学生はいなかった。丁寧な伝わる言葉づかいが求められる所以である


   高校生の一人は言った。「小学校のとき、毎年時期になると対馬丸の劇や、パネルなどを見て、『戦争は絶対にいけない』という意識は植えつけられたが、どうして沖縄戦が起こったのだろうか、というような問いに答えてくれる教育は受けられなかった」と。これは鋭い指摘である。戦争の現象面と同時に、戦争の原因論についても、思考を刺激してくれる語りが必要である。

  「沖縄戦は怖かったのかな」と書いた生徒が教師に怒られたという話は非常に印象に残った。教師の罪深さである。「戦争は悪いものなのよ」と結論だけ押しつけるのは、平和教育でも何でもない。生徒の出した疑問から、実は大切な教育が始まるのである。平和教育をつまらないものにしている教師がどれほどいるか。

   語り部や戦争体験者の話も同様である。私もたくさんの人々に会って話を聞いてきた。 そのすべての体験に共感したわけではない。別のあるシンポジウムでは、自己の体験をただひたすら語り、聞き手のことなどまったく省みないタイプにも出会った。司会が紙を届けて終了を求めても、与えられた時間の倍以上も延々と話し続け、その結果、そのシンポジウムの時間がかなり減ってしまった。
  どんな苛烈な体験でも、そのままでは若い人々に通じないということは、どこでも共通の悩みとして存在している。体験者の個別的体験はあくまでも小状況の一コマにすぎない。それを歴史の大状況のなかにうまく組み合わせる工夫も必要である。戦後61年もたって、時代も社会も大きく変わった。体験側の「伝えたい」という想いは、子どもたち、あるいは若者たちには重いと感じることも少なくない。「伝えよう」としてもだめである。「いかに伝えるか」ではなく、「いかにしたら伝わるか」という自動詞で考えるべきだろう。「結論の押しつけ」「体験の押しつけ」として子どもたちに受け取られてはいないか。語り部自身も常に自己検証が求められている。「語り部」に人間的誠実さを感じたとき、子どもたちや若者たちの感性は決して鈍感ではない。昔もいまも 、感動する心、心に響く言葉に敏感に反応する感性は失われていない。

  修学旅行などでは、教師の側が、「語り部」に甘えている側面もある。体験者の話を聞かせれば、生徒は理解するだろうというのは間違いである。事前にきちんと歴史や問題点、課題などを勉強した上で、体験者の話を聞く。語り部への丸投げは誤りである。


   私は20年前に、戦争体験者の憲法学者の聞き取りをやるとき、常に体験者から距離をとるようにつとめた。あるときは厳しい批判もした。「戦争反対なら、先生はなぜ兵士のままでいなかったのですか。幹部候補生試験を受けて、将校になったのは矛盾ではないですか」と。一瞬の沈黙のあと、自己正当化の傾きを持ちながらも、彼は必死に自らの気持ちを語っていった。そして、その質問に「いま」答えることで、そのときの気持ちを整理しようとしていた。その息詰まる 過程を、戦争体験者と共有した。こういうスリリングな体験を積み重ねてきた私にとって、化石のように体験を押しつける「語り部」に対しては、「語り部の話は退屈だった」と率直に言うべきだと思う。だが、それを入学試験でやってはいけない。

  「『戦争体験を語り継ぐ』とは、戦争反対とか平和を守ろうとかの、お題目を学ぶことではない。戦争を語り継ぐとは、戦争体験者の魂の深みにまで降りてゆき、見たこともないもの、新しい価値を発見して、ふたたび上がってくる創造的な仕事だと思う」(下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか――元ひめゆり学徒と若者たちの500日』〔岩波書店〕ⅵ頁)。まったく同感である。この言葉をもって、水島ゼミ2006年沖縄合宿「平和班」主催の「ハイサイ平和」の報告を終えることにしたい。

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