雑談(66)音楽よもやま話(10)元旦と「運命」  2008年2月18日

試・学年末期に入ったので、元旦に書いたストック原稿をUPする。まずは雑談「音楽よもやま話」シリーズ。昨年の2月以来1年ぶりである

  写真は、八ヶ岳南麓の2008年初日の出である。刻々の変化に思わず息をのんだ。その陽光に甲斐駒ヶ岳が赤く染まる。私の頭のなかでは、元旦のニュー・イヤーコンサートで流れるヨハン・シュトラウスではなく、リヒャルト・シュトラウスの交響詩“Also sprach Zarathustra”(ツァラトゥストラはかく語りき)作品30の冒頭、「きわめて悠容と」で始まる「自然の主題」が響きわたった。カメラを持参しなかったので、ポケットに入れてきた携帯電話(カメラ機能)でカシャとやった。右側に富士山が小さく写っている
   人間は時として、自然にも音楽にも「神々しさ」を感じるときがある。太陽の光と自然の風景が織りなす空間には、ヨハンではなくリヒャルトの曲がふさわしい。
   そんな感覚を味わってから、元旦の新聞をゆっくり読む。『朝日新聞』1面コラム「天声人語」は、たまたまベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品67「運命」のことを取り上げていた。第1楽章冒頭の4音について、けっこうこだわった書き方になっている。すでにお読みの方もあろうが、以下に引用する。

 

  ベートーベンが交響曲第5番「運命」を仕上げたのは1808年の初めとされる。第3番「英雄」の完成前に想を得て、第4番を書いても放たず、5年の推敲を重ねた一発必中の作品だった(『名曲解説全集』音楽之友社)▼〈ダダダダーン〉は世界で最も知られた旋律だろう。指揮者の金聖響さんは近著『ベートーヴェンの交響曲』(講談社現代新書)で「冒頭のわずか四つの音が、次々といろいろな楽器に受け継がれ……一点の隙もない巨大な建造物になります」と解説する。▼冒頭の4音は、すべての弦楽器とクラリネットで響かせる。そろえるのが難しそうだ。ベルリンフィルのカラヤンは、指揮棒を一、二、三と振って〈ダダダダーン〉。バーンスタインがウィーンフィルを振った時は、一、二で〈ダダダダーン〉だったという▼この旋律を「運命が戸をたたく音」とする説には異論も多い。確かなのは、人の一生は2世紀前の名曲のように「どの一つの音も完璧に計算された構造物」(金さん)にはならないことだ▼冒頭でダーンと決まるのは故郷と親兄弟くらいで、あとは才覚と努力でどうにでも。ところが、この「公平の原則」が怪しくなっている。富める者がさらに富み、階層や格差が再生産される社会はいずれ行き詰まる▼年末ジャンボの吉凶はすでに決し、次の幸せを願う人の波が神社仏閣を埋めている。さて、08年はあなたの戸をどんな音でたたくだろう。運命を任せる人生では不公平にも勝てない。戸は内側から、自分でダダーンと開けたい。(『朝日新聞』2008年1月1日付「天声人語」より)

 

  私も直言のネタ探しには苦労するが、「天声人語」の筆者も「おせち記事」ならぬ「おせちコラム」を昨年暮れに執筆したとき、ベートーヴェン「運命」200周年を何かで知って、そこから話をふくらませたのだろう、と推測する。後半のつながり具合はやや苦しいものの、演奏に関連した話題は、私の音楽についての思考を刺激した。

  曲の出だし(の合図)のことをドイツ語で“Einsatz”という。「配備」とか「投入」とか訳すが、法律の分野では議論のある概念である。90年代前半、ドイツ連邦軍をNATO域外に派遣する際、武装した部隊の派遣がEinsatzとして問題となった。日本政府の解釈でいえば、「武力行使の目的をもって、武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣すること」=「海外派兵」ということになる。「海外派遣」はできるが「海外派兵」はできないという議論は、ドイツでいえばEinsatzと関わる。

  軍事や法学の世界だけでなく、音楽の世界でも、指揮者が最初に振り下ろす「一音」だから、まさに緊張の一瞬である。ベートーヴェンの交響曲で強奏・フォルテで始まるのは4曲ある。第2番ニ長調と第3番変ホ長調「英雄」。第7番イ長調はフォルテピアノになる。第5番が冒頭から一番激しい。「天声人語」は、カラヤンとバーンスタインのEinsatzの「振り方」にこだわっているが、弦楽器とクラリネットだけでズバッと決めるのはなかなかむずかしい。〈ダダダダーン〉とならず、1音多い〈ダダダダダーン〉になった演奏もある。フランツ・シャルク指揮のウィーンフィルの演奏が有名だ。作曲家のR・シュトラウスが指揮した1928年の演奏(ベルリン・シュターツカペレ)も、やはり1音多く聞こえる。彼は作曲家だからベートーヴェンまで編曲してしまったというわけではなく、「不揃いのオーケストラ」という事情かもしれない。学生時代にシュトラウスがベルリンフィルを指揮する映画(1954年)をみたことがあるが、右手だけで指揮をしていた(「左手はポケットに入れておく」とは本人の弁)。

  父が集めていたレコードのなかに、『フルトヴェングラーの遺産』(グラモフォン)がある。分厚い箱に、全13枚(SMG-9020[1〜13])が入っている。1968年5月発売。ドイツの大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954年)がベルリンフィルを指揮したものである。そのなかにベートーヴェンの「運命」があった。この演奏は、1947年5月、ベルリンでのライブ。日本国憲法と同じだけ時間がたっている。聴衆の咳払いまで入っている。私がこれを初めて聴いたのは40年前だった。「ダダダダーン」の唸るような、かつ重く、引きずる鬼気せまる演奏に、鳥肌がたつ思いだった。中学生のときに耳になれていたカラヤン・ベルリンフィルのテンポの速い現代的な演奏とは対極をなす。

  元旦に、このレコードを本当に久しぶりに聴いた。保存場所との関係で、広島に引っ越したときから聴いていないことになるので、19年ぶりである。
   ジャケットに入っている渡辺譲氏の解説がいい。それによれば、この曲は「はげしいエネルギーの展開の場」であり、第1楽章第1主題が「発展の力の中核ないし萌芽」とされ、「そこから直接的に発展が行われ」「全体が終楽章を目標として前進して行くエネルギーに緊約されている」。この「動的展開」はきわめて慎重に組み立てられ、すきのない「構築性は、劇的発展に尽きざる生命力をあたえている」。そして、「各楽章がそれぞれ異なった特徴を持つにも拘(かかわ)らず、驚くべき一様性を持っている」とされる。「それはどこから来るのであろう。私はその最大の原因を、各楽章の主題形成に求めたい。ベートーヴェンは意識的に各主題に共通の血を通わせた。その姿はそれぞれ異なっていながら、互いに兄弟であり、第5交響曲という大家族の一員なのである」と。

  渡辺解説に刺激され、正月ムードのなかで、日頃できないことをやろうと、父が持っていた「運命」レコードの聴き比べをやった。そんな「非日常」のなかで、同じフルトヴェングラー「運命」のLPを今回初めてみつけた。いままで気づかなかったが、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国、DDREternaという国営企業のもので、ジャケットには「歴史的録音」(Historische Aufnahme)とある。演奏はベルリンフィル。いかにも旧東ドイツらしい簡素で質素なジャケットには、どこにも録音年や場所などのデータが書かれていない。聴いてみると、何と西ドイツのグラモフォン版と同じである。第1楽章の出だしから第1主題提示部まで、フルトヴェングラーが足を踏みならす音から、聴衆の咳払いのタイミングまで。1947年5月のベルリンでのライブ録音に間違いない。その原盤を、旧東ドイツもレコードにしていたのだ。冷戦時代だから、フルトヴェングラーはドイツ人の共通財産というわけで、東西両ドイツで著作権の争いはなかったのだろうか。演奏・録音データが何も書かれていない旧東のレコードは何となく海賊版という雰囲気を漂わす。発売年は1989年1月。父が亡くなったのはその年の6月。ちなみに、「ベルリンの壁」崩壊は11月である。このレコードは、父が、最長で亡くなる5カ月前に、最短で亡くなる直前に購入したことになる。いずれにせよ、父はこの旧東のレコードをあまり聴かないで逝った

  消滅してしまった国のレコードだが、歴史的名演奏には違いなかろう。旧東のレコードは当然モノラル録音だが、この同じ演奏を、西のグラモフォン版は「ステレオ・トランスクリプション」という技術で、モノラル録音を素材として、これに広がり感をもたせる工夫がなされている。その結果、グラモフォン版の方には幅と奥行きが感じられる。ただ、ティンパニの強音が極端に「こもる」のはやむを得ないところか。

  なお、今年5月18日の早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でメイン曲目となるのが、この「運命」である。本当にポピュラーな曲を選んだものだと、私も少々驚いた。ベートーヴェンは、私が楽団会長になってからは、第1番ハ長調、第2番ニ長調、第9番ニ短調を演奏している。でも、第5番「運命」はどこでも演奏される、あまりに一般的な曲である。インスペクター(楽団事務局長)の学生に、「こだわりの選曲とは違うのではないか」と質問してみた。すると、こんな答えが返ってきた。「この楽団は、もともと古典を演奏することを目的として発足しました。来年、創立30周年を迎えるにあたって、古典中の古典をやろうということになり、『運命』に決まりました。創立の『原点』に想いをはせながら演奏したいと思います」と。学生たちは試験明けから、定期演奏会のための本格的な練習に入る。

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