「おかえり」といえる社会に  2009年2月9日

の散歩をしていた昨年6月のある日。郵便局前の掲示板のポスターに目がとまった。女性の顔と「おかえり」という言葉の組み合わせ。それに気づかないで通りすぎるところだった。そうならなかったのは、わが老犬が掲示板の前で「始めた」からである。スコップで袋に入れる作業をする前に、一瞬の時間ができた。それでそのポスターを何気なく眺めたのだ。「人は変わることができる。そう信じることから更生保護はスタートします。あやまちを繰り返すことのないように、犯罪や非行からの立ち直りを、社会の一人ひとりが支えていく。更生への希望は、あなたの『おかえり』から生まれます」とあった。思わずカメラ付き携帯を作動させていた。

これは、更生保護の活動について説明したポスターだった。「おかえり」という響きがいい。

人はどのようにしたら罪を償えるのか。償いとは何か。加害者を「ゆるせない」としていた被害者が、時間の経過のなかで変わってくることがある。「ゆるす」ということが起こりうる。しかし、それは決して簡単なことではない。その点で、この直言でも一度触れたことがある。それは7年前、東京地裁でのこと。判決言い渡しのあとの説諭で、裁判長(後に法科大学院教授を務めた)が、若い被告人に対して、「さだまさしの『償い』という曲を知っていますか」と問いかけたのである。これは当時、かなり話題になった。私も『償い』(さだまさし『夢の轍』TECN-23507所収)を初めて聴いた。なお、そのライナーノートには、山本周五郎『ちくしょう谷』の言葉が引用してある。「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。――ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしていないのだ」と。

昨年12月、井垣康弘・元判事から89回分の連載を送っていただいた。井垣さんは、1997年の神戸少年A事件を担当し、医療少年院送致の審判をした。その後、少年審判を改善する試みや、被害者家族への配慮など、さまざまな先駆的試みを行ってきた家裁判事として知られる。木佐茂男九大教授(当時は北大教授)監修の映画『日独裁判官物語』(片桐直樹監督)にも現職裁判官として出演され、「裁判官にとって頻繁な転勤は必要ないのではないか」というはっきりした意見を述べておられたので、10年前から注目していた。

その井垣さんが、『産経新聞』大阪本社版の水曜夕刊に、「君たちのために」というタイトルの長期連載をされている。第1回は2007年4月4日。89回目が2009年1月7日付である。井垣さんの人間性が滲み出る文章だが、東京で読むことはできない。井垣さんから送っていただいた記事のコピーを紹介しよう。

井垣さんは、「非行少年の教育にたずさわろうとする人は、次の3つを無条件に飲み込んでいなければならない」という。

(1)人は誰でも学んで変わる可能性を持っている。
(2)人はその信頼する者からのみ学ぶことができる。
(3)人は誰かに気に掛けてもらっており、期待されており、大切に思われているという実感がないと安定していられないものである。
少年たちは、そうやって「育て直し」をされていく(07年4月25日付)。

井垣さんはこんな試みもしている。少年審判の法廷では、裁判官と対面する位置に3人掛けの長椅子がある。裁判官から見て約3メートルの距離だ。ここに少年と両親が座るが、その長椅子は、裁判官が座る肘掛け椅子よりも、高さが10センチほど低い。その結果、裁判官が少年と両親を見下ろす形になる。井垣さんは、司法修習生たちに、裁判官席と少年席に座らせて会話を交わす実験をしてみた。その結果、裁判官席ではエネルギーが50%アップするという。自然と背筋がのびて、何でもしゃべれそうな気分になるそうだ。ところが、少年席に座ると、自然とうつむき加減になり、目が上げにくく、言葉もノドのところでつかえがちになり、発言意欲が50%はダウンするという。

そこで、井垣さんは二つの工夫をする。まず、審判のはじめに、少年と親に頼んで、長椅子を約1 メートル近寄せてもらった。「ヨイコラショ!」の一声が場の雰囲気を和ませた。もう一つは、「少年の目線と同じ高さになるように、私が背中を曲げた。(多分その結果、神戸家裁にいた8年弱の間に、私は背丈が2 センチも低くなった)」。2メートル以下に近づくと、コミュニケーションは十分とれた。普通の声で言葉が伝わるのはもちろんであるが、言葉が途切れても、『目と目』で、あるいは『しぐさや顔付き』で話し合うことさえ可能だった」という(07年6月6日付)。

少年事件の場合、更生の鍵は親子の意思疎通力だという(08年5月21日付)。大切な視点だと思う。私の印象に残ったのが次のケースである。

井垣さんは、不登校の中2の少年が関わった集団万引きの事件で、調査をすると、奇妙なことが見つかった。母親が遠距離通勤のため、朝食時間が毎朝5時という超早めだったが、この子は1日も欠かさず毎朝5 時になると必ず食卓について母親の前に座り、朝ごはんを食べる。そして不登校の日はそれからまた寝る。親には「うるさい!」以外一言もいわない子どもなのに、朝食だけは毎朝とる。井垣さんは「愛情飢餓のSOS?」と見当をつけて、少年審判の席で、母親に、「今のこの子で、ほめてやりたい点を5つのべてください」と注文をつけた。1週間に1つ見つけることを目標に、次回期日は5週間先とした。以下、引用する(07年8月8日付)。

第2回期日は傑作だった。母親が褒め言葉を言う度に、その子は身をよじって恥ずかしがるとともに、大喜びしてキャラキャラ笑い続けた。たまたま傍聴していた司法修習生は、『何たる仲良し親子!』と感心していた(実はいつの間にか不登校もなくなっていた)。さて、母親が述べた5つのうち3つだけ褒め言葉を記す。

(1)いつも朝早いのに5時に食卓に座ってご飯を食べてくれてありがとう。その顔と口を見ているだけで、お母さんはとても幸せです。
(2)この間、頭の白髪を見つけて抜いてくれてありがとう。ちょうど18本だったよね。お父さんとけんかし始めてからの月数と同じだったので、びっくりした。
(3)皆から嫌われている近所のおばあさんに、この間お前が丁寧なあいさつをしているところを見た。そしたらおばあさんもニッコリ笑っていたけど、あの人の笑顔を初めてみた。お前は大変気持ちの優しい人間だと感心した。

「被害者忘れがちな少年司法」(08年3月5日付)以降3カ月にわたり、井垣さんは被害者への対応や工夫について書いてある。

担当する少年事件(月約60件)の全件について、井垣さんは被害者への対応を勧告してきた。少年審判規則7条の「事件の記録の閲覧又は謄写の許否の判断は裁判官が行う」を活用して、まず審判の席で、被害者の供述調書を読んで聞かせ、被害者の気持ちを理解させる。例えば万引きのケースでは、審判が終わったらすぐ親と一緒にコンビニに行き、店長に会い、審判で学んだ反省点や決意などをしっかり話しなさいと促す。被害者からなぜ、住所を教えたのかという問い合わせがあったのは1 件だけ。それに対しては、書記官が、「少年審判規則7条により許可したもので、少年の親が社会常識をわきまえた信頼するに足る人物であると裁判官が判断したからです」と返答させると納得したそうである。被害者に対する配慮を、実務の現場で地道に行ってきたわけである。近年、被害者の権利を「報復的」色合いをもって主張し、それにより被疑者・被告人の権利の縮減につながることも危惧されるが、それは結果的に、被害者やその家族の気持ちが変わる「可能性」も閉ざされることを含んでいるだろう。そういうなか、井垣さんは被害者支援の原点に立った試みを続けてきたといえる。

井垣さんは、1997年の神戸の少年Aの事件を担当し、医療少年院送致の審判をした。それから8カ月後の98年6月、井垣さんは最高裁長官と神戸地家簡裁裁判官全員の「懇談会」の席上、少年Aの事件を念頭に、しかし一般論として、長官に対して、被害者遺族のニーズとして8項目を想定して、それに対する法的手当て(法改正)や運用の工夫を提言した(08年1月9日付)。そこには、加害少年についての情報を知りたい、子を殺された親の気持ちを少年や親に語りたい、被害にあった直後から弁護士やカウンセラーなどの支援を望む、少年と連絡をとれる介添え役を望むなどである。10年前に最高裁長官の前で読み上げ、手渡した提言は、その後実現したものが少なくない。ただ、昨年の法改正で実現した少年審判への被害者遺族の参加や刑事司法への被害者参加については、井垣さんも批判的視点をもっているし、私もかなり批判的である。とはいえ、井垣さんが10年以上にわたって提言してきた、被害者遺族への配慮や少年審判の「心」はきわめて大切である。

最後に、井垣さんの連載89本から、タイトルのみを無作為に10本選んで結びとしよう。タイトルから問題意識とメッセージが伝わってくるように思うからである。「審判の教育的機能」(8)、「『小学3年生』が分岐点」(16)、「更生には『育て直し』」(17)、「最も心配な『親の無関心』」(22)、「落ちこぼれを地域で救う」(24)、「被害者からの手紙に涙」(36)、「説明なくして更生なし」(43)、「加害者更生願いセーター編む」(57)、「コツコツと償い続ける意義」(71)、「『家栽の人』地でゆくような…」(88)。

なお、井垣康弘著『少年裁判官ノオト』(日本評論社)には、井垣さんご自身が京大法学部2 年生だった19歳のときに、スクーターの無免許運転で検挙され、大阪家裁での調査官の面接で散々油を絞られた体験も書いてある。

(2009年1月11日稿)


【付記】

参考までに述べておけば、1月23日、被害者訴訟参加制度に基づく初めての公判2 件が、東京地裁で開かれた。被害者・遺族が検察官の横に座り、被告人と対面して直接質問をしたり、検察官求刑に対する意見を述べることもできる。今回は死亡交通事故と傷害事件だったが、前者の法廷で、検察官の横に座った遺族は、懲役1年6月の検察官求刑に対し、「単なる交通事故ではなく、殺人と思っている。実刑を強く望みます」と発言した(『東京新聞』1月24日付など)。

この制度の導入については、当初は法務当局も弁護士会も慎重な姿勢を崩さなかった。だが、2003年7月、犯罪被害者団体の一部が小泉首相(当時)に「直訴」。「憤懣に満ちた声」に感銘を受けた「首相の一声で事態は動きだした」(『朝日新聞』2008年11月15日特集記事)。別の犯罪被害者団体、「被害者と司法を考える会」(代表・片山徒有)は、被害者の精神的負担が増加することや、刑事裁判は被害者による復讐の場ではないこと、「法廷で闘う限られた被害者のための制度は、参加しない被害者への圧力となりうる」こと、裁判員制度は被害者参加を前提として設計されていないことなどを理由として、この法改正に反対していた。被害者団体でも評価が分かれる制度が、実際に動き出したわけである。5月から始まる裁判員制度との「負の相乗効果」が危惧される。

なお、被害者参加制度については、2年ほど前に、NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のなかで批判的な意見を述べたことがる。

(2009年1月25日稿)

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