わが歴史グッズの話(21)艦砲射撃の「証」  2006年12月11日

会の会期末(12月15日)を前にして、今週、教育基本法改正案「防衛庁→防衛省」法案といった重要法案が、決定的な局面を迎える。米国でイラク戦争をめぐり方針修正の動きも出てきた。国連を含め戦争反対が圧倒的という状況のもとで、あえて米英がイラク開戦に踏み切ったところに問題の根源がある。開戦当日、「ブッシュ大統領の行動を理解し、支持します」と小泉前首相はいち早く支持を表明した。それをいまになって「小泉前首相の個人的見解だった」と、久間防衛庁長官が語ったのである。「9.11総選挙」からわずか1年3カ月で処分した11人の議員を復党させた自民党。復党する方にも、させる方にも、まともな説明も論理もなかった。かつて、この「直言」でも、その著『自民党が殺された!』を紹介したことのある自民党元総務会長。彼は、「一度も郵政民営化反対とはいっていない」と平然といってのけ、復党した。政治家の発言の「賞味期限」は3カ月ももたなくなってきたようである。
   というわけで、書きたいことは山のようにあるが、急に入った仕事のため、今回はストック原稿をUPすることをお許し願いたい。「わが歴史グッズ」シリーズの21回となる。前回は「戦場の手鏡と『大和』」だったが、今回は「艦砲射撃」で使われた戦艦主砲の破片である。

  8月の沖縄合宿で行った、「ハイサイ平和」という討論会でのことである。平和教育のリアリティのため、「モノ語り」が大事だという議論になった。その際、沖縄の関係者の一人が、「カンポウの破片は重いので、見学者に触らせるのは困難である」という趣旨の発言をした。私は周囲の学生に「カンポウって何だかわかる?」と聞いてみた。全員が知らなかった。法学部生だから「カンポウ」と聞けば、「官報」を想起する者の方が多いかもしれない。図書館にある製本したものは、けっこう分厚くて重い。私は院生時代、図書館の書庫でくしゃみをしながら(古いものはほこりがすごいのです)、1950年代の法令を調べたことを思い出す。最近の学生たちはネットやCD-ROMで検索するから、あの製本した分厚い官報を知らないかもしれない。

  話が横道にそれたが、沖縄合宿で話題となった「カンポウ」とは、艦砲射撃のことである。15世紀頃から450年以上、軍艦と軍艦による海戦が中心だったが、第二次大戦では、上陸作戦を支援するため、地上射撃が行われた(黛治夫『艦砲射撃の歴史』原書房など参照)。戦艦や重巡洋艦などの主砲を使って、地上目標に向かって一斉射撃する。これが艦砲射撃である。一般的な戦艦の場合、前部砲塔の主砲計6門、後部砲塔の主砲3門の計9門を使えば、地上目標に大きな損害を与えることができる。日本で一般の人々に「艦砲」として記憶されているのは、沖縄戦の上陸開始時に行われた激しい艦砲射撃のほかに、1945年の7月以降、釜石(7月14日、8月9日)、室蘭(7月15日)、日立と勝田(7月17日)、浜松(7月29日)に行われたものが中心だろう。
  なお、潜水艦による艦砲射撃という信じられないことも行われた。7月31日には、米潜水艦が、清水市と苫小牧市を砲撃した。ガトー型潜水艦の装備は、50口径3インチ単装砲。王子製紙苫小牧工場は20発ほどが着弾し、「従業員の動揺は激しく」とある。最近観たクリスト・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」のなかにも、硫黄島上陸前の激しい艦砲射撃のシーンが出てくる。ドルビー低音によって、艦砲射撃の瞬間、客席まで震える迫力があった。

  さて、これは、米戦艦の16インチ(40センチ) 砲弾の破片である。私の素人写真では全然迫力が伝わらないのが残念である。40センチ×11センチ×3センチで、重さは5.2キロ。見た目よりもはるかに重いので、これを持ち上げた人は一様に驚きの声をあげる。しかも、切断面は鋭利な刃物のようになっており、紙をあてるとスパッと切れるのだ。
  こんな巨大な破片が真っ赤に燃えて飛び散る。あたれば体はバラバラになってしまうだろう。とにかく手で触れるだけで、背筋に冷たいものが走る、そんな異様な迫力をもっている。
   研究室には、日米独など各国の砲弾がある。火薬はすべて抜いてあるので、安全性に問題はない。120 ミリ戦車砲弾の薬莢もあるが、根元の一部をカットした大きな灰皿になっている。こういうものに比べ、この艦砲破片のインパクトと存在感は群を抜いている。

  ところで、この破片は、茨城県勝田地区(現ひたちなか市)の日立製作所と現在の陸上自衛隊施設学校・施設教導隊があるあたり(同市勝倉)が砲撃されたときの破片とされている。これを保存していた方は、茨城県で古い土蔵や米倉の解体の際に出てくる骨董品を集めている。これは、ある米倉を解体した際、奥の棚にあったという。その家の当主(すでに故人)によって丁寧に梱包され、メモがついていたそうだ。それには、日立製作所の軍需工場などを狙った砲弾の破片という趣旨のことが書いてあったという。メモの現物は息子さんが処分してしまったので、この点については、息子さんから話を聞いたその方からのメールで確認した。

  勝田地区の艦砲射撃は、米軍のどの部隊だったのだろうか。記録によれば、1945年7月17日午後11時14分、米機動部隊(第三艦隊)は、茨城県那珂郡勝田町(現在のひたちなか市)の日立製作所と日立兵器の軍需工場への砲撃を開始したという。その時のことを、体験者は次のように語っている(木坂順一郎『昭和の歴史F太平洋戦争』小学館より)

大谷: 雨がふっていて雷かなと思っていたが、そのうち不意に近くですさまじい地ひびきとともに火柱があがり、夢中で防空壕へにげこんだ。病気でねていた母はこのショックがもとで2日後に亡くなった。医師は死亡診断書に「艦砲射撃によるショック死」と記入した。

高橋: 遠く日立の方がピカッとひかり、ドーンドーンと音がするのをきいていたら、とつぜん家の前でものすごい爆発がおこった。不運にも主人の父が破片で即死した。家から20メートルほどはなれた前の畑に直径8〜9メートル、深さ3〜4メートルの大穴があいているのを見てふるえあがった。

  この勝田地区が砲撃される前日まで、15日には岩手県釜石、16日に北海道室蘭に艦砲射撃が行われていた。参加したのは、戦艦5(ウィスコンシン、アイオワ、ノースキャロライナ、アラバマ)、軽巡洋艦2、駆逐艦9隻の計16隻である。これらの攻撃で、16インチ(約40センチ)砲弾870発が打ち込まれたという。艦砲射撃の犠牲者は死者317人という数字がある。これらの都市に共通するのは、製鉄所があることだろう。砲撃を受けたのは製鉄所の工場や設備だけでなく、工場の従業員が暮らす地域も目標となった。妻子を含めて殺し、労働力の直接的減殺も狙ったものと見ることができる。

  私はかつて在職した札幌学院大学の水島ゼミ生たちと、室蘭の艦砲射撃について調べたことがある。学生たちと室蘭まで行って、艦砲の体験者に直接取材した。日鋼室蘭に勤めておられた駒木佐助氏に室蘭市内でお話を聞いた(1988年)。駒木さんによると、7月15日は曇っていたので、砲弾が着弾したとき、B29の爆撃だと思った人が多かったという。地面がグラグラ揺れて、これは爆撃ではないとわかったという。製鉄所の社宅の損害は、大破165戸、中波104戸、小破266戸。犠牲者は、製鉄所構内で15人、社宅で97人が死亡している。罹災者は2232人に及んだという(駒木佐助『砦(チャシ)のともしび:日鋼室蘭史話(新訂版』(日本製鋼所室蘭製作所文芸部発行、1982年)。社宅地区での死者が多かったことからも、艦砲射撃の狙いがうかがえよう。

  艦砲射撃は、海岸地域にある施設などを集中的に破壊することに「適している」。この時期、すでに空襲によって破壊された沿岸都市にだめ押し的に艦砲射撃した米海軍は、日本海軍との海戦がもはやあり得ないという段階で、「残弾処理」のような発想で攻撃したのではないか。軍事的必要性があったのだろうか疑問である。なお、米空軍も、終戦直前の8月14日深夜から15日にかけて秋田市土崎を空襲している。これは、「消化試合」「在庫一掃」的な空襲だった。次年度の予算をとるために、「残弾処理」をするという慣行はどこの軍隊にもあるようである。戦争を「ビジネスライク」に行う。まさに「戦争商売」である。だが、そうしたことで命を奪われる人々はたまったものではない。艦砲の破片からはさまざまなことが見えてくる。

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